わが教え子、ヒトラー(2007)
Bunkamura ルシネマ2 10:40 12:45 15:20 17:25 19:30
MEIN FUHRER - DIE WIRKLICH WAHRSTE WAHRHEIT UBER ADOLF HITLER
95分 ドイツ 初公開年月 2008/09/06
監督: ダニー・レヴィ 脚本: ダニー・レヴィ
出演: ウルリッヒ・ミューエ(アドルフ・グリュンバウム教授)
ヘルゲ・シュナイダー(アドルフ・ヒトラー)
シルヴェスター・グロート(ヨーゼフ・ゲッベルス)
アドリアーナ・アルタラス(エルザ・グリュンバウム)
...自信喪失に陥ったヒトラーの演説指南役としてその再生を任されたユダヤ人俳優の苦悩と葛藤をナチス指導者たちへの皮肉を込めて描くドラマ。主演は2007年7月に惜しくも他界した「善き人のためのソナタ」のウルリッヒ・ミューエ。監督は「ショコラーデ」のダニー・レヴィ。
1944年12月25日、ナチス・ドイツは劣勢に陥っていた。宣伝相ゲッベルスは、来る1月1日にヒトラーの演説を大々的に行い、それをプロパガンダ映画に仕上げて起死回生を図ることを思いつく。しかし、肝心のヒトラーがすっかり自信を失い、とてもスピーチなどできる状態ではなかった。そこでゲッベルスは、わずか5日間でヒトラーを再生させるという大役を世界的俳優アドルフ・グリュンバウム教授に託すことに。そして、すぐさま強制収容所からグリュンバウム教授が移送されてくるが…。
オフィシャル・サイト:http://www.meinfuehrer-derfilm.de/ (ドイツ語)
オフィシャル・サイト:http://www.cinemacafe.net/official/waga-oshiego/
監督インタビュー「わが教え子、ヒトラー」ダニー・レビ監督
朝日新聞 2008年8月29日
ヒトラーに演説の指導をしたユダヤ人を描いた「わが教え子、ヒトラー」が9月6日から東京・渋谷のル・シネマで公開される。実話にヒントを得ながらも、フィクションや喜劇的要素を盛り込んだ。ユダヤ人のダニー・レビ監督は「ヒトラーは否定的な存在だが、今でも大きなモニュメント。笑いの対象にすることで、引きずり下ろす効果がある」と語る。
ドイツ帝国を舞台にした映画を構想していた時、一冊の本に出合った。32年、ナチ党の党首ヒトラーに随行し、発声やジェスチャーの方法を教えたドイツ人の実話。「コメディーに使えると思った。多くの人が話術の天才だと考えている彼に、実際は教師がいたというのは笑える」
脚本では、教師をユダヤ人の元俳優に、教えた時期を敗戦直前の44年に変えた。心身を病んだヒトラーが力強く演説できるほどの威勢を取り戻せるようにと命じられる設定のほか、エピソードの多くにフィクションと笑い話を織り交ぜた。
ジャージーを着たヒトラーが心理セラピーを受け、幼少期の心の傷を告白。側近よりも教師を信頼し、やがて2人は友情に似た感情を抱く……。大胆に想像力をふくらましたのには理由がある。
「映画で、歴史を複写できるという考えには懐疑的。特に戦争は」という。一方で、「コメディーは真実と説明しない分、従順性を求めず、観客の考えや抵抗を誘発する点で誠実」と分析する。
ユダヤ人はアイロニー好きだという。「ドイツ人は自分たちのことをなかなか笑えないが、それができるのは健康的なことだ」(高橋昌宏)
「わが教え子、ヒトラー」 ダニー・レヴィ監督に聞く
描きたかったのは、「歴史的事実」ではなく「人間的真実」
JANJAN 2008/09/02 沢宮亘理
「歴史的事実ではなく、人間的真実を描いた」と語る「わが教え子、ヒトラー」のダニー・レヴィ監督=東京・銀座で6月19日、遠海安撮影 ドイツ映画「わが教え子、ヒトラー」の公開を前に、ダニー・レヴィ監督がこのほど来日し、東京都内でインタビューに応じた。ユダヤ人である監督にとって、ヒトラーは避けて通れないテーマ。「従来のヒトラー映画が描こうとした歴史的事実ではなく、人間的真実に迫る映画にしたかった」。そのために選んだのがコメディーという形式だったという。
──なぜヒトラーの映画を。
ユダヤ人である私にとって、ヒトラーは重要な人物。いつか彼をテーマとした映画を撮りたいと思っていた。撮るからには、従来のヒトラー映画、ナチス映画とは違うものにしたかった。多くの映画にはナチスに対する畏敬の念が見られる。たとえば「ヒトラー 最期の12日間」は作品としては素晴らしいが、無意識のうちにナチの栄光を描いている。そういう映画は撮りたくなかったので、コメディーという形式を選んだ。コメディーは既成概念を破れるし、ポリティカル・コレクトネス(政治的正当性)に縛られず、自由な表現が許されるからだ。
──映画にはどんなメッセージを。
明確なメッセージはない。個人的な気持ちが出発点になっている。家族はユダヤ人としてドイツからの亡命を経験している。ドイツでなぜあれだけの大量殺人が可能だったのか、他の人よりも知りたい気持ちが強い。本作がきっかけとなって、ナチスが勃興した原因について何か発見ができればいい、ディスカッションが起こせればいいと思った。
映画を撮るにあたっては、アリス・ミラーという心理学者の「Black Education」という理論に影響を受けた。当時、子供たちは暴力を受け権威主義的な状況の中で育った。家庭でも子供の虐待は日常茶飯事だった。暴力を受けて育つと、大人になっても相手に暴力をふるおうとする。そういう現象はヒトラーに限らず、ドイツ人全体にあてはまる。ミラーの理論は私に重要な考え方を提供してくれた。
──主人公には監督自身を投影したのか。
私自身、あの時代に生きていたらどういう行動をとっていただろうと考えた。あの独裁体制の中で、どれだけ勇気を持てるか。命が脅かされた時、どれだけモラルを維持できるのか。彼は最後のシーンで、自分の命をかけて真実を語る。彼は英雄と言っていい。私が彼のように行動できたかどうかは自信がない。
──主人公の名をヒトラーと同じアドルフとしたのは。
アドルフという名は、ユダヤ人でもポピュラーな名だった。だから、現実的な話としても違和感はない。また、ヒトラーとグリュンバウムとの間に、親戚のような関係を持たせるのは面白いとも思った。つまり1つのメダルの表と裏。当然、これは勇気のいるやり方だった。映画の中で「ファシストに会ったらキスをしろ」というツホルスキーの言葉が引用されているが、この考え方にも通じるところがある。つまりファシストに会ったら、拒否するのではなく、感情移入をして、理解するということだ。
──ドイツ語のサブタイトル「Die wirklich wahrste Wahrheit ueber Adolf Hitler(アドルフ・ヒトラーに関するまさしく本当の真実)」に込めた意味は。
このサブタイトルはアイロニックなものとして考えていた。ところが、これは決してアイロニックではないことに気づいた。作品で表現した真実は、史実そのままではない。その意味では矛盾しているように思える。だが、歴史的な事実と人間的な真実は違う。「ヒトラー 最期の12日間」は、12日間の地下壕の中での出来事を再現しているというが、それは違うと思う。映画はあくまで芸術だ。芸術で歴史的事実は再現できない。だから私は、史実ではなく人間的な真実を描いたのだ。
──本国での反応は。
ヒトラー役は有名なコメディアンのヘルゲ・シュナイダー。この俳優がヒトラーを演じたこと自体がビッグニュースだった。観客は最初から最後まで爆笑の連続だと期待した。「モンティ・パイソン」の類だと思ったのだ。それが観てみるとけっこうハードな内容なので、落胆したり驚いたりしたようだ。
一方で「ヒトラーを笑いの種にしてはいけない」という意見も多かった。「ヒトラーを笑いの種にしていいのか」というアンケートまでとられた。驚いたことに、国民の60%は「ヒトラーを笑ってはいけない」と答えていた。もう一つ、ヒトラーをあれだけ人間的に描いて許されるのか、という議論も起こった。かわいそうな人間であるヒトラーに同情心を抱いていいのかと。私はナチス、ヒトラーを許しているわけではないのに。それは理解されなかった。
私がこの作品の中で描いたことは、ドイツよりも国外で理解されている。ドイツ人は聞く耳を持たない。さっきアリス・ミラーの話をしたが、あれほどの大量殺人者について、「子供時代にどうだったからああなった」というアプローチをとることは、ドイツではタブーなのだ。私は、ヒトラーと同じような教育を受けて育った子供がたくさんいたのだ、と説いているのだが、理解してもらえなかった。
──本作が遺作となったウルリッヒ・ミューエに対する思いは。
私は彼の大ファンだった。グリュンバウム役のオーディションに参加してくれるよう、私から依頼した。にもかかわらず、私は役に合わないと思い、一度は断ってしまった。しかし、他になかなかいい俳優が見つからない。そこでもう一度ミューエに電話し、再チャレンジしてくれるよう頼み、彼を起用したという経緯がある。
最初、役に合わないと思ったのは、もうちょっと悪知恵がありそうな人物像をイメージしていたのに、彼はあまりにフレンドリーで無害な人物という印象だったからだ。しかし、編集作業の中で、私はミューエの偉大さを再認識させられた。知的で計算された狡猾さを感じさせるミューエの演技は素晴らしいものだった。
撮影中、彼は自分が胃ガンであることを知らなかった。わかったのは、ポスト・プロダクション(編集)の段階だ。彼はガンを克服できると信じていた。彼の死を思うと今でも悲しい。
映画ジャッジ(町田敦夫)
◆ドイツ映画界の地雷を踏むシニカルな人間喜劇 (70点)
日本にはコメディのウケにくい土壌があるだけに、本作の配給元が人間ドラマを前面に打ち出した宣伝戦略を採るのは致し方のないことだとは思う。とはいうものの、そのためにコメディファンが本作を見逃すようなことがあるならあまりにも惜しい。そう、本作はコメディ、それも上質のコメディだ。
ナチスドイツの敗色が濃厚となってヒトラーは鬱状態。そんな総統に国民の士気を鼓舞するような大演説をさせたい側近は、強制収容所からユダヤ人演劇教師のグリュンバウムを召喚し、ヒトラーへの演技指導を命じる……。
なんとも人を食ったこの筋立てに、脚本・監督のダニー・レヴィは大小のギャグをたっぷりと詰めこんだ。のっけからナチスの官僚主義・形式主義を茶化した小ネタの連発。ユダヤ人の主人公が「依頼を断れば殺され、従えばナチスを利する」というジレンマに直面するのは『ヒトラーの贋札』(07)と同様だが、こちらのグリュンバウム先生はジャージ姿のヒトラーに腕立て伏せをさせたり、メソッド演技よろしく犬の真似をさせたりとやりたい放題。ついには独裁者に対してあんなことまでも……。
ナチスとユダヤ人の関係をコメディに仕立てるとはずいぶんと思い切ったことをしたものだが、それもダニー・レヴィ自身がユダヤ人だからこそできたこと。さらに言うなら彼が中立国のスイスで、しかも戦後になってから生まれた人間であることも、このブラックな傑作を生み出せた主因の1つであるに違いない。自身や親兄弟が直接強制収容を体験した者なら、あるいは逆に米国のような遠隔地にいたユダヤ人なら、同胞の悲劇に対するこの絶妙な「距離感」はおそらく取れなかったはずだ。
「独裁者いじり」を続けるグリュンバウムだが、相手の機嫌を損ねればたちまち処刑されるという彼の境遇は、観る者の心に通奏低音のように重くのしかかる。主人公がヒトラー暗殺の好機を次々と逃すのは、笑いを取るためばかりではなく、「私は人殺しなどしない」というダニー・レヴィの矜持の表れ。チャップリンの『独裁者』を思わせる終幕の急転も胸に迫る。その意味で、本作を人間ドラマとする見方も決して間違ってはいない。主演のウルヒッヒ・ミューエは昨年急逝したため、惜しくもこれが遺作となった。
エンディングのタイトルバックがまた考えさせられる。ドイツの一般国民にヒトラーについてインタビューしているのだが、年配者の多くは言葉を濁し、子供たちは「(ヒトラーが誰かを)知らない」と答えるのだ。「おいおいドイツ人よ、大丈夫か?」と思わず尋ねたくなったが、すぐに思い直した。戦争の記憶を風化させているのは彼らだけではないのだから。