zames_makiのブログ

はてなダイアリーより移行

島薗進「国家神道と日本人」は革新的な本だ

以下は島薗進国家神道と日本人」(岩波新書、2010年)を理解できていない人へのコメント。
 この本は多面的な多くの議論を呼ぶ非常に革新的な本であるが、その内容の革新さ故に、実は理解されえず誤解されている読者も多いように感じる。従来の国家神道の説明は村上重良氏の「国家神道」(岩波新書、1970年)で示されたもので、天皇を神とし崇拝し他の宗教を排除した信心の体系であり、それは主に全国の神社を介して国民に浸透した・作用したというものだ。
 一方左翼的志向性(保守や右翼はそれを偏向とかイデオロギーと呼ぶ)から今の象徴天皇制自体を広い意味の国家神道であるとし批判する論者がある。それらは宗教の内実としてどういうものなのかという議論というより、戦前体制の頂点である天皇を日本の政治から排除したいがための意見表明にみえる。新聞などのひねたメディアはそれを「広義の国家神道」などと呼んで意味なくカテゴライズしてしまう。それは内容の吟味を素通りする事であり別の意味で言えば「左翼のこじつけ」として葬りさる行為だ。
 今回の島薗氏の本は一見広義の国家神道論に見える。しかしそうではない、島薗氏は、病や死など実存的悩みに答えてくれる神として天皇をあがめる行為ではなく、単に天皇を崇敬するだけでそれが国家神道だと定義している。それは1930年代国家神道が最も盛んだった時期でもそうなのであり、その内実としては1930年代も今も国家神道はほとんど変わっていないとしているのだ。これは広義や狭義というようなものではなく、国家神道とはそういうものだ、ということだ。
 ここから導きだされる結論は天皇制の全面的な否定だろう。あるいは国家行事からの天皇の排除(戦没者式典で挨拶などをさせない等)、国民休日の戦前体制からの脱皮(今の国民休日の多くは戦前の国家神道からきている)、メディアでの天皇への敬語の停止、特別扱いの停止(テレビアナウンサーが天皇に敬語を使う事は国家神道の啓蒙・宣伝活動にあたるから)かもしれない。国家神道とは何か、それを踏まえ2010年の今天皇をどう扱うべきか、全ては日本国民が判断し決める事だ。島薗氏の「国家神道と日本人」はこの日本人の認識と議論と意思決定の上で根本的な議論を変えうる非常に重要な本である、しかし世間はそれを理解できず通りすぎようとしているようだ。

ブログ記事「島薗進氏の怒りの不在」へのコメント

場所=http://d.hatena.ne.jp/noharra/20101019、一部直しあり
(1)

残念ながら貴殿は非常に革新的なこの本「国家神道と日本人」の内容がつかめておらず、ある種誤解の典型例だと思いますよ。子安氏も同様で島薗氏の国家神道に関する論考の従来との差をつかめず、定義や主張が従来のまま(=自分と同じ)なはずなのに自分の本を参照しないのはけしからん!と怒っている訳です。

しかし島薗氏の本の内容は「国家神道とは何か」「宗教とは何か」であり、それは従来の村上氏の考え方を大きく変える内容になっています。実は私はこの岩波新書の本は読んでいないのですが、島薗氏が2008年?に朝日新聞に「今も生きている国家神道」の記事*1を書いてからそれまでに島薗氏が宗教学専門雑誌に書いた論文を読んでいますし、子安氏の「国家と祭祀」も読みました。その感想として子安氏の本は島薗氏と重なる部分はほとんどないと思います。

 ですので島薗氏が子安氏の反論をまったく相手にしていないのはまったく正しいと感じます。おそらく貴殿は子安氏の「怒りを忘れている」の表現から、島薗氏は国家神道を肯定している(賞賛している)と受け取ったのだと思いますが、まったく逆でしょう。島薗氏のこの本での主張ほど根底から国家神道を批判し、本当の意味で根絶やしにする主張はないと思います。ですので島薗氏は子安氏を相手にしないのだと思いますよ。


私の印象では残念ながら世間はこの島薗氏の重要な本を通り過ぎたように感じています。日本の国全体を変えるような重要な専門的な指摘が見過ごされているという事です。ですのでよい機会なのでもしよければ島薗氏の指摘を軸に国家神道について感想を交換したいと思います。疑問や意見があればコメントください。手始めに私の指摘は「天皇が神である事は否定するが天皇を尊敬し敬う事は国家神道なのか?」「現在テレビがしている天皇の扱いはそれに当たるのか?」です。私はYESだと思います。


なお島薗氏の論考の抜粋と言えるものは以下があります
国家神道とは何か」http://d.hatena.ne.jp/abesinzou/20080930#p1

(2)

まず島薗氏の本を真面目に読んでください。あの本はあまりに革新的なのであなたは理解できていないのです。島薗氏は国家神道とは「天皇と国家を尊び国民として結束する事と、日本の神々の崇敬がむすびついて信仰生活の主軸となった神道の形態」(”はじめに”の最初のページ)と定義しています。島薗氏は「天皇を尊ぶ事は国家神道だ」と書いているのですよ。あなたはそれを読み取れていないのではありませんか?

 あなたは宗教とは病や死など人間の実存的悩みに答える思想体系であり、「誰かを敬う事」は宗教ではない、だから今は国家神道など存在しないと思っているのではありませんか?しかし島薗氏は宗教学者として宗教とはそういう狭い範囲のものではなく、実存的悩みに答えず儀式体系やある種の「信の体系」だけでも宗教であると言っている。即ち誰かを崇敬する事も宗教だと言っているのです。そして1930年代に主に学校で日本人に教え込まれた国家神道とはまさにそういう崇敬の体系、言い換えれば命令の体系であった、とこの本で説明しているのです。

 2010年現在、日本人の多くがあなたと同じように思い違い(あえて書けば)をしていますね。しかしもし島薗氏の研究結果を広く日本人が理解すれば、それが民主主義と相容れないものだと気づくでしょう。なぜなら崇敬=命令の体系とは、ほとんど天皇主権主義だからです。もし日本人が本当にそう理解すれば天皇に敬語を使ったり式典で特別な役割をさせる事に危機感を抱くでしょう。だから私はこの本は国家神道および天皇制にとって壊滅的な意味を持つもので革新的だと言っているのです。

私は天皇制に反対です。2008年私は天皇制廃止論者の集会に行きました、しかし彼らも島薗氏の指摘をまったく理解していないように感じました。あなたも彼ら天皇制廃止論者も天皇制を廃止すべき重要な理由になるせっかくの島薗氏の指摘を理解できないまま放置しているのではありませんか?

島薗氏は非常に謙虚で自分の研究が今の日本社会でまったく理解されない事をよく承知している、だから手始めにほとんど仲間と言うべき子安氏への反論から始めたのでしょう。しかし私は逆にアグレッシブに最初から結論「現在テレビがしている天皇の扱いは国家神道なのか?」を問題提起として問うたのです。なぜあれは国家神道ではないと言えるのですか?

(3)

>(NHKの扱いは)広い意味の国家神道
違います、広いも狭いもなく、あれは国家神道だと島薗氏は述べているのです。議論を曖昧にすべきではありません、島薗氏の本ではまさに国家神道とは何かが議論されているのです。

*1:国家神道無宗教の国に多くの支持者」朝日新聞、2008年2月11日朝刊、『日本人の多くは無宗教だと言われる(略)では戦前はどうか?問題を解く鍵の一つは「国家神道とは何か」を明らかにすることだ。(略)「解体」されたのは国家と神社神道の結合であり皇室神道の中核は維持された。その後皇室神道神社神道の関係を回復し、神社の国家行事的側面を強めようとする運動が活発に続けられてきた。(略)1945年以後も広い意味で国家神道は存続している。(略)無宗教と言われる日本人だが国民が否応なく国家神道への関与を強いられ、思想や信教の自由を失いかねないという不安には最もな理由がある。(略)』、後日幣ブログに全文アップします