zames_makiのブログ

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死刑執行人もまた死す(1943)米目線のプロパガンダ

原題:HANGMEN ALSO DIE 120分 アメリカ 日本公開:1987/12/19
監督:フリッツ・ラング 原案:ベルトルト・ブレヒトフリッツ・ラング、ジョン・ウェクスリー 脚本:ベルトルト・ブレヒトフリッツ・ラング、ジョン・ウェクスリー 音楽:ハンス・アイスラー
出演:ブライアン・ドンレヴィ(ハイドリヒの暗殺者のレジスタンス、医者、最後までつかまらない)
アンナ・リー(暗殺者をかくまう女性、最初は迷惑するがやがて熱心に協力する)
ウォルター・ブレナン(女性の父親、チェコで有名な知識人、人質になりドイツ軍に殺害される)
デニス・オキーフ(女性の婚約者、最初は迷惑するが結果的に協力する)
ジーン・ロックハートレジスタンスに潜入したドイツ軍のスパイ、レジスタンスから逆に暗殺犯に仕立てられる)
アレクサンダー・グラナック(ゲシュタポ刑事、暗殺犯を追い詰める)

感想

「ハイドリヒを撃て」に伴い見直す。星3つ。これはサスペンス映画でも反ナチ映画でもなく、明らかなプロパガンダ映画だ、反ナチ映画とは戦争開始以前に作られたある種の意見を開陳するのに意味がある映画であろう、「ハワイ・マレー沖海戦」を反米映画とは呼ばないのと同じだ。この映画では事実をねじ曲げ、勝てるぞと戦意を煽る典型的なタイプでプロパガンダ的な演出も通常よく見られるものであり、むしろ抑え気味かもしれぬ。この映画を1943年にアメリカ人が見た視点(1)と2017年に日本人が見た視点(2)は、その社会環境と情報量が大きく異なり映画の評価にも大きくかかわる。1943年のアメリカ人観客にとってチェコスロバキアでおきた事件の詳細はわからないし、何よりドイツとの戦争が継続中であり、多少内容が疑わしくとも「ドイツを倒せ」というメッセージは大受けするし映画も好意的に評価されただろう。しかし2017年の日本人は事件の詳細も知りうるし無理な物語には違和感しか覚えないので評価も下がる、時代の差は同時に映画の意図する所も受け取りにくくなり、1943年なら当たり前のドイツ排斥も勝手に誤解して”下手なサスペンス映画”と受け取っても不思議はない。(実際数年前の私は初見でそううけとった、この映画を秀逸なサスペンス映画とする日本の一部の批評は米国の評価時期による影響を理解せず、評価のみを鵜呑みにしたものだろう=自分の評価軸のなさの証明である)。私が多くのプロパガンダ映画を見た経験から言えば、これはまあ並のプロパガンダ映画である、事実を勝手に利用し結末は戦争協力を呼びかけるのは典型でありうまくもないし下手でもない。ラストがドイツ軍に殺された人の墓を背景に「never surrender=けして負けないぞ!」の歌を背景に「NOT END」と出るのはあまりにあからさまで当時でも白けたかもしれない、が少なくとも1943年の観客にはけして否定的には受け取られないだろう。

 しかしプロパガンダ映画として見ても欠点は多い。即ち物語が複雑で分かりにくい。主人公の女性は前半強く暗殺犯を批判するのがなぜ転向するのか描かれてない、ゲシュタポに逮捕されれば拷問を受けるのが何度も暗示(キーワード「地下室に行くか?」と地下室でのおばさんの場面)されるが、拷問されても自白しないとは受け取りにくい=なぜなら自白しないと自分だけでなく家族まで殺すとドイツ軍は言っているのだから。なので後半プラハ市民が協力してドイツのスパイを暗殺者にでっち上げるのに無理がある。また数100人の人質が殺されるという厳しい事実をうまく処理できていると思えない、厳しい事実に泣き戦争はともかく嫌だと内面で感じる観客も多いのではないか?。映画全体がプロパガンダを目的とした創作物語であり人質の処理は失敗していると感じる。

 結局この映画が事実をどう扱ったは以下ではないか
1暗殺犯は捕まり多くの関係者が殺された、市民の抵抗は力が及ばなかった→市民の抵抗で暗殺犯はつかまらず、関係者も生き延びた、ドイツ軍が極秘文書で敗北を認めてる
2逮捕者は拷問され自白し殺された→逮捕者はけして自白しない
3多くの人質が殺された→多くの人質が殺されたが、彼らは抵抗を呼びかけた
4ドイツ軍は無慈悲に機械的に殺し、町を破壊した、抵抗すれば更にチェコ人が殺された→ドイツ軍は人間的でユーモラス、滑稽でさえある、殺す事もできる
5暗殺の目的は抵抗ではなくチェコ英米の同盟国として承認させる政治的目的のため→目的はふれず
6市民は沈黙し消極的協力になった→多くの市民が団結し抵抗した
7結末(多くの無関係の市民が殺された)の意味:残酷な事件→多くの死者は抵抗の証しである

戦争で死んだ者の意味が、戦争に協力する(戦争の肯定)か否かで変わる点で実はこの映画は他の映画となんら差はない。この映画がプロパガンダ映画だから特別なのではなく第二次大戦後作られた多くの映画で今もおきている事だ。それは誰もが賞賛する有名な映画でも同じ事だ。「プライベートライアン」の冒頭やラストで描かれる多くの死者はけして戦争反対を意味しないしむしろ逆だ、「プライベートライアン」の結末シーンは広い墓地であり、この1943年のプロパガンダ映画と同じである。そしてアメリカは今も戦争をし続けている、あの映画はそれについて何を言っていると人々は感じるだろうか?