zames_makiのブログ

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長崎の鐘(1950)永井隆

製作:松竹(大船撮影所) 1950.09.22 11巻 白黒
監督:大庭秀雄 脚本:新藤兼人光畑硯郎橋田寿賀子 原作:永井隆長崎の鐘」1949年1月出版「この子を残して」1948年4月出版 その他。 音楽:古関裕而 曲「長崎の鐘」は1949年7月1日発売され大ヒットした。歌:藤山一郎、作詞サトウ・ハチロー、作曲古関裕而、歌詞では原爆は描写していない「召されて妻は 天国へ」が妻の原爆での死亡を推測させるのみ。映画では冒頭に1番だけ流れる。

白血病で死去した永井隆氏のベストセラーになった自伝の映画化(永井氏は映画公開後の1951.5死去)。原爆は戦争中のエピソードとして短く登場するのみだが爆発シーンや被災者がセットで再現・撮影されている。
 永井隆氏の著作を元に年代記として構成されており、医大の卒業と急な発病、放射線科への配属と研究への打ち込み、2人の女性との淡い恋愛関係、軍医としての戦地経験、幸せな結婚、急な発病と余命の宣告、原爆被災などがエピソードとして羅列されており、原爆はその中の一挿話に過ぎない。全体が命をかけてでも医療という自分の使命に熱中する崇高な主人公の稀有で感動的な話であり構成上格別な力点はない。しかし永井氏の妻が原爆で死亡し永井氏自身もこの時点で死の淵に立っており、原爆受難がその稀有な人生のクライマックスと受け取るのが自然だろう。
 ラストの25分程の原爆の描写は、山で遊ぶ二人の永井氏の子供、そこに轟音と山の向こうに雲(原爆雲ではなく250キロ爆弾程度の硝煙の雲)を見せ原爆爆発の瞬間を描写。ただちに字幕で「原子爆弾の出現は戦争に狂う軍閥への最後の警告になった」。その直後に妻を探す永井氏のショットで焼け跡と妻が死亡した事を示す。ついで焼け跡のビルでうずくまる被災者(詳細はわからず火傷の表現はない)、即座にその場での永井氏の復興への意気込みを語る演説へとつながる。即座に焼け跡のビルに鐘をつる描写、再建される教会の描写となり非常に短く性急なものだ。この後病の酷くなった永井氏は1948年自宅(焼け跡バラック)で寝たきりになるが、口頭で原子病(原爆による病)の研究をするとは言うが戦争や原爆の惨禍については述べていない。ラストは1949年5月のローマ教皇特使の長崎訪問での式典の様子となり、映画のトーンは鎮魂で締めくくられる。
 映画での原爆の扱いは非常に短く惨禍より復興への願いが強調されている。更に永井氏は原爆以前から職業起因での短い余命を宣告されており、それを受け入れて生きる様子がテーマとなっている。この永井氏の個人の物語に引率される形で、日本人は原爆の惨禍をけして恨まず甘んじて受けるべきだというメッセージとなっている。同時にこれは原作者永井氏のメッセージでもあり熱心なクリスチャンとしての信仰心からきているようだ。
 現代の観客としては物語が性急で起伏に欠け、個々の出来事の描写が薄く感情移入しにくい、したがって惨禍の受難というメッセージも理解しがたく教条的に見える。当時の評論家の映画評は必ずしもよくなかったと記憶する。しかし公開当時は原作がベストセラーであったこと、原爆の惨禍が一般には知られていなかった事から、映画のメッセージに共感し感動した観客も多かったのではないだろうか。
 占領下GHQは日本の映画が太平洋戦争を扱う事は観客にアメリカへの復讐心を掻き立てると考え、できるだけ禁止しようとしている。しかしこの映画では主人公がクリスチャン的思想から戦争の惨禍でもアメリカに責任を求めず、自分にふりかかる厳しい出来事は受難としてあくまで自分の責任として受け入れるべきとしており、これがGHQにとって都合のよいメッセージであった為制作されたと推測される。

出演:
若原雅夫(永井隆):医大生から最後まで演じる、茫洋として特徴のない人物。医局では明らかに2人の女性に好意を寄せられるがどちらにもまったく無関心である。日中戦争に従軍し悲惨な野戦病院キリスト教精神に目覚める。あくまで聖人君子であり欠点のない面白みに欠ける人物。
月丘夢路(下宿の娘、後に妻)熱心なクリスチャン、控えめ。出征ではキリスト教パンフを渡す。原爆で死ぬが骨などの描写はない。
津島恵子(医局の看護婦):明るい、永井の机に花をいけ密かに心をよせる。出征では千人針を送る。
滝沢修放射線科主任医師):放射線治療に全身全霊を傾ける専門家。
三井引次(医大の友人山下):卒業式で共に騒ぐ
青山杉作(鈴木神父):永井の病床に訪れる

参考:「長崎の鐘」歌詞 作詩:サトー・ハチロー 作曲:古関裕而 歌:藤山一郎


永井隆博士詩)「新しき朝の光の さしそむる荒野にひびけ 長崎の鐘