zames_makiのブログ

はてなダイアリーより移行

ひろしま(1953)最初で最高の原爆映画

メディア:映画 配給:北星映画社&日教組(共同) 公開:1953/10/07 製作:日本教職員組合
監督:関川秀雄 監督助手:熊井啓 原作:長田新ヒロシマの子」 脚本:八木保太郎 撮影:宮島義勇 音楽:伊福部明 IMDBによればアメリカ公開:1955/5/16、アルゼンチン公開:1957/6/13

受賞

1955年 ベルリン国際映画祭 長編劇映画賞

記事

キネ旬 1955年6月下旬号「東南アジアの学生と日本映画:「ひろしま」の感動(インドネシア
キネ旬 1954年新年特別号 日本映画スチール・コンクール参加作品:ひろしま
キネ旬 1953年11月上旬号 日本映画批評:ひろしま
キネ旬 1953年10月下旬号 「ひろしま」が公開されるまで:
キネ旬 1953年8月下旬号 グラフィック・日本映画紹介:ひろしま

映画サイトの解説

 長田新の『原爆の子』を八木保太郎が脚色し関川秀雄が監督した反戦映画。8万人を超す広島市民がエキストラとして参加し、原爆投下直後の広島を再現したベルリン国際映画祭で長編劇映画賞を受賞した。
 広島にある高校。北川が受け持つ三年生のクラスで、生徒の大庭みち子が鼻血を出して倒れた。それは原爆による白血病が原因だった。このクラスでは、実に三分の一の生徒が被爆者だったのだ。あの日、ゆき子の姉は疎開作業中に被爆し、川の中で絶命した。遠藤幸夫の父親は、建物の下敷きになり炎に包まれた妻を助けることができなかった。原爆投下から七十五年は草木が生えないといわれた広島に大根の芽が出たとき、人々はその芽に希望を見いだしていた。

あらすじ(キネ旬

広島A高校三年、北川の担任するクラスで原爆当時のラジオ物語を聞いていた大庭みち子は、突然恐怖に失心した。原爆の白血病によって前から身体の変調を来していたのだ。クラスの三分の一を占める被爆者達にとって、忘れる事の出来ない息づまる様な思い出だった。それなのに今広島では、平和記念館の影は薄れ、街々に軍艦マーチは高鳴っている。あの日みち子の姉の町子は警報が解除され疎開作業の最中に、米原先生始め級の女学生達と一緒にやられたのだ。みち子は爆風で吹き飛ばされた。弟の明男も黒焦げになった。今はぐれてしまった遠藤幸夫の父秀雄は、妻よし子が梁の下敷で焼死ぬのをどうする事も出来なかった。陸軍病院に収容された負傷者には手当の施しようもなく狂人は続出し、死体は黒山の如くそこここに転りさながら生き地獄だった。しかし軍部は仁科博士らの進言を認めようとせず、ひたすら聖戦完遂を煽るのだった。その戦争も終ったが、悲惨な被爆者にとって今更降伏が何になるのか。広島には七十年間生物は住めないと云う。病院の庭に蒔かれた大根の芽が出るまでは、人々はそれを信ぜずにはいられなかった。疎開先から引き返してきた幸夫と洋子の兄妹は、病院の父に会いにいったが、そのひどい形相にどうしても父と思う事が出来なかった。父は死に広島には七回目の八月六日が廻ってきたのに、幸夫はその間浮浪児収容所、伯父の家と転々して次第に荒んでゆき、遂には浮浪児を使って掘り出した死体の頭骸骨を、原爆の記念に米人に売ろうとさえした。みち子は河野達級友に見守られながら死んだ。北川に連れられて警察を出てきた幸夫を、今また河野達は「明日は僕らの手で」の合唱で元気づけるのだった。

出演:
岡田英次(北川先生)遠藤幸夫ら、生徒の担任、

町田いさ子(大庭みち子)被爆してる生徒、ラジオを聞き倒れ鼻血を流す、原爆症で入院し死ぬ
山田五十鈴(大庭みね)みち子の母、原爆で建物の下敷きに、這い出すが瀕死の状態、町子を連れ久治山へ行くが目はうつろ、島の救護所で死ぬ
松山りえ子(大庭町子)みち子の姉、建物疎開被爆して川で死ぬ
南雅子(大庭明男)みち子の弟、被爆して焼け死ぬ

月田昌也(遠藤幸夫)疎開していた、父母を失い妹と生き別れになる、孤児院にいたが、叔父に引き取られる、叔父は体弱く、従兄弟の少女は被爆でびっこ、学校をやめキャバレーで働く、真面目に更正するが工場は砲弾を作り始める
加藤嘉(遠藤秀雄)幸夫の父、被爆し妻は家の下敷きに、火事で見殺しにする、長男一郎を探し被爆地をさすらう、一郎の死体を発見、原爆症で救護所で死ぬ
河原崎しづ江(遠藤よし子)幸夫の母、建物下敷きで焼け死ぬ
亘征子(遠藤洋子)幸夫の妹、疎開していた、父の死を否定し行方不明になる
佐脇一光(河野誠)みち子の級友、病院にみち子を見舞う、被爆者への無理解を怒る、平和への行進に参加

薄田研二(仁科博士)軍の会議で原子爆弾だと明言
信欣三(浅川博士)軍の会議で原子爆弾だと明言、軍の強弁に辟易する
三島雅夫(医師)被爆者を診察、火傷のがないのにだるい原爆症を診る、髪の毛に手をやるとすぐぬける
岸旗江(岡崎看護婦)
利根はる恵(保母)
月丘夢路米原先生)被爆し死ぬ先生
原保美(伊藤先生)被爆し死ぬ、川で生徒を集め校歌を歌う
神田隆(千田先生)

感想

GHQの検閲を受けない最初の原爆映画、当時の被爆者の健康不安の状態と、被爆後の惨状を丁寧に情報量多く描く、原爆映画の決定版というべきもの。映画最後が当時の平和運動につながるのも日本映画としては自然だ。広島市民の参加で多くのエキストラ参加で大規模な被爆の惨状シーンを伴うもので迫力がある、原爆で死んだ者と生き残った者の物語も良く出来ている、上の上。
 原爆投下から逃げ・死ぬ被爆者の姿を細かく最も丁寧に映画的に描いた映画、ここには表象の不可能性などという遠慮はなく、上映時間の大半を使って悲惨な人々の姿を見せつけ教えてくれる力がある。1953年では体験者の話をつなげたものだろうが、それぞれのエピソードに説明が必要なほど情報が豊富だ。2018年の視点で言えば、こうした劇映画だが実情をよく示している映像自体に資料的価値があるのではないか。ドイツ人の本を借りて原爆が最も非人道的な兵器であると明言しており正しい、一方アメリカへの言及はなく糾弾のメッセージはなく政治的なメッセージはない。(ただし映像には広島の街中の多くの米兵の姿が映し出されているが意図的なものではないだろう)ただしラストは明確に原爆被害と戦争反対そして平和要求行動がつながっており、そのメッセージは明確だ。だが日本では平和要求は政治的とは言えないだろう。
 教室で原爆投下の説明を受ける生徒の1/3が被爆者であるのが驚きだ、同時に彼ら被爆者がいつ死ぬかわからぬ死の恐怖を抱えているのも明言されており、原爆症の医師はなんの説明(治療や見通し)もできず、切迫感甚だしく深刻だ。事実物語中で登場する被爆した生徒は入院し、ラストでは死亡している。それは目の前の進行中の現実であり、映画はもはやそれを強調する余裕などなく、被爆者の困窮や生々しい生活苦にあえぐ浮浪児などへと物語は移る。出てくる全てが生々しく深刻であり観客の注意を引いてやまない、それがこの映画の力であろう。
 冒頭は伊福部の重々しい音楽を背景に深刻そうなナレーションで原爆投下の説明から、それがラジオ放送による説明で、自然に教室でそれを聞く生徒(実は被爆者)へ物語りが移る。被爆原爆症で入院した生徒の物語はやがて、原爆投下時の時制になり、語り終わってまた現在の被爆した生徒(既に死亡している)へと帰り、最後は平和行進に移る。こうした八木保太朗のドラマは時制の以降がスムーズで、よく取られる枠物語と対象的だが効果的である。
 原爆の説明では、ドイツの「僕らはごめんだ:東西ドイツ青年からのレ手紙」という本を借りて「新兵器のモルモット実験、日本人が有色人種だからできた、毒ガスより残酷」と述べており 原爆の差別性を指摘しているのは、おそらく全原爆映画でも唯一に近い珍しいものだろう。
 少女の流す鼻血の形で原爆症を示し、記憶力の低下、傷が治らず膿む、疲れやすい、だるい、夏場の苦しさなどを列挙している。同時に非被爆者によるひやかしも示し、無理解による差別がある事を示している。ABCCが調査だけで治療をしない事も明言されてる。映画は被爆者の事をわかってほしい、まず日本人に、広島の人に、この教室の人に、と畳みかけ切迫感甚だしい。7年たっても、ケロイドなどの傷がなくても被爆者が健康で苦しんでいるのが訴えられる。
 教室にいた生徒の家族の被爆の状況を示す形で原爆投下から、数日後の救護所での死までが描かれる。原爆破裂直後のお化けのような人々の行列、廃墟と化した町並み、あちこちであがる火の手、潰れた家屋の下敷きで火の餌食となる者、それを見捨てざるを得ない家族、互いに呼び合い探し合うが見つからぬ家族、建物疎開被爆し先生を中心に互いに支え合い歩く生徒たち、先生の呼びかけで唄を歌う生徒たち、やがて川に到達した生徒たちは次第に力尽き、死んで流れて行く様。また久治山に逃れた被爆した人々の窮状、死んでいく人々など。こうした場面は非常に多くのエキストラが参加し、苦しむ人々を再現しており、全ての原爆映画でも最も大規模な場面として展開している。
 大庭みち子の母(山田五十鈴)は倒れた建物の下から這い出るが、髪の毛が逆立ちまるでお化けのよう。子を探すが逢えず、おそらくヤケドで重傷でうつろな目が不気味だ、救護所では隣の死にゆく少女から遺品を預かるが、やがて自分も死ぬ様は可哀想より恐ろしい。
 遠藤幸夫の父(加藤嘉)は、やはりお化けのようだがまず倒れた家から妻を助けようと奮闘するが誰の助けも得られず火事で死なせ、廃墟と化した街を息子を探して歩き回る。死んだ息子を発見した彼はやがて救護所で死ぬが、彼を見た下の娘はその様子を否定し逃げてしまう。悲惨で悲しいエピソードである。
 仁科教授による調査報告が描かれており、日本軍が国民の士気が落ちるとして原爆である事を隠し、原爆であっても心配はない、あくまで戦争を進めるべく広報する様が描かれ、映画はガラス窓に閉じ込められる蛾の映像を使い批判している。
 映画では「広島では75年草木は生えない」との米国科学者の言葉を使い不安を描いている、被爆者を収容した病院の医師は被爆者から、「それはどうせ死ぬ、あきらめろ」という 意味か?と問い詰められ、病院の庭に大根の種を撒く、自暴自棄の否定的な言葉を発していた患者が最初に発芽を発見し、治癒の望みを得る様子が描かれているのは、以降の映画にはないものだ。