zames_makiのブログ

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「遅すぎた聖断」(1988)RBC

10:30〜10:40「わだつみのこえ記念会建設」2006年 NHKニュース
10:40〜11:10「政府派遣遺骨収集の記録」2002年 太平洋戦史館
11:20〜12:00「遅すぎた聖断」1988年 琉球放送
12:40〜13:40「ドキュメント沖縄戦」1995年 沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会
13:50〜16:00ドキュメンタリー映画ひめゆり」2007年 柴田昌平
場所:江戸東京博物館ホール
参加費:1000円
主催:日本戦没学生記念会わだつみ会


テレビドキュメンタリー 琉球放送RBC) 1988年6月放送 慰霊の日特別番組
天皇の戦争責任を明確に追求し、大きな衝撃を与えた。沖縄県民に沖縄戦の避けられた悲劇に被害者であるという共有認識ができた。安仁屋政昭が明確に沖縄は「国体護持」のために犠牲にされたと書いた「沖縄と天皇」。(横田雄一、消された裁き、p215)

背景:1987年国体で天皇が沖縄へ、→天皇の戦争責任議論→天皇メッセージ「アメリカが沖縄を25年〜50年占領し続けるのは日本にとって好ましいことだ」(1947年)が焦点→発展


(映画評)
 『遅すぎた聖断-検証・沖縄戦への道』というテレビドキュメンタリーを知っているだろうか。琉球放送が一九八八年に製作した特番である。それまで沖縄の土を踏んだことのなかった天皇を招き「沖縄戦の記憶を精算しよう」とした国と県の共同プロジェク卜・海邦国体の折り、あらためて天皇沖縄戦との関係を検証した力作である(実際は病に斃れ、昭和天皇が沖縄を訪れることはなかった)。

 番組は「玉音放送」からフェードインしていくが、天皇名代として来沖した皇太子が、摩文仁で遺族を前にして「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害をこうむり、住民を含めたあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大な苦労を余儀なくされてきたことを思い、深い悲しみと痛みを覚えます」という天皇の「お言葉」を導入部においている。

 冒頭のこの言葉が、どのように生々しい歴史的な事実と流された血を覆い隠し、戦争の責任主体を不問にした空虚な美文であるかを、事実を丹念にたどることによって明らかにしてみせた。天皇の戦争への関与を縦糸に、沖縄守備軍の作戦計画、日本軍の沖縄住民観、皇民化教育と戦争被害の関係などを複数の横糸にしながら、沖縄戦記録フィルムや側近が残した史資料、第32軍作戦参謀八原博通の残されたテープ、歴史学者戦史研究家のインタビュー、アメリカの国威高揚フィルムなどで、沖縄戦の時間的な推移の、その節目節目での「聖断」の審級を炙り出している。

 こうした絡み合う複数の糸をたどって明らかにされたことは、沖縄戦が本土決戦を引き延ばすための戦略的持久戦であったこと、「聖断」の隠されたモチーフが「皇土の防衛と国体の護持」であったこと、さらに<遅すぎた聖断>によってアジア太平洋や沖縄で累々たる死を重ねたことである。

 そしてラスト。宮内庁御用掛・寺崎英成から外交顧問シーボルトを通して国務省に伝達された「天皇アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望する」という「天皇メッセージ」でフェードアウトする。象徴天皇のメッセージは「国体」を延命させ、日米安保と沖縄占頑の原像となったということである。 <2004年1月23日>
http://www5b.biglobe.ne.jp/~WHOYOU/retsuden.htm#