朝鮮戦争の経過
<朝鮮戦争の経緯>
1945.8.15 日帝の敗北・光復
8.20 38度線の提案と決定
9.8 アメリカ軍の上陸
(前史)米による韓国の弾圧
1948.4.3 済州島事件
1948.5 単独選挙実施
1948.10.20 麗水の騒動
1949.夏 アメリカ軍の撤退
(南下)=北による統一
1950.6.25 戦争開始
6.25夜 国連での非難決議→各国軍・ソ連は欠席
6.25夜 アメリカ軍に準備命令
6.27 ソウルの陥落(3か月占領)
各地で共産パルチザンの活動活発化
6.28? マッカーサーの前線視察
6.30 米軍出動、小倉の第24師団 1.6万板付飛行場から
7.3 国連軍をアメリカが指揮(ソ連欠席)
米韓軍が国連軍に
7.14~7.21 大田の戦い
7.20 大田陥落
7末 洛東江へ戦線到着
8.1~9.24 多富洞の戦い(大邱近郊)
8.1週 戦線の膠着化
8.4 B-29の北への爆撃開始
(北進=ロールバック)米による征服
9.15 仁川上陸作戦。反攻開始
9.26 ソウルの奪還
10.2 ロールバック公式化、国連で決議
10.7 北に降伏勧告
38度線こえ北進開始
10.10 元山占領
10.17 威興、興南を占領
10.20 平壌占領(1か月占領)
10.25 中国軍が国連軍と初めて戦闘
10.26 元山上陸作戦
10末 清津他、北部のラインに到達
(再度南下:38度線まで)=米の対中戦争・核戦争の可能性
11.24 中国人民志願軍の参加で反攻(第1次戦役)
11.27 長津湖の戦い~12.11
12.5 平壌の奪還
11 ソ連戦闘機がソ連兵操縦で参加開始
11.30 トルーマンが原爆使用可能性あると言う
12.15 トルーマンが国家非常事態宣言だす
12.19 マックに「錦江ラインで韓国より撤退」指令出てる
12.30 マック問う「朝鮮撤退&日本防衛か中国への限定攻撃か」
12.31 38度線を越えて侵攻
1951.1.4 ソウルの再占領(2か月占領)
1.7 37度線まで進行・停止(第3次戦役終了)
1.11 国連即時休戦を求める
1.14 国連停戦声明=北朝鮮は停戦に賛成×毛沢東は南進を主張
38度線以南で戦闘
1.28 毛沢東強気
(38度線近辺で膠着へ)
2.11 中朝軍が東部で攻勢に(以降38度線近辺で戦闘)
2.13 砥平里の戦い~2.15
3.7 米韓軍がリッパー作戦
3.14 ソウルから撤退
3.23 米政府停戦を検討×マックが空爆による攻撃主張
4.11 マッカーサーの解任→リッジウェイに
トルーマンが南進なら原爆使用を命令
3.末 全域で38度線まで後退
4.21 中国軍第4次戦役終了→第5次へ
4.23 中朝軍38度線再突破
5.21 第5次戦役で38度線こえてソウル北まで
5.24 38度線北まで押し戻される
人民志願軍第180師団が壊滅7000人死亡
6中旬 中朝軍38度線に接近
(停戦交渉)
6.23 マリクが国連で停戦を提案→韓国が反対
7.2 毛沢東が北朝鮮を停戦で説得
7.10 停戦会談開始(米韓×北朝鮮)米中朝はOK韓がNO
8ころ 朴憲永が北の再建政策
11.26 境界線で合意
1952.2.18 停戦後の会議で合意
3.7捕虜以外で合意→捕虜で対立
巨済捕虜収容所で暴動
北の細菌戦キャンペーン開始
6.23 米軍が水豊ダムを空爆、北は電力95%を失う
7.11 米軍が平壌を大空襲、死者7000人(圧力)
7.18 中朝側が捕虜全員送還を要求(圧力に負けぬ)
朴憲永の排斥
1953.1.20 米国アイゼンハワー大統領に
2.22 傷病捕虜の即時交換提案
3.5 スターリンの死
3.28 中朝側が捕虜交換にOK(停戦に障壁なし)
4.26 停戦会談再開
停戦に反対する李承晩を米が説得
7.27 停戦合意成立(12時間後に発行)
1955.5 智異山のパルチザン狩り終了
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<国連軍 参加国21ヵ国>
米国、英国、フランス、カナダ、豪州、ニュージーランド
オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、
トルコ、ギリシャ、コロンビア、タイ、フィリピン、
南アフリカ、エチオピア
スェーデン、デンマーク、ノルウェー、イタリア、インド