zames_makiのブログ

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相木悟の映画評ってやっぱ駄目だな(小さいおうち)

「小さいおうち」の素晴らしさ(弊1/25参照)に感動したが、それが嘘の上に立った戦争美化映画「永遠の0」と同じ構造だったので、「永遠の0」で批判した相木悟を思い出した。同じような映画をどう評価するかでその評者の傾向や力量がわかるからだ。
相木悟の映画評『小さいおうち』 (2014)


結果はやはり駄目だった。


相木悟は映画「小さいおうち」を原作小説と比較し、原作にあった××がないから、古参で老朽化した山田監督による美化だ、理想化だ、だから駄目だとしている。その一方で独立した一つの作品として映画「小さいおうち」の内容がどの程度よいかにはほとんど言及がない。

これは典型的な悪い映画評だ。原作でこうだったのに映画で違うから駄目というのはその映画の芸術性と関係ない図式的なもので、これは作品本来の評価・優劣ではない。誰にでも書けるものでいわば禁じ手だ。

こういう評価が無意味なのは、原作と映画は似ているようで異なる事を本当の所理解していないからだ。映画はベストセラーの原作を元に作られる事が多いが、長編小説の内容は時間的に2時間程度の劇映画には盛り込めず必ず要素の取捨や強調点の変更が行われる。また映画製作者と原作小説家の観点・思想の違いは必ず存在し、普通なら映画監督の創造性は自分の個性をいかに出すかに求められるだろう。


だから映画と原作は違ってあたり前だ。


もし原作と映画を比較した映画評を書くなら、そこで本当に必要な映画評とは、原作における秀逸な要素の高さと映画で描かれた秀逸な点の高さを比較し、それらがどういう関係にあり、どちらが高いのか、検討し考える事だろう。

もちろん、内容(両者で主に取り上げるエピソード)が異なり、量的(小説は長く映画は短い)にも、質的(文字を介した読者の想像力と映像による直接的なイメージ喚起の違い)にも差がある上に、二つの感興を高さの点で比較するのは普通不可能だ。

にもかかわらず、相木悟はそれをやっている。もちろん普通の観客は「原作はこうだったのに映画はないから駄目」と言うが、それは単純な個人の感想であり、感想を漏らしたその人ではない第三者には、それは共有不可能だ。


 本当に必要な映画評とは映画と原作を比較検討し両者の関係性から得られる「映画内にないもの」を提示する事だろう。映画内にないものとは、様々あるが、例えば原作と映画の製作時期の差、社会状況の差による視点の差など、映画の外の受容状況とそれに作家がいかに答えたかの様相だろう。「小さいおうち」の場合、原作は戦後初の政権交代が起きた2009年の時期に出ているが、映画は2013年に右翼安倍政権が決定的な支配力を持ち、日本が戦争目前の状況*1になった事が最も大きいのではないか?


相木悟は「永遠の0」の評でも特攻(=戦争)に関する事実への無関心と無知をさらけ出しているが、この「小さいおうち」でも同様である。彼は「オリンピック開催に浮かれた状況の符合もさることながら、子供の教育問題やデパートのセール、映画や音楽、等々、話している内容とやっていることは今も昔も変わらない」と書いているが、それが何を意味するかにはまったく触れていない。感じていないのだろう、愚かな評者だ。


私は上記で、求められる批評とは「映画内にないもの」を提示する事と書いたが、相木悟を始めほとんどの映画レビュー者は映画しか見てないし、映画しか知らない。今の日本がどうで、観客がどうだから、この映画はこういう意味や価値を持つという視点は一切ない。本当に愚かな評者だ。

*1:例えば1/29毎日新聞は安倍首相が現在の日中関係を第1次世界大戦の前のドイツ−イギリスに比較した事を伝えているし、コラムでは欧米メディアが現在の東アジアを第1次世界大戦前の欧州と似た状況だと見ている事を伝えている