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慰安婦の絵画での表象(浜田知明)

浜田知明作「初年兵哀歌 (風景)」/ エッチング/ 15.3×20.9cm / 1952年/熊本県立美術館

【参考評論】描かれた戦場の性暴力−いま、敗戦後の「戦争画」をどのように見るのか / 池田忍著(所収:「視覚表象と音楽」明石書店ジェンダー史叢書第4巻, 2010)

メモ感想

中国女を強姦した後、陰部に棒きれがつっこんであった、という証言は日本軍の戦場性暴力の証言の中でよく聞かれるものだが、こうして作品化されていたのは全く知らず驚きだった。1952年という早い時期に製作された為、画家の勝手な想像の産物として社会的に排除されてきたのだろう。確かに衝撃的な図像だ、しかし後述するように残念ながら今も大きな社会的影響力はないように思われる。

作者の浜田知明は中国戦線に従軍しこうした風景をスケッチした上でこれを製作している。しかしこの絵が鑑賞者に訴えるものは、加害者としての日本兵や悲惨な被害者の存在では「ない」と感じる。女は荒野にただ一人ねそべり、片足はがっちり大地を踏みしめ、他の片足は鑑賞者を押しのけるように突き出されている。完全に裸でかつ真っ黒な体は衣服を無理に剥がされた人間というよりある種のオブジェ(例えば蛙)に見える。そして最も人間らしさを示すはずの頭部は隠されている。突っ込まれた棒はあくまでシャープで非現実的なそれ以外のもの(例えば抽象的な矢印)に見える。池田忍の評には浜田が戦場で作ったスケッチが示されておりこれらの改変が確認できる。その結果鑑賞者が感じるものは、「ある異常なもの」の存在感=そこに存在する強さであり、慰安婦や性暴力という実在の被害者や事件ではない。

簡単に言って浜田はこの目を背けたくなる対象を絵にする際に抽象化しすぎたのではないか?戦場の性暴力の証拠から一つの抽象物になってしまった。たしかに日本軍「慰安婦」問題や戦場性暴力が社会的に広く認知されている状態なら、それらの記憶を刺激するこうした抽象画は強いメッセージを発揮すると思われる、抽象化が人々の想像力をかきたて実際の事件や事物以上にその意味合い(悲惨さ、被害者への共感と加害者への嫌悪)を強めると想像されるからだ。しかし未だ日本社会では日本軍「慰安婦」も戦場性暴力も一般には知られておらず、そうした可能性は限られているように思われる。この絵の主題の齟齬について私たちが画家に問うべき責任はない、浜田は自発的に題材を選んでいる。むしろ実際にそれを目撃しあるいは犯す側にいたかもしれない浜田の方法は正しかったのかもしれない、彼には背景となるその記憶があったからだ。問われるべきは鑑賞者である日本社会の側が1952年の浜田の記憶に追いついていない事のように思われる。