zames_makiのブログ

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「ゲッベルスと私」(毎日新聞)

映画評を超えた現代論「安倍内閣」の支持率はなぜ回復するのか 「ゲッベルスと私」2018年7月2日(サンデー毎日
https://mainichi.jp/sunday/articles/20180625/org/00m/070/011000d

 モリ・カケ問題から1年超。呆(あき)れるほどのウソ、まやかしが飛び出しながら、それでも安倍政権は続き、首相は3選を視野に入れたかに見える。さらには米朝首脳会談を機に内閣の支持率に“異変”が起きた。その理由を知る手がかりは、映画「ゲッベルスと私」にある。

 米朝首脳会談を境に、報道各社の安倍内閣支持率は軒並み上昇し、一部は支持が不支持を上回った。モリ・カケ問題再燃で続いた「支持-不支持」傾向から再び回復基調に入った可能性がある。モリ・カケ問題への不信は約8割と依然高く、米朝会談の評価は割れていても上昇に転じた。会談直前の時事通信の調査では、支持率微減が続いていたので、変化の理由は、対北朝鮮外交は安倍晋三首相に任せるしかないという「期待感」の表れだろう。

 国会でモリ・カケ問題が取り上げられて1年4カ月。このまま終わらせてはならないにしても、この問題で安倍政権が倒れることはないという理不尽な現実もそろそろ受け入れなければならない時期にきているのかもしれない。首相や官僚や関係者たちの数々のウソ、野党の力不足など理由はいくつかあるが、政権が続く最大の拠(よ)り所は、支持率のしぶとい復元力にある。

 第1次安倍内閣以来、過去12年間の歴代内閣は、発足時の支持率が一番高く、右肩下がりのまま退陣する繰り返しだった。だが、再登板後の安倍内閣は、特定秘密保護法集団的自衛権行使容認、安保法制国会審議といった大きな政策論争が起きる度に支持率が下がっても、混乱が過ぎると支持が持ち直す特異なパターンを繰り返している。

 支持率を回復させているのは誰か。ネトウヨ層は何があっても支持し続ける人たちだ。いったん支持を離れるが、また戻ってくる人たちは別にいる。多くの世論調査分析から、その人たちは秘密保護法や集団的自衛権や安保法制そのものには反対ではない。そうした政策を絶対許せない左派・リベラル層が「内容をよく理解していないからだ」と決めつけるのは傲慢というもので、知識があり、反対派の理屈も承知している分別豊かな人たちだということが分かっている。

 反対論も理解した上で、意識的に大きな政策転換を支持するからこそ、反対派を説得する政権の力不足には厳しく、強引で乱暴な国会審議にも批判的で、モリ・カケ問題のだらしなさに怒る。でも、タブーを克服して理性的に判断しようとするので、手続きや少々のモラル違反には目をつぶり、また安倍内閣支持へ復帰する。

 つまり彼・彼女らは、「アベ辞めろ」と叫ぶあなたと仲のいい友人、食卓を囲む家族、政治や社会に関心の高い善良な隣人である。いくら安倍首相を責めても、首相はそうした人たちからの支持を頼みに息を吹き返している。なぜ安倍政権は続くのか不可解な人たちは、国会や首相官邸前で同じ主張の人たちと意気上がるのも大事だが、帰路についてから、にもかかわらず安倍政権を淡々と支持する友人・家族・隣人たちの政治意識にこそ静かに向き合い、問いかけるべきなのだ。でも、どうやって?

ナチス宣伝相の秘書は「罪はない」
 国も時代も異なるが、ある女性の長い独白が手がかりになるかもしれない。東京・神田神保町岩波ホールで公開中のドキュメンタリー映画ゲッベルスと私」(順次全国公開)。ナチスのナンバー2、ゲッベルス宣伝相の秘書だったブルンヒルデ・ポムゼルが4年前、103歳にして戦後69年の沈黙を破り、自らの人生を語った記録である。

 第一次大戦前夜の1911年、ベルリンに生まれたポムゼルは、中学を卒業して洋装店や弁護士事務所に勤めた後、給料のいい憧れのラジオ局に職を得た。政治に関心はなかったが、就職に有利だったので勧められるままナチスに入党し、速記の能力を評価されて宣伝省に移った。豪華なオフィスを“洗練”されたナチ・エリートたちが行き交う世界に満足しながら、「常に与えられた場で義務を果たす」姿勢が信頼され、軍事独裁政権の中枢を支える一職員として働いた。

 やがて敗戦。ヒトラーゲッベルスは自殺し、ポムゼルはソ連兵に捕らえられ、5年間収監された。自分が楽しみだった収容所のシャワー室で、多数のユダヤ人が殺されたと知ったのは釈放されてからだと語る。

「みんな私たちは知っていたと思っている。でも、何も知らなかった。最後まで。私に罪があったとは思わない。ドイツ国民全員に罪があるとするなら別よ。結果的に国民はナチスが権力を握るのに加担した。私もその一人。あの時代は波間にいるようだった。最後は自分のことしか考えていなかった。時々良心が痛むけど、自分に感謝の気持ちも湧く。よく生き延びたわね、って」

 これは特別な考え方ではない。映画の原題は、〈A GERMAN LIFE〉(あるドイツ人の人生)。彼女は無数の似たような良識ある一市民にすぎない。たとえゲッベルスの秘書であっても。

 ポムゼルは終始、自分が積極的に政治に関わったのではないと強調する。初めてのナチ党集会参加は、興味がなかったけれど恋人に誘われてついて行った。ナチ党員になったが、特に思想信条はなかった。1943年、ベルリン・スポーツ宮殿での有名なゲッベルス演説は宣伝相の妻の後ろの席で聴いた。「ユダヤ人気質は伝染する。脅しには負けない。最も過激な手段で立ち向かう。まさに今、勝利は手の届くところにある。ただつかめばいい。力を結集して決断し、全てを勝利のために捧(ささ)げよ。国民よ、立ち上がれ。嵐よ、吹き荒れろ」。神がかった絶叫に熱狂する聴衆。同僚と手を握り合って固まるポムゼルに、親衛隊将校が「拍手くらいしろよ」と促した。自分は「魔術をかけられて嵐に巻き込まれ、逆らえなかったのだ」と訴える。

 確かに彼女自身は人種差別主義者ではなかった。映画に合わせて翻訳出版された同名の本(『ゲッベルスと私 ナチ宣伝相秘書の独白』紀伊國屋書店)には、30時間の独白全体が収録され、映画で割愛された意外なエピソードが読める。ポムゼルは放送局勤務時、血筋が半分ユダヤ人の恋人がいた。恋人はベルリンオリンピックの後、オランダへ亡命。妊娠していたポムゼルは中絶を選んだが、アムステルダムで密会を続けた。しかし、監視を恐れて会わなくなり、戦争で音信は絶えた。恋人はポムゼルが宣伝省に勤め始めた頃亡くなっていた。彼女が最初に勤めた洋装店や弁護士事務所もユダヤ人の経営だった。仲のいいユダヤ人の女友達もいた。

 後世代からの「自分があの時代にいたらユダヤ人を助けた」との批判にポムゼルは反論する。「誠実さから言うのね。でも、同じことをしていたわ。国中がガラスのドームに閉じ込められたようだった。私たち自身が巨大な強制収容所にいたのよ」。反戦ビラをまいて斬首刑となった白バラ運動のショル兄妹を哀れみながらも、さらりと言う。

「あんなことをしでかすなんて愚かだった。黙ってさえいたら今ごろきっとまだ生きていたのに。それが普通の人々の見方だった」

 戦後、ポムゼルは何事もなかったように放送界へ復帰し、ドイツ公共放送連盟重役秘書を定年まで勤め上げた。生涯独身で、自分や時代の運命について自省してきた結論をこう述べる。「何と言えばいいか分からないけど、神は存在しない。悪魔は存在する。正義なんてものはないわ」。一貫して「私に罪はない」と語り終え、昨年106歳で死去。できあがった映画を観て「ありがとう。若い人たちに見てもらいたい」と述べたという。

「凡庸な政治的人間」の罪を象徴 
彼女の独白が今の日本と何の関係があるか。安倍政権をナチス政権になぞらえる粗雑な思いつきではない。この映画は、転換期の政治意識がいかに形成されるかを提示している。ポムゼルは自分を非政治的人間だと主張する。だから知らなかったし、結果も免罪されるという。だが、彼女は知っていた。身近なユダヤ人たちが消えるのに気づき、異常な事態が進行していると感づいていたからこそ、知らん顔をして我が身を守り、恋人からも距離を置いた。自分個人の利害得失にだけ敏感な、社会や歴史の行方全体には目を閉ざす政治意識の持ち主なのだ。ハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」を借りれば、「凡庸な政治的人間」の罪を典型的に象徴している。

 転換期の政治は、危機や国難を声高に唱え、「突破するための改革」と称して矢継ぎ早に大きな政策転換を繰り出す。変化を受け入れさせるため、さまざまな標語や決まり文句や掛け声を反復する。気づけば政治が過剰に社会生活を覆い、少なくない人々が政治に目覚め、それと意識せずそれまで持っていなかった政治意識に染まっていく。それは決して戦時期の特殊な現象ではない。一人の平凡で真面目な市民が、どのように自分から進んで政権に動員される政治的人間へと変貌し、そのことに無自覚なまま大きな政治の潮流を支える隊列へ加わるに至るか。麻生太郎副総理兼財務相が5年前「誰も気がつかなかった。(ナチスの)あの手口に学んだらどうか」と述べたのは、改憲手続きのレトリックにとどまらず、今の日本政治全体の手法と発想について、思わず本質を突いた箴言(しんげん)だったのかもしれない。
伊藤智永毎日新聞政治部)