zames_makiのブログ

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相木悟の映画評『永遠の0』への論評

映画「永遠の0」がメディアからどう評価されているか知りたいが、キネ旬のレビュー文は内容がなく参考になるのは星の数のみ、だがなぜそう評価するのかわからなければ星の数も意味がない。肯定するにも否定するにも、他人にわかる説明がなければ、それはただの個人的な感想であり、日本社会に対してほとんど意味がない。またネット上にも識者や映画を専門とする者の映画批評は少ないように感じる。その中で多少でも論評できるのは【相木悟の映画評】であった。

【相木悟の映画評】「『永遠の0』 (2013):2013-12-23:語り継ぐべき特攻隊員の遺志!」http://blog.goo.ne.jp/youhiyenro/e/960562eec8ff91fe32c0fd19de4dfd8d


評の内容が正しいかは別だが、原作の内容と映画との差異、社会の受け取り方の様子、物語の内容、物語の重要点、特撮への評価など批評すべき点にはほとんど言及されていて参照しうるものだ。えらく真面目である、おそらく映画評の仕事がほしくて売り込み宣伝のために書いているのだろう。それはさておき

【相木悟の映画評】「『永遠の0』:語り継ぐべき特攻隊員の遺志!」への論評

さてその評の内容だが、

>天才的な操縦技術をもちながら、あくまで生き残ることに執着していた宮部久蔵
>を巡るミステリーと彼の血を受け継ぐ家族のドラマ

として物語の構成は正しく捉えている。そして映画の物語の流れについても言及し

>国策に従っていた軍人とは異なる思想をもつ彼
>少なからぬ者たちの心を感化する。
健太郎たちが彼に共感していく流れは、然るべき流れ

と現代の若者が昔の戦友に話を聞いていく映画の流れを効果的と評価している。馬鹿じゃなかろうか?「命が惜しくて戦闘を忌避する」などあり得ない、まともな歴史知識と出来事を理解する能力があればこんな人工的な話に納得する訳がない。あまりに設定が突拍子もなくありえず、共感できないというのが普通の映画鑑賞者の受け取りだろう。
 しかし相木悟がこう書くのは理解できる、多くの映画紹介者は映画の設定にはけして疑問を差し挟まず、映画製作者の趣旨に沿ってあくまでそれを好意的に迎えるという前提で映画評をしているからだ。これを商売目的の映画評、売文業者の映画評という。

>連綿と続く命の尊さに気付いていく過程が本作の肝である。

と相木悟はしているが、それは下記の相木悟自身の感想と矛盾している。命が尊いならなぜ主人公は特攻に行ったのだろうか?見出しの「語り継ぐべき特攻隊員の遺志!」にも感じるが、映画の批判や内容で議論をよびそうな部分は無視して、誰でも褒めてくれそうな内容として紹介しようという意思を感じる。「語り継ぐ」など映画の趣旨ではないからだ。

>クライマックス(中略)宮部久蔵が、なぜ特攻で命を散らしたのか?
>その謎が解け、感動が押し寄せるのだが、
>罪悪感を覚え自害している。なす術のなく部下を特攻に送った宮部久蔵にも
>それと同じ想いがあったのだろう。

相木悟氏は主人公久蔵が特攻した理由を、罪悪感に駆られたからとしているが、これは歴史的にも物語的にもあり得ない、完全な間違いである
 特攻は軍による組織的・日常的な作戦であり、久蔵が部下に強いたものではない、だから久蔵がそれに責任を感じる訳がない、彼が何かしようがしまいが教え子もそして自分も特攻するかもしれないし、しないかもしれない、全ては軍の命令次第である。これは毎日新聞の特攻に関する解説記事でもすぐ知れる事だ。そんな事もわからず相木悟はこの映画を見ているのか?そんな彼の評にどれだけ意味があるのか?
 また映画の筋としてもこの受け取り方はおかしい。久蔵は映画の前半ですでに、「命惜しさに戦闘を忌避」しており仲間を見殺しにしている、今更、仲間の死に関心を払う必然性はない。あくまで自分の命だけを大事にしていればいいだけである。


 結論として素直に見ればなぜ久蔵が死んだかは映画でも説明されていない。だから多くの観客の受け取りは、謎のまま人が死んだからなんとなく悲しい、全体としてそういう雰囲気だからなんとなく感動した気がする、であろう。観客は自分の行動を説明する義務はないから矛盾したり理不尽であっても別に問題にならない、よくわからなかったで済む。しかしその過程をきちんと言語化すれば「何かおかしい」と気づくだろう。

 
 結局の所、相木悟氏は本心ではこの映画評を書いていないように感じる、彼の評は映画製作者の説明に従い映画の筋を追って、映画を説明すればこんな感じだ、といった程度のものでしかない。
 そして相木悟氏に何より決定的に不足しているのは、映画史的に素晴しいか・並か、今の日本社会に照らして好ましいか・好ましくないか、基準に照らしてこの映画が良いか・悪いか、という歴史的・社会的・美的/芸術的に映画の絶対的な良さを論じる評ではない所だ。彼は過去の特攻映画、戦争映画と比較していないし、過去に日本が犯した戦争に照らしての議論も全くない。加えて「映画はこういうもの」という基準に沿った評価でもない。ただ映画の筋に沿って誉めただけだ。
 確かにそうした私が求めた評はキネ旬からも消えた、戦後、戦争映画が盛んだった頃のキネ旬はそうした映画論・映画価値の判断を雑誌の役割としていたが、それは1980年代に終わり、今はただの映画紹介と雑談雑誌になっている。ではそれでいいのだろうか?

 実は一般観客は私は求めた基準に照らした映画の評価を求めているように感じる。なぜならあまりに映画の数は多く、全てが「面白い」「素晴しい」という宣伝用の映画評と共に紹介されるからだ。「よい映画が見たい」、目が肥え、多少でも自分の為になるものを求める観客に、この相木悟氏の映画評は全く答えていないし、内容も間違っている。