映画「オッペンハイマー」を見るのに役立つ年代記
クリストファー・ノーラン監督による映画「オッペンハイマー」は未だ日本で公開されていないが見るのに役立つ情報をあげる。
この映画は時間が数分に細分化されしかも前後する、画面に時期の説明はない。史実を知っていないと見ている場面がいつであるか理解するのは困難だ。
映画に出てくる時制は主に以下だ
・1954年 オッペンハイマーを裁く聴聞会(カラー)
・1959年 ストロースの商務長官適否を裁く査問会(白黒)
上記は枠組であり映画全編に渡り頻繁に登場する、その他は
・オッペンハイマーの青年期海外での大学
・バークレーでの大学時代(友人、女性との交流)
・マンハッタン計画中(ロスアラモス)
・マンハッタン計画中(トリニティ)
・マンハッタン計画中(ワシントン)
・1947年 プリンストン高等研究所にてアインシュタインと話す
・1949年10月 GAC委員と水爆について議論
・1954年 聴聞会でのオッペンハイマーへの訊問
<オッペンハイマー年代記>
1904 ニューヨークで裕福な家庭に誕生
青年期 ハーバード大、ケンブリッジ大(英)ゲッチンゲン大(独)で物理学
1927 物理学博士号
1928 カリフォルニア大他で教授に(1940まで在籍)
1938 タトロックと熱愛
1939 キテイと知り合う(翌年結婚)
1942春 マンハッタン計画に誘われ承諾
=====マンハッタン計画======
1942.10 マンハッタン計画の主任に
(1942末~1943初 ロスアラモス研究所建設)
1943春 ロスアラモス近郊へ移動
1943 原爆の理論設計を指導、Pu爆縮型に決定
1944 U、Puの製造工場の建設と稼働、Pu爆縮過程の工夫
1945初 Pu製造工場の稼働開始
1945始め 原爆使用のU、Puの製造に目途
1944後半? ウィルソンが原爆不使用の集会、参加し反対
1945.3? 同上
1945.5.25 シラードが原爆不使用訴える手紙を大統領に
1945.6 原爆不使用訴えるフランクレポート(シカゴ大)
1945.6 ロスアラモスで原爆不使用の集会、参加し反対
1945.4 ルーズベルトが死去トルーマンへ
1945.5 ドイツ降伏、原爆の使用目的が喪失
1945.5.31 政府暫定委員会で原爆使用にアドバイス
=都市への投下賛成、多数の市民死者の想定、放射線による死者の想定
1945.7 U型、Pu型原爆製造
1945.7.16 トリニティでPu型の爆発実験成功
1945.7.30 原爆積み出し
1945.8.6 広島で原爆爆発(U型)→所有U型は0個
1945.8.9 長崎で原爆爆発(Pu型)→所有Pu型は0個
1945.10.26 トルーマン大統領と面会「手が血塗られてる」発言
=====戦後=========
1945.10 マンハッタン計画から退任
1945.11 カリフォルニア大教授へ
(この頃原子力・原爆の国際管理を訴える)
1947春 プリンストン研究所長へ、アインシュタインと面会?
1947 講演で「科学者は罪を知った」発言
(アインシュタイン在籍1933-55、オッペンは1947-65)
====戦後の核開発への貢献===
1945.10 議会で原子力関連法に意見述べる
1946 原子力委員会(AEC) 委員になり意見述べる(~52)
1946末 AECの諮問委員会(GAC)の委員&議長になり意見述べる(~53)
1947 講演で「科学者は罪を知った」発言
1947 研究開発局の委員で軍に意見述べる(~54)
他 アメリカ科学アカデミー評議員、ハーバード大監査委員など
(1949.9 ソ連が原爆開発でアメリカで水爆開発機運高まる)
(この頃原子力(原爆)の国際管理を諦める)
1949.10 GAC報告で水爆開発に反対
1950.1 大統領が水爆開発決定、即座に賛成に転ず
1950末 国防動員局、大統領科学顧問委員に
1951春 水爆開発計画の会議に参加、成功に寄与
1951.3 テラーの新しい水爆案を賞賛
1952 政府の軍備および調整の委員
1952.6 GAC最後の報告書、水爆に賛成
(1952.11 アメリカ水爆実験に成功)
1953.2.17 外交雑誌に「2匹のサソリ」論文投稿
====ストロースによる排斥===
1953.12 オッペンをGAC首にせよのストロース運動、GAC首に
1954.1 赤狩り聴聞会の通告
1954.4~5 聴聞会実施(3週間)
1954.6 有罪裁定、秘密アクセス権をはく奪される
1954 プリストン高等研究所長に留まる
(この頃人気高く各地で講演)
1955 1942から続いていたFBIの監視が終了
1957.7 核廃絶のパグウォッシュ会議への参加を拒否
1958 仏レジオンドヌール受賞(仏の核実験成功は1960年)
1959 ストロースの商務長官への認否査問会→否認
1960.9 来日、広島は訪れず
1962 英王立協会フェローに
1963.12 大統領やAECよりフェルミ賞を貰い名誉回復
1965 NBCのドキュメンタリー番組出演「我は死となれり」の映像
1965 健康悪化、プリンストン大教授へ
1967 ガンで死去