zames_makiのブログ

はてなダイアリーより移行

長崎にはなぜ原爆ドームがないのか

ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』(高瀬毅 平凡社 2009)よりメモ+α

=長崎にも当初は徹底的に破壊された浦上天主堂という原爆ドームがあり、長崎市は1949年以降8年間は保存する意思があった。しかし1955年アメリカ政府のパブリック・ディプロマシーの部署USIAの斡旋・仲介・働きかけにより長崎市は日本最初の姉妹都市提携をアメリカのセントポール市と結んだ。この時に1ヶ月の長期に渡り渡米した田川長崎市長アメリカ訪問前後で心変わりがあった。又浦上天主堂責任者の山口司教も同時期、再建資金獲得のため長期渡米しており、両者の意志により1958年浦上天主堂廃墟は壊された。
 田川長崎市長は渡米前は天主堂廃墟を保存する意向だったが、帰国後は「天主堂は原爆の悲惨さを説明するのに適切でない」と市議会で語り、アメリカ新聞には「広島は原爆投下を政治利用しているが、長崎はしない」と語っている。又山口司教は「原爆は神の摂理だ=原爆が投下されたのは神の意志であり正しい行為だ、これには広島だけでは十分ではなく長崎も必要だった」「天主堂はともかく同じ場所に再建したい(従って廃墟は破棄すべき)」とアメリカ新聞に語っている。
 姉妹都市提携を仲介した人物はUSIA職員であり、田川市長渡米時の側近もフルブライト留学(USIAなどが行っているアメリカ宣伝活動の一つ)の経験者だった。これらの関係者の行動の詳細は不明だが、アメリカの公文書館には関係資料が多く発見されている。USIAなど当時の(そして今も)アメリカ政府は原爆への日本人の反感を慰撫・教化しようと、占領期にはそれを新聞、ラジオなどメディアへの露出を検閲で禁止し、その一方原爆投下は神の摂理であり、アメリカは正しいとした永井隆の本「長崎の鐘」を出版させ慰撫宣伝した。日本政府および天皇永井隆を表彰した。同様に映画「長崎の鐘」や映画「長崎の歌は忘れじ」も制作・上映を許可した。


 これらのアメリカ政府の対外宣伝活動はパブリック・ディプロマシー(訳語は未だない、対外宣伝および教育活動に相当)と呼ばれ、最近もクリントン国務長官によりスマートパワーの一部としてアメリカが積極的に行うべきものとして強調されている。日本では占領解除後も戦後一貫して行われ続けており、今も行われている。

(関連年表・記事)

  • 1865 最初の浦上天主堂建設
  • 1925 浦上天主堂完成(30年かかる)
  • 1945.8.9 長崎への原爆投下
  • 1949 永井隆長崎の鐘」出版、原爆の破壊を詳細に記述。永井が当初から「原爆は神の摂理、長崎は原爆をありがたく思え」と書いていた為GHQは「マニラの悲劇」と抱き合わせ本として認可。
  • (参考)永井隆への批判:①井上ひさしが「ベストセラーの戦後史」で批判「永井隆の説では原爆投下は正しい行為、広島やその他は犬死となる」、②山田かん(カトリック教徒・被爆者)「永井隆アメリカの占領政策に従って執筆活動をつづけ、その原爆投下へのカトリック的独善的エゴイズムが規制力となって民衆にふりかり続けた」(「偽善者・永井隆への告発」 / 雑誌「潮」1972年7月)
  • (参考)永井隆への批判:参考ネット=長崎ピースサイト:http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/2000/kikaku/index.htmlより「原爆は神の摂理か」(山田かん)「批判のタブー化進む」(高橋眞司)高橋眞司の永井隆批判=「永井隆の浦上燔祭論の果たした歴史的役割は、日本の戦争責任とアメリカの原爆投下責任の“二重の免責”にあった」当時は占領軍のプレスコード(四五年九月指令)によって厳しい言論統制が行われ、原爆に関する報道や調査研究は禁止されていた。にもかかわらず、永井の作品は次々と発表が許可された。「二重の免責の功績があったからこそ、そのような特典に預かったのだ」永井に対する昭和天皇の慰問(1949年)、内閣総理大臣表彰(1950年)などについても、高橋は「相次ぐ政治的引き立ては、そうした永井の役割への報奨だった」と言い、「永井が引き立てられるほどに一般の被爆者は沈黙を強いられ、怒りの広島とは対照的に、祈りの長崎の性格が形作られていった」
  • 1949 長崎市原爆資料保存委員会 発足、浦上天主堂保存を結論
  • 1949〜1950 昭和天皇永井隆を慰問、内閣総理大臣表彰、永井隆死去
  • 1951 田川勝 長崎市長に当選
  • 1953 USIA(United States Information Agency)発足
  • 1954 アメリカの水爆実験で第5福竜丸事件おこる、核兵器への反対運動高まる
  • 1955 セントポール市に姉妹都市提携が提案される、1955.5山口司教アメリカに天主堂再建のための資金集めのために渡米(10ヶ月間)
  • 1955.12.7(真珠湾攻撃の日)姉妹都市決定
  • 1956.8.22〜9.25 田川市長のアメリカ訪問、1956.2:山口司教帰国
  • (参考)アメリカ新聞での記事。1955.8.9:田川市長「長崎市長が広島のイメージ戦略を批判、広島は原爆を宣伝に使っているが長崎はしない、長崎はアメリカを恨んでいない」。1956.5.5:山口司教「長崎の原爆は神の摂理、原爆は戦争を終わらせる為のもの、天主堂は移転するので資金がほしい」。1962.5.18(TIME記事「Tales of Two Cities」)田川市長「長崎市民はアメリカを恨んでいない、日本もあれば使っただろう」
  • (参考)田川市アメリカ訪問の随行員:篠原盛蔵氏=長崎市職員ではなく詳細不明。フルブライト留学(1946年より開始)経験者
  • 1958.2.17 長崎市議会で天主堂撤去の市長方針について討論、市長撤去を固持。田川「天主堂は平和のためにならぬ」「天主堂は原爆の悲惨さを物語る資料として適切でない」「あれを取り払った方が平和のためになる」「アメリカは原爆があるから平和が守れると言っている」+山口司教「天主堂廃墟は移転されよ」
  • 1958.3.14 天主堂取り壊し始まる、
  • 2000 NBC長崎放送「神と原爆〜浦上カトリック被爆者の55年」放送。浦上天主堂が市の原爆資料保存委員会で保存が8年連続決議されていたのに1958年取り壊された経緯が報道される

(関連既存記事)