zames_makiのブログ

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八月の狂詩曲(1991)アメリカ人に和解を要求する正しい原爆映画

メディア:映画 98分 製作:黒澤プロ 公開:1991/05/25
監督:黒澤明 原作:村田喜代子『鍋の中』 脚本:黒澤明 音楽:池辺晋一郎
出演:
村瀬幸子(鉦・おばあさん)主人公、夫を原爆でなくし原爆の恐怖・記憶を抱えている、長崎の田舎で1人住まいで昔風の生活、ハワイに鈴次郎に会いに行くことを決意するが、おかしくなる
井川比佐志(忠雄・鉦の息子)その長男、別居してる、拝金主義者でクラークに取り入ろうとする、親戚の原爆による死をクラークに告げる事さえ禁止する
根岸季衣(良江・忠雄の嫁)夫に従う
吉岡秀隆(縦男・忠雄の息子)夏休みで鉦の家に遊びに来ている、原爆の歴史を学びクラークに手紙を書く
鈴木美恵(みな子・忠雄の娘)鉦の家に遊びに来ている
茅島成美(町子・鉦の娘)鉦の長女、別居してる、拝金主義者
河原崎長一郎(登・町子の夫)妻に従う
大寶智子(たみ)鉦の家に遊びに来ている
伊崎充則(信次郎)鉦の家に遊びに来ている、恐がり、原爆を恐れる
リチャード・のギア(クラーク・鉦の親戚)ハワイに移住した鉦の兄=鈴次郎の息子の日系2世、金持ち、ハワイで大規模農家を経営、缶詰工場も持つ。

感想

アメリカ人に対して悲惨な原爆投下を認めて貰いその上での和解を要求する正しい映画、同時に体験者には被曝の悲惨さの記憶が消えない事、後代の者がそれを忘れるべきでない事も訴える。一般のアメリカ人は公開時、原爆が一般市民に悲惨な死を与えた兵器である「事実」を認識せず、後ろめたい中形式的な反論のみしていたのを背景にしている。2つのテーマが先にある概念的な映画で、起伏のある物語や被曝の具体性に乏しい、資金的制約?等から監督は意図的に概念的に、演劇的演出で描いている。物語が乏しく被曝の事実を知らぬ年少者や外国人には理解や共感は難しい、中の下。
 表面的物語としては、老婆の元へ孫や日系人の親戚が遊びに来て語らうというだけのつまらぬ物語で、年少者には意図やテーマは理解が難しい。原爆とその出来事の記憶はそのまま描かれず、目のスケッチ、強風や童謡、沈黙の老婆、蟻などで象徴的にしか描かれない、それは一般人には理解難しく、理解出来ても概念にすぎず印象は薄いものだ。
 アメリカ人との和解は、ギア扮するアメリカ人にしか見えない日系2世により行われ不自然だ。だがそれ以前に映画中に原爆を投下したアメリカへの言及は多く(平和公園での石碑を数える等)、不自然であっても意図は明快だろう。映画は、鉦の言葉で明確にアメリカに対し恨みはないと言っており、国際的な発信力のある文化人である黒澤明によるアメリカ人に対しての、「原爆の事実」を認識せよ、その上で和解したい、とのメッセージであろう。
 映画中ではむしろそのアメリカ人におもねる日本人(金目あてで被曝した事さえ言わない)が明確に描かれ、アメリカに何も言わない日本人への批判とも言えよう。
 この映画に対し日本の加害に言及しないとして「選択的健忘症」と呼んだり、「太平洋戦争は日本が始めたから言うべきでない」との批評は間違いだ、映画は原爆の事実(悲惨さ、多数の死者、民間人死者の存在)を「認識すること」を訴えるものであり、謝罪は要求していない。また戦争開始の責任と原爆投下の罪悪は別の次元であり、戦争責任で免責されるものではない。こうした戦争に関する政治で日本人からも、そして外国人記者から徹底批判された黒澤監督の失意はいかばかりか?、と思わざるを得ない。敗戦国が少しでも異議を唱える事は1990年でも許されないのであろうか?と思っただろう。
 だが残念ながら、物語の不足、具体性の不足、アメリカ人を日系人で代用した事、演出の不自然さ、感情移入できる大人が存在しない(沈黙の老婆、へつらいの大人、謝るだけのアメリカ人、子供しか登場しない)などから映画的感興は少ない。時代劇などで行った黒澤的な映画作法(主人公と他者の衝突、具体性、臨場感)によるものであれば結果は異なったかもしれない。即ち、ジャングルジムの代わりに原爆の悲惨な映像、ドラマを、日系人の代わりにB29に搭乗したアメリカ人を、金に関するへつらいエピソードの代わりに原爆投下の理由に関する激しい議論を、沈黙の老婆の代わりに悲惨な経験を語る存在感のある老人を映画中においた場合を想像したくなる。
 アメリカ人の原爆認識が徐々に変りつつあり、原爆の非人道性が世界的常識になり、核兵器廃止条約ができた今、再評価するべき映画と思われる。

評価上の論点

  • この映画に「選択的健忘症」の批判は間違いだ、戦争映画で戦争勃発の経緯やその善悪が言及されるのは、それが必要な特殊な映画(戦時期のプロパガンダ映画など)や特別なテーマの場合(開戦や終戦経緯を描く「真珠湾もの」「8.15もの」など)であり、圧倒的多数の戦争を扱う映画はそれに言及しない。だからと言ってあるメッセージを持っている訳ではなく、多くはその映画が製作された社会の認識そのままであると思われる。
  • 上記は日本の映画だけでなくアメリカの戦争映画も同様だ
  • この映画の独自の主張(メッセージ)は「原爆を投下した責任のあるアメリカ人は原爆の悲惨さ、その記憶を知るべきだ、その上で日本人は責任を追及せず、和解したい」である
  • メッセージ性明確な映画だが、あえて沈黙や悲惨な原爆場面を挿入しない事を黒澤は明言している
  • あえて沈黙する事で主張する、という方策は同時期の「黒い雨」でも今村監督が明言しており、戦後50年を境に日本の戦争を美化する映画評論家による反戦映画への攻撃「反戦を声高に主張する映画はよくない映画、美的に劣った映画」が効果を現している
  • どのような表現が「声高」かの議論はないまま「台詞で言わない」「悲惨な映像を示さない」が声高でない、条件とされたと思われる
  • 黒澤明も上記に従い、原爆場面の削除、原爆体験・記憶の意味、アメリカの戦争責任などについて具体的に描写する事なく、この映画を作った