zames_makiのブログ

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バトル・オブ・オーシャン(2013トルコ)現代の戦争プロパガンダ

原題:CANAKKALE YOLUN SONU(GALLIPOLI: END OF THE ROAD)
映画 100分 トルコ 日本未公開
監督:ケマル・ン、セルダル・アカル、アフメド・カラマン
脚本:バサク・アングン、アルファ・ディクメン
出演:
グルカン・ウイグン(兄:狙撃の名手)ひげ面、弟の徴兵で弟を守る為志願する理想的な兵士、バルカン戦争経験者で、狙撃の名手。指揮官の命令で狙撃兵になり何人も殺すが敵の狙撃兵にやられ負傷する、弟のため身を犠牲にしイギリス軍の弾薬庫を爆破する
ウーマット・クルト(弟:人殺しは嫌い)優しい顔、妻に子供が生まれるのに徴兵される、射撃は巧いが人を殺せない、後方配置されるが指揮官の窮地で射撃の腕を発揮し、登用され爆破作戦に参加する、子を産んだ妻が死亡との報に兄に守られるが、結局イギリス軍の砲撃で死ぬ
Fikret Yildirim Urag(温情ある大尉・トルコ軍指揮官)兄弟の部隊の指揮官、兄の戦友で兄を高く評価し狙撃を命じる、爆破作戦を指揮し捨て身で爆破しようとするが戦死する
Mehmetcan Diper(トルコ軍・軍曹)兄弟の戦友、面倒を見るが狙撃兵に殺される
Inanç Koçak(トルコ軍)兄弟の戦友
Tevfik Erman Kutlu(トルコ軍・副官)
ステファン・チャンス(イギリス軍指揮官)悪役、あくどく狙撃を命じる、敵さえ殺せばよいとオーストラリア伍長の補佐にイギリス中尉をつける無法ぶり、兄を殺そうとするが爆死する
ベン・ワーウィック(オーストラリアの狙撃兵)悪役、残忍な殺人者、人殺しを楽しんでいる、兄と対決し一度は退くが、再度作戦で対峙し殺される
ベラック・ツズナタッチ(優しい看護婦)トルコ軍看護婦、前線で負傷兵を救護、ドイツ人軍医の下働き、ドイツ語や英語も話せるトルコの近代性を示す人物、兄と親しくなる

感想

第一次世界大戦でのガリポリの戦いをトルコ側から描く戦争映画、家族と国家と命を大事にする普通のトルコ人が、戦闘で大活躍し作戦のため、自らを犠牲にイギリス軍を撃破するというもので、トルコ政府が製作しており、ナショナリズムを賞賛する戦争プロパガンダ映画であろう、人物描写や戦闘の描写は細かく、よくできている、中の上。
 ガリポリはトルコの首都に近い戦場であり、現地出身兵が紹介され国を守る為トルコ人が自ら闘う様が描かれる。アルメニア人もおり、死亡しても一緒に埋葬してくれと言い、アルメニア人もトルコ国民だと強く訴える、これは第一次世界大戦中のアルメニア人虐殺を背景にした描写であり、虐殺などなかったとの暗喩であろう(日本で言えば、従軍慰安婦問題を背景に、日本の戦争映画で、日本軍中に朝鮮人志願兵や志願の朝鮮人慰安婦を描写するようなもの)
 映画は冒頭、激しいイギリス軍の海岸上陸とトルコの抵抗を描き、続いてトルコ人の戦死の報で死の悲しみに向き合う、更に徴兵される主人公の驚きと家族の戸惑いを描き、非常に平和的である。戦争で死ぬことは悲しい事であり、家族は死を避けたいと正面から描く、副主人公である弟は射撃は上手でも人を殺せない平和的な人物であり、妻と生まれてくる子供を思う、だが、そうした平和的な人物が最後は状況から積極的に戦闘に参加する様子を映画は描く。
 主人公は戦争において国家が求める国民として、理想の人物である、年配者で戦争経験者だが弟を助ける為志願し、優秀かつ勇敢で戦闘では素晴しい働きをする。だが真面目で指揮官の命令をよくきき、すこしも奢らず、全てはアラーの神の思し召しと非常に信心深い。負傷しても後方送りを歓迎せずあくまで闘う、女性に優しいがきちんとしており少しも乱れた所がない。あまりに理想的だが一方字は読めず、控かえ目であり実際にいてもおかしくない存在感がある。
 この2人のエピソードに対し、イギリス軍はオーストラリアなどとの混成部隊であり、海岸に大きな駐屯地を作り、奢った存在と描かれる。イギリス軍指揮官は残酷で、優秀な狙撃兵(感情がなくロボットのようだ)の為に将校を補佐につけるような俗物である、表情・台詞は非常に猛々しくいかにも悪役である。
 映画は塹壕をはさんだトルコとイギリス軍の戦線が膠着した中での、狙撃兵による射殺シーンが多く、血を流していきなり死ぬ場面が多く、いささか残酷に感じる。トルコ側の登場人物は、看護婦以外は、主人公も含め主要な人物は全て死んでしまい、悲惨な結果ではあるが、観客は国を守る為身を捧げた主人公たちの視線に索引され、映画終了後は国を守る行為に感動するだろう。
 看護婦はドイツ人軍医にドイツがやってこなければこんな戦争にならない、と言い、ドイツにも批判的なのが興味深い。トルコ側の政治家や全体指揮官、戦争全体の経緯などは描かれず、焦点となるこの作戦での行為のみを描くのは、トルコ側を暗黙の内に正当化するものだが、映画ではよく行われるものである。