zames_makiのブログ

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映画「嗚呼満蒙開拓団」への日本社会の反応・映画評

NHKニュース(2009年6月13日)3:48

アナ:映画は何を伝えたのでしょうか。
満蒙開拓団は国策で送りこまれた農業移民団。30万人が入植、8万人が犠牲になり多くの残留孤児が生まれた。
羽田澄子談:83歳記録映画の第1人者。大連生まれで終戦時には日本人の世話をした。「非難してきた人が大勢いる中で歴史の転換する雰囲気というのをその時非常に体験した。縁のできた人をインタビューしてく内に映画になった」「その人が体験として知っている人はどんどん少なくなっている、最後のチャンスだ、知らない若い世代に見てもらい正確に知ってもらいたい」
石原政子談(映画出演者):政府の犠牲になった、危ないと知れば誰も行かなかった。
観客談:戦争の悲惨さを知った(戦争体験者)。命からがらなのがわかった(若者)。これは本当の歴史、事実だ(残留孤児)。

毎日新聞 2009年6月12日 東京夕刊

(シネマの週末)嗚呼 満蒙開拓団 日本人の「その後」たどる
 羽田澄子監督のドキュメンタリーは、観客の世界を変える。世に知られない事実を掘り出し、あるいは社会的事象に新たな視点を提供することによって。この新作では、第二次世界大戦中に中国大陸に送り込まれた日本人開拓団のその後をたどる。歴史を振り返るだけでなく、彼らの悲劇は今に通じると訴える。
 羽田監督は1926年に旧満州(現中国東北部)で生まれ、48年に日本へ引き揚げた。そんな経歴を持つ監督は、旧満州で命を落とした日本人開拓民のために中国人が建てた「方正地区日本人公墓」の存在を知る。引き揚げの際に抱いた「全員が日本に帰れるのか」という疑問を思い起こし、取材を始める。
 綿密な取材と的確な編集で、過不足なく要点を押さえ、当事者の感情を焼き付けていく。元開拓民の「逃避行の途中、子供を置き去りにした」「避難所で死んだ日本人の遺体が凍土に放置された」といった証言からうかがえるのは、“生き地獄”だ。
 羽田作品の根底を貫くのは、弱者の側に立った視点と、権力の横暴への憤りだ。今回はそれに加えて、「自分もこの人たちのうちの一人だったかもしれない」という強い思いもある。元開拓民の心の傷を明らかにする一方で、国民を切り捨てる国家の非情さは今も変わらないと示す。といって、大上段に振りかぶることなく、語り口はあくまでも落ち着いていて温かい。だからこそ、強い説得力がある。

 ここ数年、ドキュメンタリー映画は機材の普及などで製作しやすくなり、公開本数も飛躍的に増えた。しかし、“私”を素材にして個人的なものにとどまったり、目の前の事実を丸投げしたような作品が多い。問題の背後を見通す洞察に欠け、社会的な問題を提起する心意気が薄いのではないか。
 本作も出発点は“私”だが、その視点は普遍にいたる。羽田監督は80歳を超えて、なお探究心と情熱を失わないのだ。若々しくて強靱(きょうじん)な精神には脱帽するほかない。2時間。岩波ホール。(勝=勝田友巳)
 (もう一言):開拓団のその後や、方正地区日本人公墓を淡々と映し出す。自分の知らなかった事実に見入った。冷静でありながらも対象に突進する羽田監督の執念が実を結んだ逸品。(鈴=鈴木隆

朝日新聞 2009年6月2日

引き揚げ体験の監督、満蒙開拓団の悲劇を記録映画
 1931年の満州事変以降、国策で中国・東北地方(旧満州)に送り込まれた開拓団の悲劇を真正面からとらえた記録映画「嗚呼(ああ) 満蒙開拓団」が完成した。約27万人が送り込まれた開拓団は、ソ連軍の侵攻と敗戦の混乱で、約8万人が死亡、多くの中国残留日本人孤児らも生み出した。戦後60年余。ていねいに取材して歩いた映像だ。
 監督は、旧満州・大連生まれの羽田澄子さん(83)。自ら敗戦を大連で迎え、引き揚げ体験がある。
 きっかけは、600人を超える中国残留日本人孤児たちが02年に国に賠償を求める集団訴訟を起こしたことだ。同じ旧満州にいたのに開拓団の実情を知らなかった。「撮っておかなくては」と裁判のたびにカメラを回し始めた
 07年、黒竜江省方正県に中国政府が日本人犠牲者のために建立した「日本人公墓」があることを知り、一気に映画制作へと進む。墓参ツアーに同行、参加した元開拓団員らの話を順番に聞いた。日本に戻っても彼らを訪ねては、取材を続け、二十数人にインタビューした。
 役場で勧誘されて敗戦の年の5月末に家族で旧満州に入植したこと、「乗せて」と頼む開拓団の人たちを振り払って行ってしまった軍のトラックのこと、逃避行の途中で足手まといになるという理由で5歳の妹が手にかけられたこと――。歴史の生き証人たちのインタビューの様子を映像に収め、自身の思いをナレーションで重ねた。
 約100本の映画を撮ってきたベテラン監督。だが、「今回は非常に大きな問題で、最初はどう作っていいかわからなかった」と明かす。聞くのは重い話ばかり。「映画作りよりも、それを受け止めるほうがしんどかった」
 羽田さんは2時間の映画の最後にこう語りかける。「どうしてこのようなことが起こったのか、その責任はどこにあるのか」(編集委員・大久保真紀)

木下昌明映画評(「サンデー毎日」09年5月31日号)

なぜ農民は侵略の手先となり また見捨てられていったのか
満州移民”の映画といえば日中戦争のさなかに作られた豊田四郎監督の「大日向村」が有名だ。長野県の大日向村を舞台に、山間の狭い土地から広大な満州(現・中国東北部)に分村するために大勢の村人を送り出す内容で、彼らは希望に燃えていた。それが戦後の映画では一転し、敗戦によって逃避行を続ける移民の悲惨な姿ばかりを描くようになった。この大きな落差はどうしたことか。移民27万人のうち4万7000人が現地で兵隊に取られ、死者・行方不明者8万数千人とされる。

 この歴史の矛盾を羽田澄子が「嗚呼 満蒙開拓団」のドキュメンタリーで掘り下げている。今年83歳の羽田も満州生まれで、戦後の引き揚げ者の一人。ハルビン近くの方正県に中国人が建立した日本人移民の公墓があると知って、なぜ、日本人に痛めつけられた中国人が日本人の墓を造ったのかと疑問に思った。

 そこで羽田は、日本人の参拝ツアーに2度加わり、かつての残留孤児たちから当時の話を聞き、孤児を拾って育てた養父の話を聞いて、移民の逃避行の実態を浮かび上がらせていく。同時に、時の政府が「王道楽土」をうたい文句に開拓団を募り、関東軍(日本軍)が領土拡張のためにこれを利用し、敗戦になると軍人が真っ先に逃げ、戦後の政府も「何もしない」と追及する。放棄された大量の遺骨は「開拓民も日本軍国主義の犠牲者」とする周恩来首相の許可で、中国人の手によって葬られた。羽田は一人一人を訪ね歩き、そのいきさつを明らかにしていく。これがいい

 引き揚げ者の一人が、長野の山奥にある生家を訪れるシーンも印象深い。広大な大地の光景を見てきた観客は、くねくねした細い山道をたどっていく先の一軒家のありさまにあぜんとしよう。「だまされた」とはいえ、農民が満州にあこがれたことも、よしとはしないがわかる気がしてくる。

映画ジャッジ(服部引一郎)

中国残留孤児・中国残留婦人の悲劇はなぜ生まれたのか
 中国残留孤児の肉親捜しが始まり、NHKの朝のテレビ番組でまだ再会できぬ肉親に涙声で呼びかける孤児たちの様子が放送されたのは1981年3月のことだった。この時点で既に、戦争が終わってから35年以上がたっている。1972年の日中国交正常化からも9年だ。「孤児」と呼ばれる人たちも既に 30代半ば以上の中年男女だったが、この時来日した47人のうち30人の身元が確認できたという。来日した残留孤児の肉親捜しはその後も続けられ、戦後の混乱の中で中国大陸に置き去りにされた日本人の悲劇は多くの人の知るところとなった。本作は自らも満州からの引揚者だった羽田澄子監督が、残留孤児・残留婦人らを多く生み出した満蒙開拓団の悲劇に迫るドキュメンタリー映画だ。

 映画の中心になるのは、ハルピン郊外にある方正(ほうまさ)地区日本人公墓。1945年8月9日にソ連が参戦すると、国境近くにあった開拓村からは一斉に避難民が脱出した。彼らは日本に帰国する手だてを求めて満州内陸部の中心都市ハルピンを目指したが、途中の方正で足止めされて難民村を作ったのだ。その冬、寒さと饑餓と蔓延する発疹チフスのために数千人が犠牲になった。方正の日本人公墓は、その遺骨を拾い集めて作ったものだという。この墓地が作られたのは1963年。この後起きた文化大革命では紅衛兵に破壊されそうになったが、方正の人たちはこの墓を守り抜いたという。

 映画はこの公墓を軸足として、満蒙開拓団が生まれたいきさつや、ソ連参戦直後に起きた悲惨な逃避行の様子、残留孤児と養親との関係などを、生存者がちの証言を中心に描写していく。戦争なんて遠い昔のことだと思いがちだが、映画に登場する方々がまだお元気な様子を見ると、戦争は遠い過去の歴史ではなく、今もなお人々の中で生々しい記憶として生き続けていることがわかる。

 しかしこの映画が問いかけているのは、そうした「過去の悲劇」ではないような気がする。映画の中で方正の難民村から生存して帰国した女性が、「今でも薬害や沖縄の問題があるでしょう。同じです。他人事とは思えない」と言う場面がある。国は国民を守らない。国策遂行のためには平気で国民を切り捨てる。役人は自分たちの安全や利益を最優先し、一般市民を犠牲にしても何の痛みも感じない。そして困ったことに、こうした仕組みに日本人は慣れっこになってしまっているのだ。そして何度も何度も国や役人に騙され裏切られる。そして何度ひどい目にあっても、なおかつ「国が騙すはずがない」「国が裏切るはずがない」「役人がそう言うなら大丈夫だ」とすぐに信じ込んでしまう。

 満蒙開拓団が国に騙されたのなら、今この時に我々が国に騙されていないという保障はあるのだろうか? 満州に渡った日本人は終戦によって、自分たちの置かれている本当にありのままの現実を思い知らされた。我々が今後、同じようなありのままの現実を思い知らされないという保障はどこにもないのだ。

Yahoo<レコチャ広場><映画評>2009年6月26日

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090626-00000008-rcdc-ent
日本の国家が策略した壮大な悪行!「嗚呼 満蒙開拓団」は星3つ
09年6月、個人ブログ「渓流斎日乗」は、08年キネマ旬報ベスト・テン文化映画第1位「嗚呼 満蒙開拓団」を取り上げた。同ブログにとって「今年のナンバーワン映画」と評価している。「渓流斎日乗」は、「東京生まれの一介の市民。非凡なる凡人。通訳案内士。日本アカデミー賞協会員」である「徘徊遊民」高田朋之介氏の公式ブログ。日々の話題を縦横無尽に逍遥しているという。以下は同ブログから。


羽田澄子演出作品「嗚呼 満蒙開拓団」(08年キネマ旬報ベスト・テン文化映画第1位)を神保町の岩波ホールにまで見に行きました。 深い、深い感動の渦に引き込まれ、涙が止まらず、首筋まで伝わってきました。 恐らく私がみた今年のナンバーワン映画になると思います。もちろん、星3つです。

娯楽映画ではないので、決して楽しめる映画ではありません。テーマも内容も重過ぎます。歴史的事実であり、これが現実であるので、悔しいやら、悲しいやら、憤りを感じるやら、無力感を感じるやら、やるせなさばかりが募ります。

これは、日本の国家が策略した壮大な悪行の一つでしょう。何しろ、もう敗戦濃厚で先が見えていながら、終戦間際の昭和20年5月になっても日本政府の手先になった全国の市町村役場は、庶民たちを冬場は零下40度にもなる満蒙の凍土に開拓団として送り込むんですからね。それも「王道楽土」とか、「広い土地持ちになれる」とか、「いざという時は世界一強い関東軍が守ってくれる」とか甘言を使って…。

結局、昭和20年8月9日にソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して満州に侵攻してきます。 真っ先に逃げるのが関東軍の連中なんですよね。映画に出演している多くの人が証言しています。続いて、満州政府関係の家族。開拓団の働き手の男はほとんどすべて終戦間際に徴兵され、多くがシベリアに抑留されたり、死亡したりします。

開拓団の女性や子供たちは、帰還列車にも乗せてもらえず、取り残されます。 まさに、「棄民」です。 誰かが、関東軍兵站があった方正(ほうまさ)に行けば、彼らが守ってくれる。食料もあるはずだ、という噂が広がります。途中で、行き倒れたり、殺されたりしながらも、何千人かの棄民が方正にたどり着きます。中には、1か月以上も歩いてきた人たちもいました。しかし、方正には、既に関東軍の食料庫はもぬけの殻で食べる物もありません。零下30度の寒さで凍死する者、発疹チフスで亡くなるものが続出します。

死体は、烏が最初に眼球を抉り出してを食べ、狼や野犬が食い荒らします。 戦後になって、日本人の犠牲者のお骨を葬ってお墓を建てることを、現地で中国人と再婚した松田ちゑさんという人の働きかけで、実現します。

甚大な被害に遭った中国なのに、「加害者」の日本人の墓を建てることを許可したのが、周恩来首相でした。周恩来は「侵略戦争を起こした日本の軍国主義者と、日本人民とは厳格に区別するべきだ」という思想の持ち主だったからです。

日本人はもっともっと、周恩来に感謝しなければなりませんね。いや、周恩来のような偉い偉い人だけでなく、この映画に出てきた魯万富さんのような普通の庶民も立派な人です。魯さんは、逃げ惑う親が泣く泣く捨ててきた子供を「このまま放っておいたら、凍死してしまう。かわいそうだから」ということで、憎い敵の日本人の子供を拾ってきて育ててくれた人です。中には、拾った日本人を奴隷のように扱った人もいたようですが、魯さんのように心底から恩讐を越えて人道的に振舞った人も多かったんですね。 私自身も、方正にある日本人公墓のことはこの映画で初めて知りました。

日本政府は「いざ行け!満州へ」というプロパガンダ映画を作って盛んに満蒙に送り込みます。昭和初期の世界恐慌の影響で、生糸の卸値が暴落し、土地を持たない生糸業で生計を立てていた多くの貧農の人たち(長野県が一番多かったようです)が已むにやまれず満蒙に行かざるを得なかったことをこの映画で知りました。

関東軍は、これら貧農たちをソ連国境の危険地域の土地をあてがいます。これではまるで人柱じゃありませんか。そして、貧農を棄民にして、真っ先に逃げたのは関東軍の連中だったとは…。 日本から満州に渡った開拓団は27万人。このうち、8万数千人が亡くなったか、行方不明になったという統計があります。(筆者:渓流斎日乗)

戸塚章介(元東京都労働委員会労働者委員)「嗚呼満蒙開拓団」を観て09/06/30

http://blogs.yahoo.co.jp/shosuke765/archive/2009/06/28(「マスコミ9条の会」のサイトに転載)
岩波ホール羽田澄子演出の映画「嗚呼満蒙開拓団」を観てきた。戦争と旱魃で疲弊した農村から、27万人もの農民が満州に移住した。日本軍国主義にとっては北のソ連に対する人の盾に過ぎなかった。敗戦とともにソ連軍に蹂躙され、かつて土地を奪われた中国の人びとからの報復にも晒された。8万数千人が命を落とし、たくさんの残留日本人の悲劇を生んだ。
 私の手元に「葫蘆島大遣返」というビデオテープがある。こちらは、敗戦後満州から引き揚げてきた人たちの記録だ。もう10何年前、飯田橋日中友好会館で行われた映画会で購入したもの。敗戦時、満州には180万人の日本人が置き去りにされていた。その中には父母姉私妹3人の一家7人も含まれる。
 父は北区王子の火薬工廠に勤めていた。1940年、中国での戦火が拡大し、火薬をはじめ武器生産を現地で行う必要に迫られ国は満州に巨大工場を建設した。それが遼寧省遼陽の関東軍火工廠である。父は配転命令に従い、軍属の身分で家族を連れ渡満した。工場従業員と家族のために国は日本人町をつくった。人口は1万人。中国東北地区の貧しい村に現れた一大都市であった。
 やがて敗戦。私たち家族は、敗戦直後に疫痢で妹1人を失っただけで一家6人は無事帰国できた。
 満蒙開拓団も私たち軍事工場関係者も、日本では零細農民や下積み労働者だった。開拓団の人たちが広大な農地に憧れたように、私の父も労働者としての待遇改善に希望を持ったのだろうか。引き揚げのときに没収された有価証券の中に何百枚の戦時国債があって、20数年前に返還された。もう父は亡くなったが、この国債の1枚1枚に国の将来に賭けた一労働者の気持ちが込められているかと思うとなにか切ない。
 戦前の農民も労働者も団結して組織的に発言する機会を奪われていた。今は違う。労働組合が本来の役割を発揮して二度と戦争を起こさせないよう運動を強めるべきだろう。今発言しないと手遅れになるような気がしてならない。

統一日報 映画評 2009年04月22日

昭和のはじめの満州でおきた日本人の悲劇〜国策によって移住した人々の叫び

 本作の題材になった満蒙開拓団とは、満州事変以降に中国東北部に移住した日本人開拓団のことだ。昭和恐慌にともなう農村の荒廃と、急激な人口増による食料不足のため、いわば「口減らし」の形で国策によって移住した人々である。
 監督の羽田澄子は、旧満州生まれ。1957年に製作した「村の婦人学級」以降、90本を超すドキュメンタリーを撮り続けてきた。本作は羽田の一貫したテーマである、女性・老い・福祉・文化とは趣を異にするが、満州で起きた凄惨な歴史をたどる目は、戦争犠牲者という弱者へのシンパシーに満ちている。
 約2時間におよぶ本作の大半は、満州からの引揚者や残留孤児らへのインタビューで占められている。終戦間際の混乱期、女性と子供が中心となった集団引き揚げで、多くの犠牲があったことはよく知られた事実だ。羽田は証言者に対するインタビューで、彼らの体験談をより一層鮮明かつ詳細に引き出している。
 満蒙開拓団の悲劇とともに作品中で語られるのが、「方正地区日本人公墓」だ。公墓は、亡くなった開拓団員を供養するため、中国人と再婚した日本人女性、松田ちゑさんが建てたものである。本作では惨劇の名残であるとともに、日中友好の象徴のように描かれている。
 松田さんは、文革期に公墓を建てたことをとがめられ、死刑される寸前までいった。松田さんを救ったのは周恩来の鶴の一声だったという。羽田は言う。
 「周恩来は日本人民と日本軍国主義を区別していた」
 公墓に対する中国人の考えについて、ほかに語っているのは方正県の役人だけだ。元開拓団員の証言が豊富であるだけに、片手落ちになった感は否めない。(秋一紅)

備忘録

こんにちわ、映画の感想はいかがですか?この映画は日本では大好評なようですね。しかし実は、おそらく日本で最も信頼に足る映画研究者四方田犬彦氏はこの映画を厳しく批判しています(2009年6月28日の映画シンポジウムでの発言、同席したキネマ旬報の審査員をつとめた中国のアンニ氏も同意見の様子だった)。「日本人は被害者だった」それだけでいいのでしょうか?満蒙開拓団は日本の侵略の手段であり、当時開拓団員が「匪賊」と呼んだ人々は、実は日本政府により不当に土地を奪われた中国の農民だった。彼らは実際入植者に対し組織的な反乱さえおこしています。更に開拓団員の一部はそうした中国人を入植地で小作として雇用し(!)それを知っていた。そうした事実を知ればこの映画は「歴史修正主義」の観点から正しいのでしょうか?
 また映画は周恩来の「日本人の大部分は被害者であり悪いのは一部の軍人だ」を強調していると聞きますが、それは高度に政治的な発言であり歴史的にも間違いでしょう。そうした事を観客はどう受け取ったと思われますか?
 「歴史修正主義に反対する」みなさんはこの映画をどう見るのですか?実は私は未見です、見た後にまたご意見を聞かせてください。