zames_makiのブログ

はてなダイアリーより移行

映画評「ハート・ロッカー」

黒沢清(2010年3月6日 シンポジウムでの発言)「最低悪質のプロパガンダ映画」

「ハートロッカー」これは本当に最低の悪質の映画です。これは実写だ、(アニメのように虚構として)作りこんでいないという建前で(実はそうではない)、戦意高揚映画です、プロパガンダです。私にはそう見えました。2010年3月6日(土)14時00分〜17時00分 国際シンポジウム「クール・ジャパノロジーの可能性」
登壇者:黒沢清(映画監督)東浩紀(批評家)宮台真司社会学者)村上隆現代美術家)キース・ヴィンセント(比較文学者)
USTREAMで放映→http://www.ustream.tv/recorded/5225458(17分ころ)

NHK7時のニュース渡辺祥子「アクションで覆い隠した」

渡辺祥子 2010年3月8日)
アカデミー受賞の理由は今の問題をリアルに描いていて、なおかつ戦場でおきている事=恐怖だったりスリル、そういう怖いものをうまく見せている、その腕の確かさが買われたのでしょう。(一方アバターはストーリーの出来よくないでしたね。)

土井敏邦(「西部劇」だ、『キネマ旬報』掲載記事)

http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20100309.html
『ハートロッカー』は「西部劇」(2010年2月16日記/『キネマ旬報』2010年3月上旬号掲載記事)

(前略)この映画は、この現実や背景を一切消去し、「反乱軍」は「悪魔」、それと対峙する主人公の米兵たちは「ヒューマンで、テロと身を挺して闘う英雄」として描きだす。
 アメリカ国民に受け入れやすいこの単純化された構造の描写は、「西部劇」以来の伝統なのかもしれない。困難を乗り越え「西部を開拓する白人」と、それを阻もうとする「悪魔のインディアン」。最後にはその敵を悪戦苦闘の末に淘汰し「開拓」を成就する「英雄」……。アメリカ人の観客は窮地に追い込まれる白人の姿に手に汗を握り、最後には溜飲を下げ拍手喝采する。しかし、そこには、白人が原住民にとって、「開拓」の名の下で自分たちの土地と生活基盤を奪い取る“侵略者”である現実は見事に消去されるのだ。

 この映画でもイラク戦争の経緯も、住民にとっての米軍占領の意味あいもまったく描かれず、「『爆弾テロ』と闘う勇敢な米兵」だけに光が当てられる

 (中略)映画の冒頭の言葉「戦争は麻薬である」は、このように心身共に深い傷を負い“壊れていく”兵士たちからは絶対に出てこない言葉だ。彼らにとって戦争は「麻薬」ではなく「悪夢」なのだ。この冒頭の言葉そのものが、『ハート・ロッカー』がイラクの兵士たちの現実から遠い架空の映画であることを象徴している。


 映画が「イメージ作り」に果たす役割は軽視できない。イラク戦争に対する国際世論の激しい非難で自信喪失した米国民にとって『ハート・ロッカー』は、「米兵はイラクで、自らが犠牲になることもいとわず、『テロとの闘い』という崇高な任務を果たしイラク国民を救っている。やはりイラク戦争と占領は正しかった」と安堵させ、国民に自己イメージと自信を回復させることに貢献するかもしれない。しかしそれは逆に、イラク戦争の実態や本質からまたアメリカ国民の目を背けさせることになりかねない。
 たとえ映画として「緊迫、恐怖、勇気を描いた傑作」「本能を揺さぶるアクション映画の第一級作品」であっても、それが問題の本質を見誤らせかねない映画なら、無邪気に称賛ばかりはしてはいられないはずだ。ましてや、戦争と占領で何万というイラク人住民が犠牲になり、今なお傷痕が疼き血を流し続ける“イラク”を描く映画ならなおさらである。それが度外視され、「映画の面白さ」「出来栄え」だけで映画が評価され由緒ある賞などで絶賛されるならアメリカ映画界の体質と見識そのものが問われかねない。

「戦争背景欠落。スリルのみ」(Newsweek誌 2010年2月10日号)

All Pain, No Gain:戦争映画『ハート・ロッカー』の幻想・この作品が描くイラク戦争には葛藤も罪悪感もない(セス・コルター・ウォルズ(ジャーナリスト))(Newsweek誌 2010年2月10日号掲載)
http://newsweekjapan.jp/stories/movie/2010/03/post-1075.php?page=1

(前略)今年の賞レースにはイラク戦争の描き方という、単なる好みの違いを超えた問題が浮上した。これには声を大にして文句を言っていい。問題の元凶はキャスリン・ビグロー監督の『ハート・ロッカー』(日本公開は3月6日)。04年のイラクが舞台の戦場ドラマで、作品賞にノミネートされるのは確実とみられている。(中略)
 息をのむ爆弾処理シーンの連続はスリル満点。『ハート・ロッカー』は万人が共感できる傑作と絶賛された。この作品は、ストイックな西部劇を今どきの編集手法で脚色したハイブリッド映画だ。

 作品に政治的なメッセージを込めたつもりはないと、ビグローは語っている。だが観客はどうしてもイラク戦争について考え、そこにあるはずのないメッセージを深読みしようとする。戦争支持派は、何度も危機を乗り越える主人公の頼もしい姿に感動するだろう。反戦派は、ジェームズが軽率に基地を離れる場面にアメリカの帝国主義的傲慢と混乱を感じ取るだろう。その気になって見れば、どちらの解釈も可能だ。そもそも『ハート・ロッカー』には、複合的で重層的な戦いに引き裂かれたイラクという国を具体的な形で理解しようとした痕跡がまったくない。爆弾の種類と標識の言語を変え、砂漠をジャングルに置き換えればベトナム戦争の映画と言っても通用しそうだ。

 この作品を最もストレートに評価したニューヨーカー誌の映画評は、「イラク戦争を最も巧みに、かつ感動的に描いた作品」「イラク戦争がもたらすいら立ちと嫌悪感にうんざりしたアメリカ人が、葛藤や罪悪感抜きに手放しで楽しめる映画」と位置付けた。


<描くのは米兵の苦痛のみ>
 評論家のデービッド・エデルスタインも『ハート・ロッカー』の長所を指摘する際に、この矛盾をはらんだ二重性を取り上げた。「おそらく最も重要なのはその政治的メッセージ──あるいは政治的メッセージの不在だ」確かに今は誰もが政治や政治的駆け引きにうんざりしている。だが政治を嫌うのと、政治性の欠如を歓迎することとは別物だ。葛藤を伴わない、あるいは政治性を隠したイラク戦争の映画を作ることは本当に素晴らしい快挙なのか。

 かつてはこんな映画ばかりではなかった。例えば99年の『スリー・キングス』。ジョージ・クルーニーらが演じる米兵4人組は湾岸戦争直後、イラクサダム・フセイン大統領が隠した金塊探しで一獲千金をもくろむが、その過程でシーア派の苦境にいや応なく気付かされる。アメリカにたき付けられてフセインに反旗を翻した彼らには、米軍撤退後に厳しい迫害が待ち受けていた。この作品は手に汗握る娯楽アクションでありながら、同時に湾岸戦争終結後のイラクという舞台設定の持つ特異性にこだわろうとする努力の跡も見受けられた。

 だが、昨年全米公開された「ポスト対テロ世界戦争」時代の3作品『ハート・ロッカー』『ザ・メッセンジャー』『マイ・ブラザー』は、徹頭徹尾アメリカ人兵士の傷しか描かない。ますます複雑化する世界で自分たちの苦しみしか感じられないとしたら、何とも情けない話だ。戦時という名の心の殻に閉じ籠もったアメリカだけが世界のすべてではないことをほのめかした一握りの作品は、手に余る難問に挑んだ無謀な試みとして酷評された。例えば星条旗が逆さに掲揚される『告発のとき』のラストシーンは、刺激が強過ぎると批判された。当局によるテロ容疑者の拉致・拷問を描いた『レンディション』は、想像力不足を指摘された。米ケーブルテレビ局HBOが08年に制作したドラマ『ジェネレーション・キル』は、真っ向から対テロ戦争を取り上げた唯一の例外。だが、これも最後はバグダッドに侵攻する海兵隊を描いて終わる。

 映画が伝えるべき物語は、ほかにいくらでもあるはずだ。だがそれ伝えるためには、この戦争をリアルにありのままに描くという発想を取り戻さなくてはならない(注記1:ここでいうリアルとは残酷シーンを挿入するという意味ではなく戦争の起こった経緯、その意味、正しい戦争か否か?を映画内で記述するという意味であろう)

 具体性から逃避する傾向は映画に限った話ではない。ドン・デリーロの新作小説『ポイント・オメガ』では、イラク戦争を語るときは可能な限り曖昧な手法を使いたいと考えるアメリカ人の集団心理が物語の原動力になっている。


<崩れた右派対左派の構図>
 『墜ちてゆく男』(邦訳・新潮社)で同時多発テロを、『リブラ 時の秤』(邦訳・文芸春秋)でジョン・F・ケネディの暗殺犯リー・ハーベイ・オズワルドを取り上げたデリーロは、現代の合理的世界観に収まり切らない人間の不合理性を追究してきた。『ポイント・オメガ』もその延長線上にある。主人公の若い映像作家ジム・フィンリーは、かつて国防総省の顧問を務めた老学者に影のごとく付きまとう。この学者がイラク開戦に果たした役割をドキュメンタリー映画にまとめたいからだ。だが引退した学者が暮らすモハベ砂漠に舞台が移ると、物語の流れが変わる。学者の家に転がり込んだジムはほかのこと(学者の娘など)に気を取られるようになる。そしてある日、ジムは「レンディション」という単語を取り上げた随筆について学者に問いただそうとして行き詰まる(レンディションはブッシュ政権時代にテロ容疑者の「特例拘置引き渡し」の意味で使われた言葉。容疑者への拷問を黙認する脱法的措置だとして人権団体から非難を浴びた)。結局、ジムは質問を思いとどまり映画製作も諦める。「真の問題はイラクでもワシントンでもなく、ここにある」と、物語の終盤でジムはつぶやく。「私たちはこの問題を置き去りにすると同時に、手に携えていく」

 デリーロはいいところに目を付けた。イラク戦争に対するアメリカ人の曖昧な姿勢をはっきりと示したのは、喜ばしい変化だ。イラク関連の政治問題にあえて背を向ける『ポイント・オメガ』の登場人物を観察することで、私たちもそれが健全なことなのかどうかを自分なりに判断できるからだ。ただし、この徹底した自己中心主義の根底にある問題をデリーロは深く掘り下げていない。代わりに文学研究者のマイケル・ベルベが、近著『レフト・アット・ウォー』で1つの答えを提示している。ベルベはこの本で、コソボ紛争を契機に始まった「人道的軍事介入」をめぐる議論はまだ決着がついていないと説き、「伝統的な左派対右派の構図はバルカン半島では役に立たなかった」と述べる。

 それ以降、外国への軍事介入をめぐる政治的立場に「ねじれ」が生まれ、この状態が現在まで続いているとベルベは指摘する。具体的には新保守主義ネオコン)と新自由主義ネオリベ)が手を組み、チョムスキー派(反戦主義)とブキャナン派(孤立主義)の奇妙な同盟に対抗するという構図だ。武力行使をめぐる議論はもはや単純な左派と右派の対立ではないというベルベの説*1が正しければ、近年の映画や文学作品が「対テロ戦争」の政治的側面を積極的に取り上げようとしないのも無理はない。実際、リベラルなメッセージ性の強さに定評があるハリウッドも、このテーマについては挑発的な主張を一切していない。

 現時点で声高な主張を展開しているのは、デリーロの小説に登場する老学者のような政治思想家だけだ。一方、ジムのような芸術家はイラクを斬新な視点から論じるという野心を捨ててしまった。


<戦争映画が受けない理由>
 だが芸術家の存在意義は、まさにそこにある。大衆の意識を支配する漠然とした緊張感を安易になぞるのではなく、鋭い洞察とカタルシスにあふれた作品を作り出してこそ芸術家だ。イラク戦争の映画がヒットしないのは観客の食指が動かないからというのが、世間では定説となっている。だが食指が動かないのは、今の戦争映画が「栄養」に乏しいせいかもしれない。大半の作品は「戦争は地獄」という手あかの付いたお題目を唱えているだけだ。

 厄介なイデオロギーの問題には踏み込まず、戦闘をスリリングに描くことに徹した『ハート・ロッカー』は物語の背景を観客に示さないだけでなく、背景の欠落を示唆するヒントも与えてくれない。戦争サスペンスとしては見事だが、ただそれだけの映画だ。『ハート・ロッカー』がアカデミー賞を取るかどうかはともかく、重要なテーマに取り組んだ野心的な芸術作品としてもてはやされることは間違いないだろう。観客に幻想を売り付けるのは、今も昔もハリウッドの得意技だ。   

馬鹿な映画評論家(佐藤友紀キネマ旬報2010年3月下旬

佐藤友紀キネマ旬報2010年3月下旬掲載のハート・ロッカー特集記事の中で、上記のニューズウィークの映画批評を指して「納得どころか理解もできなかった」とし、「強い政治メッセージよりもイラクの地で何がおきているか正確に描くだけでも意味がある」とし、この映画が正確に現実を表していると錯覚している。更に、冒頭の「戦争は麻薬に似ている」を奥深い言葉と評し、「どんなに文明が進んでも戦争がなくならない理由の一端」と戦争の原因を完全に誤認している。更にこの映画を「リダクテッド」と同様によいものとし、それがアメリカで公開されたのは「人間の良心」だと評している、馬鹿丸出しもよいところだ。

読売新聞(2010年3月5日)過酷な任務 生々しく

 「戦争は麻薬である」。映画の冒頭、ニューヨーク・タイムズの戦争特派員も務めたアメリカのジャーナリスト、クリス・ヘッジズの言葉が映し出される。が、その引用の意味を考える暇はない。すぐに戦争の現場、2004年夏のイラクバグダッドへと放り込まれるからだ。描かれるのは、米軍爆発物処理班の兵士たち。思わぬ場所に仕掛けられた凶暴な爆弾を無力化するのが彼らの仕事だ。わずかな失敗が爆発、そして自らの死に直結する。成功か死か、紙一重の危険な作業に臨む彼らの緊迫した空気は、たちまち客席をも覆い尽くす。そのチームの新たなリーダーとしてやってきたジェームズ(ジェレミー・レナー=写真)は、恐怖や重圧などをまるで感じていないかのようにふるまい、決められた手順を無視してみずから危険の中に飛び込んでいく。不安を感じた仲間たちと衝突を起こすがお構いなし。任務が明けるまでの38日間、一体何が起こるのか。

 キャスリン・ビグロー監督は、兵士たちに、その心情をくどくどと語らせたりはしない。苦悩する姿や、衝突を重ねて互いを認め合っていく過程こそ描写されるが、ビグローのまなざしが向かう先は常に、そこで起きていることだ。これまでの作品に必ずアクションの要素を盛り込んできた監督だけあって、爆発や戦闘場面を見せる映像の複眼的な構成は圧巻。ただ、この映画における監督の最大の武器は、客観的に対象をとらえる目というべきだろう。過酷な任務を共に遂行する者たちの姿を精巧に活写。観客に、生々しい映像を通じて、主人公たちの緊張と興奮を共有させる。こんな状況の中にずっと置かれていたら、人は一体どうなるのか。その疑問に対する一つの答えがジェームズという存在。最後に彼がとった行動を目の当たりにした時、冒頭の引用がずしりと心に響いてくる。

 2002年の「K―19」の興行的失敗後、新作発表まで時間を要したビグローだが、この作品で見事に返り咲いた。ロサンゼルスで7日(現地時間)に発表の米アカデミー賞でも9部門にノミネートされ、かつての夫ジェームズ・キャメロン監督による「アバター」と共に、作品賞、監督賞の有力候補と目されている。(恩田泰子)

おおさか報知新聞()人間の心まで侵す戦争の怖さ…ハート・ロッカー

 7日(日本時間8日)に行われる第82回アカデミー賞の前哨戦をほぼ制し、作品賞で本命視される「ハート・ロッカー」が6日に公開される。(中略)
 2004年夏、イラクバグダッド郊外で爆弾の処理作業を行う米陸軍のブラボー中隊。ある日、作業中のトラブルで爆発が起こり、至近距離にいた班長が即死。新たにジェームズ二等軍曹(ジェレミー・レナー)が赴任してくる。ジェームズの仕事ぶりは無謀だった。遠隔ロボットの使用を拒否して爆弾に突撃するなど、死の恐怖に動じない。同僚のサンボーン軍曹(アンソニー・マッキー)とエルドリッジ技術兵(ブライアン・ジェラティ)は、そんな彼に抵抗感を持つ。

 多くの人が期待する「動」のアクションではなく、「静」の人間ドラマ。それでも、いつ何が起こるか分からない緊迫感が画面から消えることはない。飛び回る航空機やヘリの音は不快だが、これがイラクの日常だ。爆弾処理をする部隊と、仕掛ける反乱軍の攻防はいたちごっこ。監督が「処理班はヒロイズム(英雄的行為)と戦争の無意味さを体現している」と言う意味がよくわかる。ドキュメンタリーと間違えそうなリアリティー。撮影はヨルダンで行われ、役者陣は気温60度近い砂漠で、時に重さ40キロの防護服を着て臨んだ。メーンを張るのはほぼ無名の俳優。誰がいつ命を失うかが分からなく、見る側の緊張感を高めた。主演男優賞候補のレナーは「あの汗は本当の汗だ。あの涙は本当の痛みの涙だ」と強調している。

 なぜ、ジェームズは死を恐れないのか。冒頭で示される「戦争は麻薬である」というフレーズがヒントになる。毎日が死と隣り合わせ。爆弾を処理し、簡単に人が死ぬ場面に遭遇し、いつ命を失ってもおかしくない日常を送っているから、感覚がまひしてしまう。そんな人間の危うさまで鋭く描く、奥が深い作品だ。

JAPAN TIMES(2010年3月5日)過酷な任務をスリルで描くが戦争は示さない(80点4/5)

前線のストレス(Stress on the front line) By GIOVANNI FAZIO

There's a moment near the end of "The Hurt Locker," Kathryn Bigelow's masterful look at life and death on Baghdad's mean streets, where one American sergeant - a cool, tough professional on mission after mission - finally breaks down and loses it after yet another close brush with death. "Another two inches . . ." he sobs. "Shrapnel pierces my throat, I bleed out like a pig in the sand. And nobody gives a s--t!"



If there's a political statement contained in this film, that's it right there: Nobody gives a s--t. Part of "The Hurt Locker's" mission is to bring home the reality of Iraq deployments to a public that has been largely shielded from having to ponder the human cost of the war. But for the most part, Bigelow's film - unlike nearly every other Iraq war film, from "Lions for Lambs" to "Redacted" - manages to avoid polemics and remain tightly focused on the micro level, on the careful tracing of wires in the sand, or the wary scanning of rooftops with scopes.

This is a second generation Iraq war film: The whole question of "why we should/shouldn't be in Iraq" is practically a moot point. American soldiers walk down devastated streets, disarming an endless series of IEDs (improvised explosive devices), and car bombs, count the days until their tour is up, and view every Iraqi they see as a potential threat. Iraqis, glimpsed in windows and doorways, are just as wary of the Americans, viewing them with fear, curiosity or hostile intent. The gulf between them is immense. All that neocon talk about "flowers in the streets" and "an Iraqi Marshall Plan" now seems like so much la-la faerie-land head-tripping. The only goal left seems to be - survive.

That's the case for a small EOD (explosive ordinance disposal) team in Baghdad. Stunned by the death of a good officer, Sgt. Sanborn (Anthony Mackie) and Spc. Eldridge (Brian Geraghty) want to play it safe and by the book and get home alive. Too bad for them that the new guy in their unit, Sgt. James (Jeremy Renner), is a cowboy, a guy who's taken so many risks and survived them that he thinks he can keep on rolling the dice.

"The Hurt Locker" follows James' unit through a variety of everyday missions in Iraq; somebody calls in a suspected IED the EOD, the team rolls up to check it out, and then attempts to defuse or detonate it, with a robot if possible, hands-on if not. Of course this whole procedure happens with the assumption that the person who planted the bomb is most likely watching, and able to detonate it remotely at any time. The suspense becomes almost unbearable, and the viewer spends the entire film expecting some massive, horrific blast to come at any time.

The film's theme is clear enough, opening with a quote by author/war correspondent Chris Hedges, which describes "the rush of battle" as "an often lethal addiction, for war is a drug." Director Bigelow and screenwriter Mark Boal - who spent several weeks following EOD teams in Iraq - set up James as a case study, an adrenaline junkie who's too good at what he does; so he can't stop.

Renner's performance in the role is superb, mixing professional pride, bravado, denial, and a big dose of crazy. He's a war-movie kind of hero, a guy who sees doing the right thing as more important than doing the safe thing, which does not endear him to his team, who suspect James is going to get them all killed.

If there's one problem with the film, it's that it reaches for authenticity, but clearly departs from reality in a few scenes. Actual vets have mixed opinions about the film: Many praise it for giving people an idea of what it's like in the sandbox (Iraq), while also noting that parts of the film ring false, especially the risks that Renner takes. One vet in particular, writing for The Huffington Post, blew a gasket over this and has been quoted everywhere, but her protests seem a bit much. You'd be hard-pressed to find any retirees taking on street hoodlums with rifle in hand, but that departure from real-life didn't hurt "Gran Torino."

The same is true for "The Hurt Locker' "s concessions to movie-thrills.

This may not represent the absolute reality of conflict in Iraq, but Bigelow has fashioned a gut-wrenching, gripping piece of suspense cinema that seeks to grab you by the neck and drag you into the sweat-dripping, paranoid, one-wrong- move-and-you're-dead world of an EOD team. She does that exceedingly well, while also managing to make you reflect on what war does to a man.

A scene near the end of the film says it all; James is back States-side, in a supermarket aisle where his wife has asked him to get some cereal. He looks up and down the aisle, confronted with the decision of about 100 different brands to choose from, and the pointlessness of even thinking about something so trivial makes him almost implode with an emotion he can barely understand. For some vets, there's just no stepping back from that edge.

アバターは俳優いらずだから嫌われた(矢崎由紀子 東京新聞 2010年3月9日 朝刊)

アカデミー賞ハート・ロッカー』が作品賞『アバター』抑えた

(前略)アカデミー賞は映画関係者約六千人の投票で各賞が決まる。二〇〇六年の時点で、俳優は約千二百人、プロデューサーと映画会社役員は計約千百人。今回の実際の投票行動について映画評論家の矢崎由紀子さんは「俳優の多くの票が『ハート・ロッカー』に流れたのではないか」とみる。

 つまり、プロデューサーと映画会社役員は、興収実績や映像技術の進歩への貢献といった観点から「アバター」に投票したかもしれないが、俳優は、登場人物がCGで描かれる「アバター」に職業的見地から危機感を覚え、それが成否を分けた−との見方だ。(後略)

娯楽戦争映画・社会性は沈黙(村山匡一郎 東京新聞 2010年3月9日 朝刊)

(前略)映画評論家の村山匡一郎さんは「いつ爆発するか、見ていてハラハラする。その緊張感だけで二時間強の物語を持たせている。シナリオがうまい」と指摘する。
 イラク戦争を題材とする映画は、米兵がイラクの少女をレイプし、家族四人を惨殺する「リダクテッド 真実の価値」(ブライアン・デ・パルマ監督、07年)など、軍事行動の負の側面に光を当てた作品が多い。「だが『ハート・ロッカー』は、イラクの市民を守るなど処理班をヒーローとして描きながらも、人としての内面はやはり壊れている。そこが特徴的だ」と矢崎さんはみる。

 戦争を扱った米国映画の歩みを振り返ると、例えば「ランボー」(82年)などが挙げられる。エンターテインメント作品でありながらベトナム戦争に否定的なメッセージが読み取れたが、村山さんは「『ハート・ロッカー』に反戦的な強い主張は感じられない。その点は作品賞にノミネートされた作品も共通しているように思う」と言う。

 黒人の少年がアメフットのスター選手となる「しあわせの隠れ場所」、八〇年代のハーレムを舞台とした「プレシャス」といった作品も、背景に人種や貧困といった根深い問題が横たわりながら、それに対する考えを前面に押し出しているわけではない。

 「米国は八〇年代のように国際社会で胸を張れなくなっており、現在の米国映画はそれを反映しているのかもしれません」(村山さん)。その意味で「ハート・ロッカー」は米国の時流に合った抑制の効いた作品といえるのかもしれない。

米国民の“屈折”を写実した(産経新聞 2010年3月8日)

米国民の“屈折”を写実した「ハート・ロッカーアカデミー賞古森義久

【ワシントン=古森義久イラク戦争を主題とした映画「ハート・ロッカー」が7日、超大作の「アバター」を退けてアカデミー賞作品賞を受けたことは、写実に徹したこの映画の質とともに、米国民のイラク戦への屈折した思いをも反映したといえそうだ。

 ハート・ロッカーとは文字どおりには「傷ついたロッカー」という意味だが、俗語では「激しい痛みの場所とかその期間」あるいは「棺おけ」という意味だという。ビグロー監督によるこの映画は昨年7月に米国で封切られたが、限定された映画館だけでの上映で、当初は話題になることも少なかった。 

 それ以前に米軍のイラク戦争を描く映画が4本ほど製作され、上映されたが、いずれも無残な不人気だった。4本とも米国のイラクでの軍事活動を否定的に描き、反戦の政治スタンスを強く打ち出していた。 

 記者(古森)は「ハート・ロッカー」を昨夏、みて、同じイラク戦争を描写しても、政治メッセージがなく、米陸軍の爆弾処理班の活動を批判も称賛も表さず、最後まで冷徹なタッチで追う点に引き込まれた。その内容を本紙で昨年9月、いちはやく報じた。

 映画ではバグダッド市街などに仕掛けられた爆弾を探知し、不発とする作戦が迫真のサスペンスで描かれる。ときには爆弾は冷酷に炸裂(さくれつ)し、処理班の隊員を殺す。爆弾と人間の戦いの描写からこの対テロ戦争の過酷な異色性が浮きぼりにされる。

 しかし隊員の一部が復員後の米国社会で精神面の後遺症に苦しむ様子をちらりとみせる最後の部分は反戦とも取れる余韻を残していた。そして「ハート・ロッカー」は少しずつ話題の輪を広げていった。興行成績では全米で20位前後となり、他のイラク戦争映画には差をつけた。

 アカデミー賞の選考過程では「アバター」と好対照をみせた。制作費では2億3千万ドル対1100万ドル、興行成績では20億ドル対1600万ドルという差だった。だが「ハート・ロッカー」は「アバター」を破ったのだった。

 受賞の理由をあまり読みすぎるのも危険だが、米軍のイラクでの命をかけた戦いを過ちとして切り捨てることなく、綿密に追うというスタンスが米国民の多くには魅力だったのだろう。

 ビグロー監督は女性としての初の監督賞とともに最高作品賞を得て、壇上では黄金立像のオスカーを高く掲げ、「まずこの賞を米軍将兵の男女に捧げます」と叫んだのが印象的だった。

米国が自分の傷心と向き合う映画(東京新聞 社説 2010年3月9日)

(社説)アカデミー賞 米国の傷心を垣間見た 2010年3月9日

 映画界の“金メダル”、米アカデミー賞は、イラク戦争の狂気をリアルに描く「ハート・ロッカー」に輝いた。華やかなレッドカーペットのその先に、米国の「傷心」と「良心」を垣間見た。

 いつにも増して話題豊富な授賞式だった。が、オスカーは今の米国に深く鋭い疑問を呈した。

 作品賞の候補作が今年から十作品と昨年までの二倍に増えた。

 その中から、事実上の一騎打ちと評されたのが、イラク戦争の影の英雄とも目される爆発物処理班の日常と狂気を描いた「ハート・ロッカー」(キャスリン・ビグロー監督)と、興行収入記録を塗り替えたSF3D大作「アバター」(ジェームズ・キャメロン監督)だった。両監督がかつて夫婦だったのも話題を呼んだ。ともに九部門にノミネート。結果的には、「ハート・ロッカー」が作品賞、女性として史上初の監督賞など六部門に輝き、「アバター」は視覚効果賞など三部門にとどまった。

 「ハート」は「心」ではなく「傷ついた」という形容詞、「ハート・ロッカー」は「棺おけ」つまり「行きたくない場所」のこと。このタイトルがすべてを表しているような作品だ。爆弾が日常の一部になった砂漠の戦場。貧しさ故の志願兵、だが、本当はこの世で最も行きたくないところ−。傷だらけの米国による、そんな真情の吐露なのだろう。この作品に映画界最高の栄誉を与えるまでに、米国は覚醒(かくせい)したということか。

 一方の「アバター」も、画期的な映像技術だけにはとどまらない。膨大な価値を生む希少金属を手に入れるため、生物多様性豊かな異星の森を侵略する米国企業の物語。しかも、傷ついた元海兵隊員の傭兵(ようへい)の視点で語られる。こちらにも反戦と、環境破壊への警鐘が底流に強く脈打っている。

 米国内で保守層から「反米、反軍の映画だ」という批判も相次いだ。逆風をはねのけての三部門受賞である。

 CG偏重、リメークばやり、大作主義への批判。ここ数年、授賞式の季節が来るたびにハリウッド映画の凋落(ちょうらく)が話題になった。だがやはり、映画は今も変わらず米国の象徴の一つである。3Dという新しい表現方法を確立し、自らの過ちや傷心と向き合う姿勢を見せた米国映画は、名実ともに魅力的である。

 日本映画も、アニメ人気に安住している場合じゃない。映画の都に学ぶべき点はまだ多い。

渡まち子(映画ジャッジ)傑作(85点)

爆発物処理班の兵士を通して戦争の真実と虚無感を描く秀作。スクリーンから片時も目が離せない。

 爆発物処理班の兵士の死亡率は、一般兵の5倍にもなるという。爆弾を発見すれば、過酷な暑さの中、重装備の防護服を身に付け、慎重に配線を切り信管を取り除いて爆発を解除する。そのプロセスは、見ているこちらまで緊張で身体がこわばってしまうほどだ。極限状態の中で冷静な判断を下す彼らの仕事は、常にチームで動き、互いをサポートすることで成り立っている。脚本家のマーク・ボールは、イラクで従軍記者として爆発物処理班と行動を共にした体験を基に、細部までリアリティに満ちた物語を練り上げた。戦場には、派手な銃撃戦だけでなく、爆発物処理という、ほとんど報道されない、地味だが最も危険な任務があることを、改めて教えられた。この映画の優れた点のひとつは、爆弾処理の知られざる実態を詳細に描き、広く認知させたことだろう。

 ジェームズは、これまでに873個もの爆弾を処理したエキスパートだ。実績からの自信か、はたまた過剰な正義感か、無謀な行動でチームの和を乱す。それでも彼は、仲間のサンボーン軍曹や部下のエルドリッジ技術兵と対立しながらも冷静に任務をこなしていた。だがそんな彼も、身体に爆弾を埋め込まれた少年の死体には、我を忘れる。テロ組織への怒りと、いたいけな子供の遺体の中から爆発物を取り出して処理せねばならないおぞましさ。この少年は、もしやいつも基地のそばでサッカーをしていた顔馴染みの少年なのではないか。そんな思いからの憤りは、死と隣り合わせの任務を楽しんでいるかのようだったジェームズが、まだまっとうな人間である証拠で、安堵感を覚える。

 だが、安全な場所にいる私たち観客は、非日常が日常と化してしまった戦争の真の恐ろしさをまだ知らない。限界を超える緊張がもたらす恍惚と、どんな小さなミスも許されない究極のミッションへの気概。ジェームズにとっては、それらを併せ持つ戦場だけが生を実感できる場所だ。「どうせ死ぬのなら気持ちよく死にたい」と、防護服を脱ぎ捨てて大量の起爆装置を解除する彼の行為は、勇気に見えて実際は狂気なのだ。戦争は、ドラッグのように兵士を魅了し、精神を蝕んでいく。全編を通して甘さや情緒を廃し、女性監督らしからぬ骨太な描写を貫いたキャスリン・ビグローの演出が素晴らしい。

 過去の戦争映画の秀作は、戦争がもたらす悲劇をあらゆる視点から照射してきた。そのひとつ、ベトナム戦争を描いた怪作「地獄の黙示録」の中に「戦場では故郷を思い、故郷に戻ると戦場に恋焦がれる」というモノローグがある。本作の主人公ジェームズも、米国に戻っての平穏な日常の中では、表情はうつろだ。だがイラクに戻り再び1年間の任務についた彼の目は、獲物を追う野獣のように輝いている。ここにも戦争に魅入られ後戻りできなくなった人間がいる。自爆で死ぬ敵、姿が見えないテロリスト、誰からも歓迎されない土地で爆発物を処理する米兵。いったい何のための戦争なのかという疑問と虚無感が、爆風で舞い上がる砂塵のように広がっていく。“ハート・ロッカー”とはイラクの兵隊用語で、行きたくない場所、棺桶を意味するという。爆発の瞬間を恐れながらその重圧が快楽となった人間のヒロイズムとその代償を、ドライなタッチで描いた本作、紛れもない傑作だ。

岡本太陽(映画ジャッジ)英雄だ(85点)

これは本年度の『レスラー』か、米軍の隠れた英雄達の姿を描く。

 今日までに既にイラク戦争を扱った映画は多く作られている。そのジャンルの作品にもはや新鮮味を感じる事は出来ない人もいるはずだが、映画『ハート・ロッカー(原題:THE HURT LOCKER)』はそこに新風を吹き込む。イラク市内には駐屯するアメリカ兵を忌み嫌い、爆弾で兵士を誘き寄せ彼らを死に至らしめる事さえ厭わないという人々がいる。それに対しアメリカ軍は爆発物処理班を組織し、人々の安全を守る。本作では今までわたしたちが知り得なかった隠れた英雄であるアメリカ軍爆発物処理班の活動に注目し、戦地において最も危険な役割を担う男達の生き様を描く。

 『ハートブルー』『K-19』のハリウッド女性アクション映画監督キャスリン・ビグローが監督を手掛ける本作は混沌とした戦地の状況をリアルに描き、手に汗握る展開で贈る驚きに満ち溢れた映画だ。ポール・ハギスの『告発のとき』でも知られるジャーナリストのマーク・ボールが脚本を手掛けており、物語は彼が2004年にバグダッドで爆発物処理班の取材をした経験を踏まえ、単に戦争反対を掲げるものではなく、兵士達の行動や内面に焦点を当て、彼らが日々命の危険に晒されている事への敬意が払われている。

 イラク市内に駐屯しているアメリカ兵は、連日の様にそこに住む人々のゲームに巻き込まれている。中でも街の中に設置される爆弾が厄介で、市内の安全確保のためアメリカ陸軍は爆発物処理班を組織しているのだ。2004年夏のある日、二等軍曹ウィリアム・ジェームズが爆発物処理班のリーダーとして赴任して来る。その爆発物処理班にはJ.T.サンボーン(アンソニー・マッキー)やオーウェン・エルドリッジ(ブライアン・ジェラティ)もおり、彼らが帰国するまでに刻一刻と流れる時間がまるで、この男達の悲劇へのカウントダウンであるかの様だ。

 ウィリアム・ジェームズという男は爆弾を恐れておらず、処理に対する心の持ち様も軽い。ビデオカメラで処理風景を撮影されたりと、まるで観客か何かの様に人々が見守る中での処理は緊張しそうなものだが、彼はそんな事も気にする様子は見せない。なぜなら彼は既に800以上もの爆弾を処理しているという幸運で凄腕の持ち主だからだ。おそらく爆弾処理を始めた当初は他の爆弾処理班のメンバー同様緊張感もあったのだろうが、今やその感覚が麻痺し、サンボーンとエルドリッジは彼の構えない気楽な姿勢にショックを覚えており、ジェームズと仲間との精神面でのズレが目立つ。

 そのジェームズを演じるのはジェレミー・レンナーという俳優で、彼は時に冷淡でありながらも、米軍基地の前で海賊版DVDを売る少年に優しく接するという面もある男を正確に演じきっている。ジェームズに対し、サンボーンやエルドリッジは戦争映画によく出て来そうな人物だが、サンボーンは生真面目でノリの軽いジェームズをライバル視し、エルドリッジは自分のいる現状を受け入れる事が出来ず、ストレスを感じているというキャラクターで、彼らの心理描写もまた細かく描かれている。また、本作にレイフ・ファインズガイ・ピアースデヴィッド・モースエヴァンジェリン・リリーカメオ出演しているのも興味深い。

 本作の冒頭で、ニューヨーク・タイムズ紙の記者であるクリス・ヘッジズ氏が言った「戦争は麻薬である」という文章が現れる。それは一体どういう事だろうか。戦争に行くと常に生と死の狭間に立たされ、生きるという事を噛み締める事が出来るからだろうか。いやそうではない。中毒は、最も脅迫観念からくる事が多い。脅迫観念とは馬鹿馬鹿しい、嫌だ、と感じていながらもやらざるを得ない状況を作り出し、自分自身を追いつめる事を言い、この事を念頭に置いた場合、確かに爆弾処理を好んでやりたいと思う人は1人もいないはずで、この作業は麻薬を使用する感覚に近いのかもしれない。なぜなら、誰しもが麻薬をやることは悪いと分かっているだろう、それでもやった後には開放感そして安心感を得る事が出来る。よって、戦争中毒者にとっては生きているという実感を得る事よりも安心感を得る事に意義があり、その安心感が中毒をもたらす原因となっているのだ。そして一日の爆弾処理が終わっても、数日後にはまたあの安心感が必要になってくる。

 主人公ジェームズには幼い息子と別れた妻がいる。しかし、彼らがどうして別れてしまったのかは語られない。それでもその理由はジェームズの戦地での姿を観ていると自ずと分かるだろう。戦地では 800以上も爆弾処理した英雄の彼、しかしアメリカに戻ればただの人。それもまた彼を戦地へと向かわせる要因となっているのだ。この様に本作では彼を通してどうして戦争がドラッグであるか明確に描かれている。戦争は未だ止む事はない。戦争がある事によりわたしたちは更なる戦争中毒者を作りあげているのだろうか。

 ジェームズは爆弾処理に生きるしかなく、家庭を持つ事が出来ない孤独な男。テーマは違うがなんとなく彼は『レスラー』でミッキー・ローク演じたランディと似た雰囲気を漂わせている。だから彼はこの先社会に溶け込む事が出来ないのが明らかで、ずっと孤独な彼の姿を安易に想像する事が出来る。彼はもはや戦地でしか生きて行く事が出来ないのだ。物語の中で、ジェームズは爆発から体を守る40キロも重さのあるボディスーツを着用する。これは実際に軍でも使用されており、あまりの頑丈さに呼吸するのも困難だという。ジェームズは炎天下の中をスーツを着て爆弾に向かって歩いてゆく。その姿はまるで『アイアンマン』等のヒーローのそれと同じである。

福本次郎(映画ジャッジ)好評(70点)

息をのみ、瞬きを忘れ、背筋は固まり、拳を握りしめ座席から身を乗り出していた。ほんのわずかなミスや油断も許されない緊張感のもと、死と隣り合わせ、極限まで集中した命がけの作業は、見る者にも一瞬の気の緩みを許さない。

 息ができなかった。正確には息をのみ、瞬きを忘れ、背筋は固まり、拳を握りしめ座席から身を乗り出していた。ほんのわずかなミスや油断が即爆発につながり、莫大な被害をもたらす。道路や車、果ては人体に仕掛けられた爆弾を無力化しようとする兵士たちのテンションがスクリーンから漲る。死と隣り合わせ、極限まで集中した命がけの作業は、見る者にも一瞬の気の緩みを許さない。映画は、イラクに派兵された米軍治安維持部隊の爆発物処理班兵たちの日常を通じ、 21世紀の戦争の現実を描く。圧倒的武力を持つ米軍に対し通常の戦術では勝ち目がなく、抵抗勢力は爆弾テロと狙撃でしか対抗できないのだ。

 イラク駐留のブラボー中隊に爆弾処理のスペシャリスト・ジェームズ軍曹が赴任してくる。早速爆弾を無力化するが、彼のチームプレーを無視したやり方に同僚のサンボーンやエルドリッチは怒りを覚える。

 ジェームズはもはや恐怖というものに不感症になっている。いつ爆発するかわからない爆弾のコードを切り信管を抜く手順をむしろ楽しんでいるようにも見える。祖国では妻子が待っていて、任務終了後の家庭での暮らしは腑抜けそのもので、彼は再度前線に戻っていく。兵士の義務、祖国への忠誠といったお題目より、ただ爆弾を目の前にしたときにしか生きている実感がわかないスリルジャンキーとなったジェームズもまた、戦争の犠牲者なのだ。

 平原で孤立した味方の車を修理しているときに、突然狙撃兵に狙われるシーンも緊迫感にあふれる。身を隠す岩場も少なく、敵がどこにいるのか、銃弾がどこから飛んでくるのかわからず、味方が次々と標的にされていく。小さな建物に隠れる敵やヤギの群れの向こうに見える敵をなんとか見つけて撃退するが、銃弾を無駄打ちするのは敵に自分の居場所を教えることになるシビアな教訓だった。イラクでの任務の恐ろしいところは、敵が身を潜めている場所分からず、街では市民にまぎれて砂漠では風景に同化しているところだ。そんな環境で、普通の人間は神経を病み、タフな者でも正気を保つのがやっと、ぶっ飛んだ者だけが順応できる。戦争の異常な状況をリアルに伝える見事な演出だった。

*1:注:旧ユーゴに発する人道支援による戦争は正しいのかの議論は日本にはない、又アメリカ人が旧ユーゴ問題を今も考えているとは思えない。従ってベルベ氏の説は誤っていると思われる。