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不破哲三氏によるアジア・太平洋戦争のまとめ

題名:「科学の目」で日本の戦争を考える
 出典:web赤旗「第41回赤旗まつり 不破社研所長の講座 「科学の目」で日本の戦争を考える」2014年11月7日(金)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-11-07/2014110704_01_0.html

戦争をどうつかむかは日本の前途を左右する問題

 来年は第2次世界大戦の終結70周年です。連合諸国と世界の反ファシズム・民族解放の立場に立つ諸国人民が、日本・ドイツ・イタリアの侵略国家・枢軸陣営を打ち破って、戦後世界の平和秩序に道を開いた記念の日です。不破さんは「この日を、日本国民がどういう立場で迎えるか。世界中から注目されています」と述べました。

 そして、自身が、生まれた翌年に「満州事変」、小学校2年生で日中戦争、6年生で太平洋戦争、中学3年から東京・品川の電機工場に動員され、4年生で敗戦を迎えた世代だと語り、「戦争の実体験を持たない世代の観念的な戦争美化論が政界で横行し、いわゆる『靖国史観』の信奉者が政権を乗っ取っている今日、日本の戦争の実態を事実に基づいて科学的につかむことは、日本の前途を左右する根本問題です。その意味で、自分の体験も含めて、日本の戦争とは何だったかを、いくつかの角度から考えたい」と語りました。

戦争の性格はなんだったのか

判断できない政府は国際政治に参加する資格なし

 歴代の自民党政権は「戦争の性格は歴史家が決める」で逃げてきました。不破さんはこのことを自らの国会質問の経験を交えて語りました。

 田中内閣は1972年、中国と国交を回復する日中共同声明を発表しました。翌73年の予算委員会で不破さんは田中角栄首相に、中国に対する戦争から太平洋戦争まで、日本の戦争に対する考えをただしました。田中首相の答えは「侵略戦争であったかなかったかという端的なお答えは、後世、歴史家が評価するものであるという以外はお答えできません」というものでした。

 その16年後、竹下登首相が同じ答弁を繰り返すので、「日本の戦争を侵略戦争と認めないあなたは、ヒトラーが起こした戦争をどう思うのか」と追及すると、答えに窮したあげく、竹下首相から返ってきたのは「この問題は学問的にはまだ整理されておりません」という答弁でした。すぐにAP通信が「日本の首相、ヒトラーの戦争を肯定」と世界に打電し、アメリカ太平洋軍の準機関紙「スターズ・アンド・ストライプス」(星条旗)も大々的に報道しました。過去の戦争に対する日本政府の態度が国際問題となった最初のケースでした。


(地図)〔1〕
 「侵略戦争かどうかの判定ができない政府は国際政治に参加する資格がない」と述べた不破さんは「日本の戦争の性格の判定は簡単明瞭です。武力で領土拡大、外国の支配をはかるのが侵略戦争です。その尺度で見たらどうでしょうか」と述べ、1931年から45年までの十五年戦争がどう始まったのかを語りました。

侵略戦争」の事実、公文書で明らか

 十五年戦争には3段階がありました。

 (1)「満州事変」(31年9月)

 これは、「満蒙」(中国東北部内モンゴル)を日本の領土にするのが使命だと豪語していた関東軍日露戦争で獲得した「権益」擁護のために派遣された日本軍)が自分で鉄道を爆破し、これを中国軍の仕業だとして中国軍を攻撃して開始した謀略的な戦争でした。

 政府は、現地・奉天(現・瀋陽)の日本領事の報告で鉄道爆破事件が日本軍の計画的行動だと知りましたが、そのまま戦争を追認。関東軍は数カ月で「満州」全土を占領し、翌年にはかいらい国家「満州国」をつくって、全域を自分のものにしてしまいました(地図〔1〕)。だれが見ても明らかな侵略戦争でした。

 この戦争の目的も、事変前から、軍部とマスコミで、“「満蒙」は「日本の生命線」”という領土要求をむきだしにした主張がしきりにふりまかれていました。

 (2)日中戦争(37年7月)


(地図)〔2〕
 「満州」をわがものにしただけでは満足しない日本が、支配領域を中国の中心部にまで拡大しようとして始めた戦争です。きっかけは、北京近郊の盧溝橋での日中両軍の小規模な衝突事件(7月7日)でした。現地では中国側が妥協して、日中両軍が停戦協定を結びました。しかし、近衛内閣と軍部は事件を中国に攻め込むチャンスと見て、停戦協定に調印したその日(7月11日)に大軍の派遣を決定し、日中戦争が始まりました。

 この戦争の理由づけについては、政府は8月15日、「もはや隠忍その極に達し、支那(中国)軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し以って南京政府の反省を促す」とする声明を発表しました。「膺懲」とは「こらしめる」という意味です。

 不破さんは、外務省が発行した『日本外交年表並主要文書 1840〜1945』を手に、そこに収められた「講和交渉条件」(37年12月、38年1月決定)を紹介しました(地図〔2〕)。これは日本政府が中国側に示したもので、「満州国を正式承認すること」、「北支及内蒙」と「中支占拠地域」(上海、南京など)に「非武装地帯を設定」することなどの要求が並んでいます。「非武装地帯」といっても、日本軍は「駐屯」するというのですから、日本の占領地帯ということです。このように、領土拡大と中国支配の要求が公然と掲げられていました。不破さんは「中国政府からは相手にされませんでしたが、侵略目的は公式の歴史に記録されている」と語りました。

 (3)太平洋戦争(41年12月)

 この戦争の領土拡大の目的は、開戦前年の40年9月に締結された日独伊三国軍事同盟に明記されていました。この条約がまずうたったのは、日本はドイツ・イタリアの「欧州新秩序」建設(ヨーロッパの征服)に協力し、ドイツ・イタリアは日本の「大東亜新秩序」建設(大東亜の征服)に協力するということです。つまり、3国による世界再分割条約で、日本の政府と軍部は、その年の9月の政府・大本営連絡会議で、日本の勢力範囲とする「生存圏」の範囲を決定しました(地図〔3〕)。それを実行に移したのが太平洋戦争だったのです。

 不破さんは「このように、政府・軍部の決定した公文書そのものが侵略戦争の実態をあからさまに示しています。弁明の余地はありません。それをごまかしてきたのが歴代の自民党の政府でした」と強調しました。

どんな仕組みで戦争をやったのか――世界に例ない体制

戦争方針は天皇と軍首脳部がすべてを決める


(地図)〔3〕
 日本の戦争指導は、世界に例のない異常な体制によって行われました。それは、開戦の決定には首相が参加するものの、戦争の方針は天皇と軍首脳部がすべてを決めるというものでした(これが、軍の統帥権天皇に属するという明治憲法の仕組みでした)。

 不破さんは、首相と政府の無力さを示す二つの例を紹介しました。

 日中戦争が始まってしばらくたった37年7月下旬、閣議で閣僚が「だいたいどの辺で軍事行動をとめるのか」と質問したのです。海相がこの辺だと答えると、陸相が「こんなところ(閣議)でそう言っていいのか」と海相を怒鳴りつけました。弱った近衛文麿首相が、天皇に、「将来の計画を立てる上でぜひとも必要なものはお知らせ願いたい」と求めたところ、天皇はしばらくして“軍部は政党出身大臣の同席する閣議では報告できないと言っている。必要なことは、天皇自身が首相と外相だけに伝える”と回答したのでした。政府は戦争にノータッチということが、当たり前の体制だったのです。

 もう一つは、太平洋戦争の冒頭、12月8日に行われた真珠湾攻撃です。これは、極東国際軍事裁判東京裁判)での東条英機(太平洋戦争開戦時の首相・陸相)自身が証言していることですが、東条は、いつ真珠湾攻撃について知ったのかと問われ、「作戦計画を聞いたのは12月2日ごろ」、それも「(首相としてではなく)陸軍大臣の資格で参謀総長から聞いた」と答えたのです。真珠湾攻撃の作戦命令は11月5日に発せられ、連合艦隊は11月23日に千島の基地を出発していたのですが、東条のような軍人首相でさえ、作戦計画にはまったく関与しなかったのです。これが旧憲法下の政府と首相の実態でした。

全局に責任負う指導者が不在、展望ないまま戦争

 この体制で戦争指導の実態はどんなものだったのか。

 法制上は天皇が絶対権限をもっていましたが、作戦を立てるのは軍首脳部で、軍は天皇に計画を「上奏」して許可を求めます。天皇はそのときに「それで勝てるか」「外国を刺激しないか」などの質問や意見を言いますが、こういうやりとりで戦争が進むのです。

 では、作戦を立てる軍そのものはどうかというと、陸軍と海軍は互いに仲の悪いことで有名でした。しかも、日中戦争からの8年間を数えても、参謀総長(陸軍の最高幹部)は4人、軍令部総長(海軍の最高幹部)は5人と次々に交代します。結局、十五年戦争の全期間を通じて戦争指導部にいたのは天皇だけでした。さらに、天皇と軍首脳部とのやりとりで大まかな方針が決まっても、実際の作戦計画の立案と実行は、大本営に陣取る作戦参謀たちが勝手に行いました。

 不破さんは『前衛』連載中の「スターリン秘史」執筆の過程で痛感したこととして、アメリカではルーズベルト、イギリスではチャーチルソ連ではスターリン、ドイツではヒトラーが全局をにぎって戦争を指導したのに対し、日本では戦争全局に戦略的責任を負った指導者が誰もいなかったことを強調しました。「第2次世界大戦をたたかった主要国家でこんな国は日本だけ。戦争指導部の弱体さと不統一さは、主要国の中で際立っていました」

 ですから、十五年戦争の3段階をとっても、まともな展望をもって始めた戦争は一つもなかったのです。

 「満州事変」では日本は、中国共産党との国内戦を優先させた蒋介石が東北部の中国軍に無抵抗主義の指示を出したため、短期間での満州全土占領に成功しました。

 しかし、日中戦争では、同じように「中国を一撃で屈服させて華北は奪取できる」と考えた日本の政府・軍部の思惑は、完全なあて外れに終わりました。37年初めに中国で国民党と共産党との抗日統一戦線の結成が進み、情勢が根本的に変化していました。中国全土に抗日戦の機運が高まり、華北を攻めても、上海・南京を落としても、中国政府は屈服せず、戦争は長期戦となりました。予想外の事態に直面して、日本軍は勝算を失ってしまったのです。

 太平洋戦争では、緒戦は真珠湾への不意打ちの奇襲攻撃などで大戦果を挙げましたが、アメリカは42年早々には反攻の態勢を整えました。しかし、日本の戦争指導部は米国の反攻は43年以降になると楽観し、42年6月、ミッドウェー海戦を仕掛けて空母部隊全滅という大敗を喫し、太平洋での制空権を失いました。これが決定的な転換点となり、これ以後は戦争らしい戦争は一つもできず、敗戦への道を一歩一歩たどり続けることになりました。

兵士たちはどんな戦争をさせられたか――半数以上が餓死者

 この戦争での兵士たちの運命に話を移した不破さんは、歴史学者の故・藤原彰氏の『餓死(うえじに)した英霊たち』を紹介しました。同書によると、日本軍人の戦没者230万のうち少なくとも半数以上が餓死者だったのでした。(地図〔4〕)


(地図)〔4〕
補給無視。ガダルカナルの場合

 このようなことが起きたのは、軍首脳部が補給無視の戦争を行ったからです。

 ガダルカナル島の戦闘(42年8月〜43年2月)では、大本営は、制海権・制空権もない中、この島へわずかな食糧だけを持たせた兵士を次々と3万人も送り込みました。その結果、兵火による戦死者5千人に対し餓死者は1万5千人に上ったのでした。

 補給無視は「陸軍の弊風」でした。不破さんは、戦国時代でさえ補給は重視されていたのに、近代の日本軍では昭和の初めまで輸送に携わる兵は「卒」と呼ばれ、「輜重(しちょう=輸送)輸卒も兵隊ならば電信柱にも花が咲く」と言われていたことを紹介し、「こんな軍隊は日本の歴史にも世界にも例がない」と強調しました。

軍人勅諭」と「戦陣訓」 捕虜になるより「死を選べ」

  不破さんは「もう一つ、『餓死した英霊』を大量に生んだ重要な背景に、日本軍隊の規律の問題があった」と述べました。

 日本軍の規律は「軍人勅諭」(1882年)と「戦陣訓」(1941年)に示されていました。「軍人勅諭」は「朕(ちん=天皇の自称)は汝ら軍人の大元帥なるぞ」「義は山岳よりも重く、死は鴻毛(こうもう=鳥の毛)よりも軽しと覚悟せよ」「下級のものは上官の命を承ること、実は直に朕が命を承る義なりと心得よ」と命じ、「戦陣訓」は「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」としました。

 この二つの規律は絶対でした。どんな無謀な、成算のない作戦計画でも、上級の命令だと従わざるを得ませんでした。さらに、武器も食糧もなくなった状況でも、“捕虜になるより死を選べ”と教えられ、「餓死」か「玉砕」(全滅)以外にとる道はありませんでした。

 ニューギニアでは、大本営の参謀たちが地図だけを見てつくった、標高4000メートル級の山岳を越えてポートモレスビーを攻略するという無謀な作戦に大軍が投入され、それが全滅した後も次々と軍を送りこんで、十数万人もの餓死者をだしました。

 ビルマからインドのインパールを目指したインパール作戦は、現地軍の司令官の功名心から計画されたもので、補給の条件なしの無謀な作戦が、反対する参謀長や師団長を次々と首切りながら強行されました。8万6千人のうち帰還はわずか1万2千人。退却する日本軍の通った道は死屍累累(ししるいるい)で「白骨街道」「靖国街道」と呼ばれました。

 爆弾を抱えた飛行機で艦船に体当たりする特攻作戦も、日本軍の非合理性と非人間性をあらわしたものでした。

国際法無視、旧ドイツ軍「戦陣訓」と比べても

 不破さんはまた、日本の行った戦争が「国際法無視の戦争」だったことを強調しました。

 日清戦争日露戦争、第1次世界大戦では「宣戦の詔書」で一応は国際法の順守をうたっていました。しかし、日中戦争では、開戦早々、中国への派遣軍に“全面戦争をしているわけではないから、戦時国際法の具体的な条項のことごとくをまもる必要はない”といった陸軍次官の通牒(つうちょう)を出すことまでしました。さらに、中国・朝鮮などアジア諸民族を蔑視する教育も行われました。これが、南京事件や「慰安婦」問題などの多くの戦争犯罪を引き起こす大きな背景となったのです。

 不破さんは、シベリアに抑留された斎藤六郎さん(全国抑留者協会長)の著書で読んだこととして、収容所で出会ったドイツの将兵が歌っていたドイツ流「戦陣訓」の歌を紹介しました。全部で10項目、「不必要な野蛮行為を避け騎士道を守って戦うこと」や「降伏した敵兵の命はこれを奪わぬこと」「捕虜を人道的に待遇すること」「非戦闘員を迫害せず、略奪をしないこと」などなどです。ヒトラー国際法無視の侵略戦争ユダヤ人虐殺をやりましたが、そのもとでも、ドイツの国防軍将兵戦時国際法を教えていたのです。

 「ヒトラーの軍隊さえこのような『戦陣訓』を持っていました。ところが、日本軍は将兵国際法などいっさい知らせなかった。『靖国派』は日本軍を、『住民虐殺』とも『慰安婦制度』とも無縁な、整然とした秩序正しい軍隊だったと主張していますが、これは日本の軍隊の実態を全く知らない者の言い分です」

国民はどんな扱いを受けたか――国民の命より「国体*1護持」

国民が好戦派の首相を選んだことはなかった

 ここで不破さんは、6月に訪問を受けたアメリカの研究者からドイツと日本の国民の戦争責任の違いについて問われたのに対して、ドイツ人がヒトラーの党を2度の総選挙で第1党に選んだのに対し、専制体制下の日本では、国民が好戦派の首相を選んだことは一度もなかったことを指摘し、そこがドイツとの一番の違いだと話したことを紹介しました。

 日本は、世界でファシズムが問題になる以前から、民主主義と平和の言論と行動を徹底的に抑圧した国でした。日本共産党は1922年、その体制下で生まれ、侵略戦争反対、専制政治軍国主義反対でたたかいぬきました。世界の主要国で、共産党が最初から戦争終結の日まで非合法だったという国は日本以外にありませんでした。こうして平和と民主主義の声を強権で排除した上で、天皇絶対、戦争美化の考え方を国民に徹底してたたきこんだのでした。

最後の1年間、「もう一度勝ってから」と「一億玉砕」へ

 では、その国民は戦争指導部によってどういう扱いを受けたか。不破さんは、戦争の最後の時期の状況を語りました。

 日本は44年半ばには、戦争の見通しが完全になくなっていました。サイパン島の陥落で東条内閣から小磯国昭内閣に代わり(44年7月)、その背景には戦争終結への転機をつかもうという動きもありましたが、「もう一度は勝ってから」という天皇以下、軍部から重臣たちに至る全戦争指導部の共通の思惑がこの願望を空回りさせました。

 44年10月、フィリピン上陸作戦に先立って台湾〜沖縄方面に接近したアメリカの機動部隊を日本の航空部隊が迎撃しました(台湾沖航空戦)。そのとき、日本軍は1隻も米艦を沈めていないのに、未熟な搭乗員の誤認によって「空母19隻、戦艦4隻を撃沈・撃破」という架空の「大戦果」を大々的に発表しました。大本営自体もこれに舞い上がってしまい、フィリピンでのルソン決戦の計画を変更し、米軍は機動部隊が壊滅して裸でレイテ島に来るのだからその水際で撃滅せよと作戦変更を指令しました。ところが米軍は大艦隊の援護のもと上陸作戦を強行、日本軍はジャングルに逃げ込むしかない惨状になりました。戦争の実情も把握できない日本の戦争指導部の無能さが再び世界にさらけだされました。

 このフィリピン戦敗北の時点で戦争終結への決断があったら、その後の本土空襲も、沖縄戦も、広島・長崎への原爆投下も、「満州」へのソ連の侵攻と引き揚げの悲劇もありませんでした

 しかし、日本の戦争指導部は、戦争終結への決断をせず、日本に降伏を求める連合国のポツダム宣言(45年7月26日)が発表されても「黙殺」「戦争邁進(まいしん)」の発表です。

 日本の戦争指導部の頭にあったのは「国体(天皇絶対の体制)護持」だけで、国民全部が死んでも国体は譲るなと「本土決戦」「一億玉砕」を叫んだのでした。不破さんは「国民の受ける苦難への思いはまったくなかったのです」と語りました。

「国体」とはなにか。天皇よりも「三種の神器

 その「国体」とは何だったか。不破さんはここで、終戦直前の「国体」をめぐる宮中エピソードを紹介しました。

 45年7月25日、木戸幸一内大臣が「本土決戦になったら、大本営(つまり天皇のこと)が捕虜になることも起こりうる。三種の神器の護持が危うくなる」と天皇に進言しました。三種の神器とは、皇位の象徴とされる三種の宝物、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)のことです。

 当人は戦争終結を急げという進言のつもりだったようですが、6日後に天皇から、“考えたが、自分が長野県・松代(まつしろ=大本営疎開先として建設されていた巨大地下壕〈ごう〉)に持ってゆくのがいいと思う”という回答がありました。天皇の頭にも、あるのは三種の神器のことだけでした。

 この地下大本営を建設していた工事主任の記録によると、三種の神器の保管場所として「天皇の御座所の隣室を準備した」ところ、宮内省から「天皇に万一のことがあっても、三種の神器は不可侵だ。同じ場所は許されない」と変更を命じられました。不破さんが「『国体』とは、三種の神器というただのモノのことだったのです」と話すと、参加者からは笑いが起こりました。

安倍内閣――戦後世界秩序壊す「日本版ネオナチ」勢力

90年代に台頭した「大東亜戦争」礼賛派が自民乗っ取り

 最初に述べたように、日本の戦争にまともに向き合おうとしないのは、自民党政府の伝統的体質でした。

 日本共産党はこれを追及し、小泉首相靖国神社訪問を行った時には、党本部で各国大使館や内外のジャーナリストも招いて「日本外交のゆきづまりをどう打開するか」と題した時局講演会(05年)を行いました。不破さんはここで、侵略戦争礼賛という靖国神社の精神が遊就館(同神社の軍事博物館)に具体的に表れていることを説明しました。効果は絶大で、外国大使館の人たちや海外ジャーナリストが次々と遊就館を訪れるようになりました。

 その後も、不破さんは「北条徹」のペンネームで、「“靖国史観”とアメリカ」などの論文を「赤旗」に連続発表して、小泉首相との論戦を続けました。「靖国史観」という言葉はここから生まれました。

 「しかし、小泉首相は参拝には固執しましたが、侵略戦争の事実を否定することまではしませんでした」。こう述べた不破さんは「その自民党の中で90年代に、日本の戦争は正義の戦争だったと主張する異質な流れが頭をもたげてきました」と語りました。

 きっかけは、「慰安婦」への日本軍の関与と強制性を認めて謝罪した「河野官房長官談話」(1993年8月)と、日本の行った戦争は侵略戦争だったという認識を示した細川護熙首相の会見(同)でした。

 これに危機感を持った自民党は同月、「歴史・検討委員会」を設置(奥野誠亮・顧問、板垣正・事務局長)しました。これには、当選したばかりの安倍晋三氏も参加しました。同委員会が95年8月に出した『大東亜戦争の総括』は、「大東亜戦争」(政府・軍部による当時の戦争の呼称)は自存・自衛のアジア解放戦争だと美化し、南京大虐殺事件、「慰安婦」問題はでっちあげだと攻撃しました。

 96年には「新しい歴史教科書をつくる会」が発足、97年にはこの運動を応援する「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」がつくられ、事務局長に安倍氏がつきました。

 不破さんはこうした経過を語り、「安倍首相は、この『大東亜戦争』肯定論の真っただ中で育成され、先輩たちからその使命をたたき込まれて、首相にまで押し上げられた人物なのです。当選4年目で、『若手議員の会』の事務局長になり、大東亜戦争肯定の教科書を作った張本人です」と指摘しました。「侵略戦争を是とするこの異質な潮流が政権についたのが今日の安倍内閣です。いわばこの潮流が政権と自民党を乗っ取ったのです」

 安倍政権を支えているのが、戦争美化の中心組織である「日本会議」国会議員懇談会と、天皇中心の国づくりを目指す「神道政治連盟」国会議員懇談会です。

 第2次安倍改造内閣の18人の自民党閣僚は全員、「日本会議」か「神道政治連盟」のメンバーで、「政治とカネ」の問題で辞任に追い込まれた2人に代わって就任した新閣僚にも「神道政治連盟」のメンバーがおり、その性格はまったく変わりません。

 この異質な潮流が自民党を乗っ取る中で、多くの自民党幹部が居場所を失いました。「赤旗」に登場して話題になった古賀誠さん(自民党元幹事長)はその一人です。

ウルトラ右翼勢力の政治支配を一日も早く終わらせよう

 不破さんは、こうした潮流はヨーロッパのネオナチと同質・同根のもので、まさに「日本版ネオナチ」だと強調し、「安倍首相がくつがえそうとしているのは憲法9条と日本の戦後史だけではなく、ファシズム軍国主義侵略戦争の断罪の上に築かれた世界の戦後秩序だ」と警鐘を鳴らしました。

 最後に、不破さんが「まさに亡国の政治です。亡国政治がはびこれば、日本は世界で生きていくことができなくなります。このウルトラ右翼勢力の政治支配を一日も早く終わらせることが、今日、日本の未来のためにも、アジアと世界のためにも、日本国民が果たすべき重大な責務があります」と呼びかけると、聴衆は大きな拍手で応えました。

*1:天皇が支配する日本国」という国家体制のこと、日本政府主導部は1945年8月「国体護持か全面降伏か」で最後まで意見統一できず終戦が遅れた。連合国からつきつけられたポツダム宣言は無条件降伏を要求していたが、これに例え降伏しても天皇の地位の保全を条件にしようとした。連合国がこれを認める事が難しいと思われたため降伏が遅れた。最終的に勝手に天皇の地位保全を条件にポツダム宣言を受け入れるとラジオを通じて回答した。