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平和のための戦争展の歴史

「戦争展」の全国的動向――現状と課題 二橋元長(日本機関紙協会埼玉県本部事務局長)http://blog.livedoor.jp/saitamapeace/archives/50276273.html
以下の文章は『季刊 戦争責任研究 第48号』に掲載されたものを加筆、修正したもの

 戦争の悲惨さを知り、平和の尊さを学ぶ「平和のための戦争展」運動(以後、戦争展と記載)は、一九八〇年代に全国各地に広がった。二〇〇一年以降、全国レベルでの交流会を四回開催。現時点でコンタクトが取れているのは三五都道府県・一二六地域だが、「原爆写真展」「空襲展」「平和展」をはじめ、各種イベントにおけるコーナー展示などをも加えると、おそらくすべての都道府県で何らかの形の平和のための展示会が開かれていると思う。
 この稿では、筆者がかかわっている埼玉の経験を中心に、各地の戦争展の現状と課題を見ることにする。


(1)戦争展運動のあゆみ
 平和のための戦争展のルーツは、一九七六年に和歌山で開催された「平和のための戦争資料展」だといわれている。
 八〇年代に入り、東京、大阪、京都で本格的な平和のための戦争展が始まった。「本格的な」と書いたのは、それらがかつての平和展示会のように、戦争の一事象、一テーマを取り扱ったものではなく、戦争の被害、加害、抵抗などの実相を全面的に取り扱うトータルなものであったことに加え、「平和のための」というネーミングも含め、今日の戦争展運動の事実上の原型となっていることからだ。
 東京の戦争展は、渋谷・山手教会での開催というロケーションが話題をよんだ。京都は岡崎公園の勧業館、大阪は通天閣という話題豊富な場所を会場とし、一時は一〇万人を超える参観者を集め、全国の注目をあつめた。
 これらの教訓に学びながら先行する三者を追うようにして、八四年に埼玉の戦争展がスタートする。埼玉は、当初から地域性より、国際的な視野から戦争を見つめる、過去の戦争と同時に現在の戦争準備の実相に目を向ける、二度と戦争をさせない知恵を育む、などに展示の柱がシフトしていた。
 こうしたなかで、大阪が中心となって戦争展の交流会を開催し、八五年には各地の戦争展によびかけて『戦争を発掘する』(日本機関紙出版センター)を刊行する。これがきっかけとなって、その後各地で戦争展がはじまり、都道府県レベルから市町村レベルへと発展していった。大阪はその後、二〇年余にわたって全国の戦争展をリードしてきたが、いまは残念ながらその規模での戦争展は開催されていない。
 九〇年代に入ると長野や愛知、和歌山などで県レベルの戦争展が始まる。同時に、七三一部隊展や教科書展、毒ガス展、アウシュビッツ展など全国を巡回するテーマ展が始まった。
 こうした経過をたどって発展してきた戦争展は、当然ながら実行母体の形態やそこに参加する個人・団体の顔ぶれもさまざまで、そのことがまたさまざまな形態の戦争展を生みだしている。「こうでなければ…」というモデルはなく、地域ごとに工夫を凝らし、ユニークでバラエティに富んでいる。


(2)戦争展の現状

(A)地域の実相発掘と結んで
 戦争展は、戦時中の生活用品や軍隊用品、写真や図説資料などを展示して、多くの人々に見せる展示会として始まった。同時にそれは、実物資料だけでなく、理解を促すために写真、図表、イラスト、絵などを配した展示パネルや模型、さらに映像や音楽、歌、体験者の語りも加わった。目で見て、耳で聞いて、肌で空気を感じとって、頭で考えて、語りあって、と五感に訴える。いわば特殊な空間を創り出すことによって戦争を追体験してもらうことを重視したとりくみだった。
 それだけに戦争展の醍醐味は、「実物をして語らしめる」ところにあり、いかに説得力のある実物資料を展示できるかが、カギを握っていた。その点で、京都や長野が果たした役割は大きなものがある。
 とくに、空襲に見舞われなかった京都では、京都出身の兵士たちの南京大虐殺を伝える日記の発掘や山本宣治の反戦運動、京都空襲、学徒勤労動員、学童疎開などの調査を行い、成果を展示発表した。いまではこれら資料の多くが立命館大学国際平和ミュージアムに寄託されている。「強い(説得力の高い)資料」を発掘すると、資料が資料を呼んでくると、教訓を語っている。
 松代大本営など戦争遺跡を保存する運動をベースに始まった長野は、満蒙開拓団、満蒙開拓青少年義勇軍の問題や松本五〇連隊と南京攻略戦のかかわりなど、長野の近現代史のなかでも未解明だった部分を明らかにする役割を担ってきた。
 二千点を超える資料を収集した兵庫では、生活、教育、軍隊、抵抗などに分類し、テーマにあわせて展示しているという。
 地域でこまめに戦争展をひらくことのメリットは、地域の戦争の実相や体験の掘り起こし・継承ができることにある。
 東京・杉並区では、区内の軍事施設、軍事工場、戦争に反対した人々が住んでいたところなどを印した「杉並戦争マップ」をつくり、静岡の焼津では戦争末期に徴用された漁船の顛末を調査・展示。紙の町・富士では、製紙原料としてあつめられたもののなかから工場に勤めていた方が発見して保存していた旧軍部の伝単(宣伝ビラ)を大量に展示して話題をよんだ。
 東京の小平では毎年、一地域ずつ「出征・戦没兵士」の実態を調査。ほぼ全域にわたる調査がすみ、その結果を展示したという。軍関係施設の調査もすすんでいる。
 かつて軍都だった千葉の柏では地域の歴史を掘り起こし、北海道・室蘭では空襲の実相とともに強制連行の実相を発掘。東京・北区や横浜のように基地を抱える地域では基地の実相や返還闘争の歩みなど、地域の発掘を重視している。
 三重・津や愛知では、毎年欠かさず空襲の実相を展示することで、証言や資料が寄せられ、回を重ねるたびに、内容が充実してきたという。まさに継続は力だ。
 

(B)加害体験の継承運動を重視して
 加害の実相を発掘して伝えるという点で積極的な役割を果たしてきたのは東京の戦争展。ここは日中友好協会などが実行委員会の中心だったこともあり、当初から、日中不再戦をかかげ、侵略戦争の実相を告発することに力を注ぎ、かつての戦争で、日本は中国やアジアで何をしたのかをテーマにすえ、南京大虐殺七三一部隊の問題などを展示してきた。いまでは南京大虐殺を告発するうえで貴重な資料となっている故・村瀬守保氏の写真を発掘し、最初に展示したのが東京だった。
 最近は、ア.加害の事実を伝えるとともに、イ.現在の問題を過去と結びつけること、ウ.体験者の話しを聞くことを重視し、毎年、中国帰還者連絡会の人たちの加害体験や被爆者の方の証言、従軍看護婦の体験などを話してもらうことで加害・被害の両面から戦争の実相に迫っている。
 愛知では、中国吉林省の偽満皇宮博物院から、満州国皇帝・溥儀の軍服をはじめ、七三一部隊関連資料や、昭和天皇の電報などを借用し、日本が中国で何をしてきたかを豊富な資料で示してきた。
 戦争展の歴史は浅いものの山梨では、「現物資料の持つ重みを大切に」と、戦争遺跡保存ネットワークの運動とむすびながらとりくむとともに、中国の東北烈士記念館から資料を借りて日本の中国侵略を告発した。
 埼玉では、シンガポールの晩晴園から、虐殺された華人被害者の遺品の数々を借用し、展示している。


(C)現代の戦争の問題と向きあって
 湾岸戦争を契機に現代の戦争を取り上げるようになった埼玉では「過去を踏まえたうえで、私たちは今後どうあるべきか」という点を重視。企画の柱を、ア.過去の戦争の実相に関する展示、イ.現在の平和の危機に関する展示、ウ.未来を展望する「平和の文化」に関する展示、の三点に整理。ODAやカンボジアPKO、ユーゴ空爆、を取り上げ、九・一一事件以降はアメリカによるアフガニスタンイラクへの侵略にも言及、「戦争は答えではない」とアピールしてきた。
 九・一一事件以降、現代の戦争を取り上げる戦争展が急増した。戦争は過去のものと思っていたのに、目の前で戦争が始まってしまった。この戦争とどう向きあうか、きちんとした回答を提示する必要に迫られたからだ。
 横浜では、アフガンやパレスチナなどの写真と横浜空襲の写真をオーバーラップさせて展示するとともに、希望を持って会場を出られるようにと、六ヵ国協議やピョンヤン宣言、平和都市宣言、平和を望んでいる人たちを紹介。鹿児島でも、イラク入りしたカメラマン、ジャーナリストから写真を借りて展示し、憲法展示や県内の非核自治体とその施策を紹介している。
 西東京では憲法と戦争や劣化ウランなどのコーナーを設置。平和のメッセージを刷り込んだしおりを配布し、共感をえている。
 


(3)いま問われていること

(A)戦争展の今日的意義は
 戦争展の目的は、二度と戦争を起こさせない、その世論を大きく広げるとともに、そのための行動者を育成する一助となる点にあると考える。
 そのためには現実の問題とどう向きあっていくのかが常に問われ、その問題解決のために過去を学び、二度とその轍を踏まないようにする。今日の問題をどう平和的に解決していくのか、そのことを示すことが求められている。
 もし過去の戦争を、過去の戦争として語るに止まっていたなら、現代の戦争の犯罪性を告発することはできにくいだろう。
 というのも、現代の戦争は、圧倒的強者が、反撃もできないような圧倒的弱者を一方的にたたきつぶす戦争(これを戦争とよんでいいのかどうか)だからだ。しかも、この戦争に日本が加担している。かつての戦争のように日本人が飢えに苦しんだり、空襲で逃げまどい、命を失ったりする状況は想定されない。必ず勝利する側、殴る側にいる。そうした戦争の性格・意味をしっかりとらえず、ただ戦争は悲惨だというにとどまっていたのでは、戦争に反対する行動を促すことにはなりきれない。大いに工夫したい点だ。
 同時に、それでもなお過去の戦争を語らなければならないのは、日本には、ぬぐいきれない前科があり、反省し、謝罪し、犠牲者につぐないをしなければ、アジアのなかで日本が生きていく未来がないからだ。中国、朝鮮、東南アジアの人々との友好・連帯、共存共栄をはかり、平和的な未来を思い描こうとしたら、過去の戦争を見つめることは避けては通れない課題だ。
 過去の戦争を語らなければならない第二点は、日本にしか語れない事実があるからだ。それは、原爆による被害だ。
 核実験などでいま世界には被爆(曝)者が広がっており、核兵器廃絶の課題は急務となっている。今年は戦後六〇年であると同時に被爆六〇年だ。被爆者が「ヒロシマナガサキを裁きたい」として運動を起こしている。強調したいのは被爆者たちが原爆を落としたアメリカに対して「リメンバー・ヒロシマナガサキ」ではなく、「ノーモア・ヒロシマナガサキ」という立場にたって運動をすすめてきたこと。人類史上最初の悲惨な被爆。こんな悲惨なことは二度と再び誰の身の上にも起きてほしくない。その思いが「ノーモア」となり、核兵器をなくせという声に収斂されていった。
 同じことはパレスチナ人のエドワード・サイード氏とユダヤ人のダニエル・バレンボイム氏の対話にも見られる。ユダヤ人の身の上に起きたナチスによるホロコーストは、他の誰にも起こってはならない。「ノーモア・ホロコースト」なのだと。しかし実際にはイスラエルパレスチナに対し、同様なことをしており、二人はこれを鋭く告発している。
 暴力に対して暴力を、原爆には原爆をではなく、暴力をなくす、原爆をなくす。そのことを「ノーモア」で主張した、この運動の人類史的な意義を伝え、広めることが大事になっている。

(B)戦争体験をどう受けつぐか、引きつぐか
 戦後六〇年を迎え、戦争体験者はますます少なくなり、戦争体験の風化が指摘される今日、ここ数年が「生の戦争体験」を聞くことができるラスト・チャンスとなりつつある。これら体験談の収集、記録化を急ぐ必要があろう。とくに加害体験の収集は急がれている。
 「生の戦争体験」を聞けるうちはいいが、時間の流れは非情だ。体験者の記憶を記録として残す作業や「語り部」から戦争体験をきちんと継承し、「語り継ぎ部」を育成して行くシステムづくりが急がれている。
 埼玉では、数年前から「語り部」から「語り継ぎ部」へ、と若手スタッフを中心に「戦争体験の継承」を心がけてきた。が、とうてい体験者のように話せないし、話せるはずもない。「生の戦争体験」は、体験したものでなければ伝えられない迫力・臨場感があり、戦争に対する憎しみが大きければ大きいほど、聞くものに「戦争はむごい」「いやだ」「二度とさせてはならない」という思いを抱かせるからだ。
 しかし、体験者でないからこそ戦争を語ることができるということも、この間の経験から明らかになった。それは、体験者に求めるのがしばしば難しいとされている「客観的視点」を持ち込みながら、戦争の総体、本質を描くという点で、体験者以上に「リアルに」戦争を語ることができるということだった。
 戦争体験を記録しつづけてきた東京では、単に記録するだけでなく、体験から学びとったものを自身の思想・考え方として語っていくことが大事だと、継承・「語り継ぎ部」の役割を整理している。
 証言者人が少なくなるなかで、戦争体験の継承と説得力のある戦争展づくりは、正念場を迎える。ここへきて、加害体験を語る体験者が、少なからず登場しているやに聞く。これは貴重なことである。

(C)戦争を防ぎ、平和をつくりあげる知恵・力をどうはぐくむか
 「二一世紀こそ平和の世紀に」の願いは、二〇〇一年九月一一日の事件によって、無残にもふみにじられてしまった。
 戦争展に結集する少なくない若者たちから、「私たちの訴えは無力なのか」「結局、戦争しか方法はないのか」という厳しくも、悲しい問いかけが突きつけられた。
 「確信を持て」と言うのは簡単だが、きちんと確信を持てるように、ふさわしい材料を提起することが求められた。「二度と戦争を起こさせない」「どうしたら平和を実現できるのか」「紛争を未然に防げるのか」などについて、具体的に見せていく工夫、出口のところで「希望」「展望」を与えることが強く求められたのだ。戦争の悲惨さを知るだけでは戦争は食い止められないし、平和の尊さを学ぶだけでは平和はつくれないことを思い知らされた瞬間だった。
 以降、埼玉では、平和の展望を力強く示し、平和の行動者を育てる力を持った戦争展へと企画の重点を大きくシフトした。
 具体的には、「武力では何も解決しない」「報復はさらなる報復を生む」ことを事実で示すとともに、百年前にオランダのハーグで万国平和会議が開かれて以降、国際社会が戦争を防ぐための法律や条約・仕組みなどを積み上げてきた努力の足跡を紹介。北朝鮮問題では、対立している過去だけではなく、朝鮮通信使など友好的・肯定的過去もあったという積極面を見せることにした。相手のことを知らないから憎しみが生まれる。だから相手のことをよく知る、その努力が求められている。中国やアジアの豊かな文化に触れること、知ることの大事さなどを訴えた。
 戦争の原因、カラクリ、仕組みという点では、経済的な背景にも言及することが求められた。が、経済問題をどうわかりやすく展示するか――ここ数年チャレンジしているが成功していない。大きな宿題である。

(D)暴力を否定する心、社会正義の感覚、協力・連帯の必要感をどうはぐくむか
 「戦争は悲惨」「だから戦争はいけない」とのメッセージを発するため、埼玉では当初、かなり残酷な写真を展示していた。が、それだけでは、戦争をくり返してきた人間への不信感や嫌悪感を募らせ、「人間に戦争はつきもの」「戦争はなくせない」とのあきらめ観を生み出すことさえある。
 そこで、「戦争に反対した人々」「平和のために生きた人々」の紹介を通じて、この声や運動が大きくなれば戦争を防ぐことができること、アジア諸国の歴史や文化を学びあうことで相互理解が深まれば平和的に共存していくことができるなどを、アピールしてきた。
 同時に、ここ数年は、「平和の文化」に関する展示を重視している。平和の考え方が、戦争の対語(対概念)にとどまらず、飢餓や貧困、差別や人権侵害など構造的暴力とよばれるものの対語(対概念)へと広げられ、深められてきたことをふまえてのことである。
 戦前、人間のいのちは鳥の羽のように軽く扱われてきた。そしていま、現れ方は違うが、暴力を礼賛する風潮が広がっており、人命尊重の思想が掘り崩されている。
 だからこそ、あらゆるところで、機会をとらえて平和のための心情を育む営みが必要になってきている。暴力を否定する心、社会正義の感覚、協力・連帯の必要感を育むうえで、多くの戦争展が「平和の文化」にアプローチされることを期待したい。

(E)国際的な視野を持ち、世界の変化をリアルに
 武力以外の方法で問題を解決する方向へ、実は世界は大きくうごいていることを示すことが、平和への確信を深めるうえで大きな力になる。
 このほど南米ブラジルのポルトアレグレ世界社会フォーラムが開かれたが、圧倒的な国々がアメリカによるイラクへの侵略を非難し、占領軍の撤退を求めていた。
 アメリカへの怒りは、単にアメリカの軍事行動だけではなく、もっと重層的だ。というのも、アメリカ主導の新自由主義的なグローバリゼーション、つまり弱肉強食の経済・社会の仕組みのもとで、空気や水が汚され、森や山が破壊され、自然や人権・いのちが脅かされる。アメリカの軍事力と、それを背景に繰り広げられる多国籍企業などの不公正や不正義への怒りとがむすびつき、重なりあい、まさに沸騰状態。それが世界の姿だった。
 そのアメリカに、あくまでも付き従っていこうとする日本は奇異にさえ見える。このことを事実で示すことができれば、平和への確信が大きく広がるだろう。国際的な広い視野をもって、大いにチャレンジしていきたいものだ。
 またブラジルでは、カストロはいうに及ばず、志なかばで倒れたチェ・ゲバラやシモン・ボリバールらが、まるで友人のように誇りを持って語られている。
 ひるがえって日本ではどうだろう。田中正造植木枝盛内村鑑三、山本宣治、石橋湛山らがどれだけ語られているか。戦後・沖縄の瀬長亀次郎や阿波根昌鴻らは…との指摘もある。戦争展は平和のために生きている人、生きた人たちにもっと光をあてていく必要があろう。

(F)憲法は最重点課題だ
 二〇〇七年を目標に、憲法を変えようとのうごきが強まっており、来年、再来年は憲法は大きな山場を迎える。戦争展にとっても正念場となる。
 憲法改正は最終的には国民一人ひとりの一票投票、国民投票で決められる。いくら国会で改憲派が多数を占めていても、決めるのは主権者である国民だ。ここに未来・展望があり、改憲派にとっては脅威となる。戦争展では、憲法をしっかり展示し、国民世論に訴えていくことが大事だ。
 ここで改憲派にノーを突き付けるならば、彼らは当分、改憲を口にすることはできなくなるだろう。その点では、大きなチャンスといえよう。


(4)戦争展運動の発展のために

(A)世代を超えたつながりを
 最近、各地の戦争展で若者たちがスタッフに加わったとのうれしい報告を聞く。が、まだ全国を見渡したとき、体験者中心の活動になっているところが多く、全国交流会では、担い手として若い人に参加してもらうための手だて、若い人に定着してもらうことの難しさなどが期せずして出された。
 埼玉で高校生・学生のボランティアスタッフを公募し始めたのは一〇年前からだ。湾岸戦争以降、若者たちのあいだに目の前の戦争と平和の問題を考えざるを得ないという切迫感が生まれたことと、高校の先生方の力添えもあってスタートした。いまでは高校生・学生をはじめ、二〇代〜三〇代の若者や団塊の世代、戦争体験者まで、なだらかな世代構成となっているが、これは世代を超えた人間関係・連帯感を生みだすうえで、大きな力となっている。
 というのも、戦争展の成功という共通の目標に向かって仕事をすることで、マスコミが報道するような若者像が崩れ、大人たちのあいだに若者たちを理解しようとする心情がはぐくまれる。一方、高校生・学生にとっては、平和のために行動する大人の姿を身近に見ることで、将来への希望を得、人生の手本を手に入れることができるという側面がある。未来への希望と仲間がいることの安心感。この二つが戦争展運動をすすめていくうえで重要な力になっている。
 

(B)妨害行為への対処
 看過できないのは、ここ数年、いくつかの戦争展が妨害にあっていることだ。
 岡山では、九八年から右翼の攻撃を受けるようになり、二〇〇〇年から会場使用が拒否された。練馬でも、「戦争展に会場を貸すな」と右翼が攻撃。四回目から区は後援していない。横浜では、右翼が連日のように街宣車で会場を取り囲み、後援している教育委員会にも押しかけてきた。埼玉では、九九年に周辺事態関連法案の展示をめぐって、自由主義史観派が県やNHKなどに圧力をかけた。県やNHKは翌年から後援を取り消し、今日に至っている。和歌山では憲法問題をとりあげたら県が後援を拒否。奈良では「侵略の実相、加害者をはっきりさせる」という文言があるとして読売新聞が後援をうち切ってきた。
 二〇〇二年以降は、かつての侵略戦争大東亜戦争とよんで肯定する「もう一つの戦争展」や「激動の明治・大正・昭和展」「新しい歴史教科書展」など、さまざまな装いの展示会が目立っている。愛知では、平和のための戦争展と同じ日程、同じ会場で「もう一つの…」を開催するなど、露骨な挙に出てきている。
 攻撃は戦争展だけにとどまらない。日本の加害実相に触れる映画の上映会も、しば
しば妨害にあい、上映会が中止された例もある。「新しい歴史教科書をつくる会」のうごきを含め、これらの攻撃は一体のものである。最近、映画「軍隊をすてた国」の後援を拒否する自治体さえ出てきている。
 戦争展への妨害を許さないためには、ア.事実にもとづく展示に徹する、イ.孫引きせず、原著にあたる、ウ.押しつけを排し、判断材料を提供することをつらぬき、冷静、慎重、正確さに徹すること、正々堂々と対処することが大切だ。
 同時に、多くの人たちが納得できる展示にするためには、正面から「正しいことは正しい」といっているだけでは限界があり、「伝える技術、企画力やセンスが必要だ、ということを肝に銘じよう」とも確認した。

(C)人と人、情報と情報をむすんで
 戦争展は、その地域、地域で、もっとも広範な人たちと手をつなぎ、はぐくむことができる可能性を持った巨大なフィールドだ。この条件を生かし、大いに人と人、情報と情報をつなげあいたい。
 今年の全国交流会では、第五福竜丸平和協会、映像文化協会、イラクピースキャンペーン、平和博物館を創る会、広河隆一非核平和写真展開催を支援する会などが、資料の提供を申し出るなど、新たなつながりが広がった。
 今後は、戦争遺跡保存ネットワークや平和のための博物館市民ネットワーク、学校、自治体、記念館・資料館、ユネスコユニセフなどとのネットワークを考えることも大事だ。文化団体、環境団体、人権団体など平和とかかわる団体との連絡を広げることの大事さも指摘された。
 京都では戦争展が母体となって立命館大学国際平和ミュージアムが実現した。福井では、ゆきのした文化協会などの奮闘で常設資料館が完成した。東京では早乙女勝元氏らがよびかけた東京大空襲・戦災資料センターが完成し、岐阜でも岐阜駅舎内に資料館がオープン。長野では資料館建設の運動がすすみ、山梨でも平和資料センターづくりに向けたとりくみがスタートした。回数を重ねたいくつかの戦争展では、常設資料館づくりが、今後論議になってくるだろう。

(D)通年の平和の学びをつみあげ、自前のパネルづくりにチャレンジを
 今日の戦争や平和の問題では、パネルどころか資料さえおぼつかない。このため、多くの戦争展が、イラクやアフガンに出向いたジャーナリストなどの写真を借用し、展示し、現代の戦争を告発している。
 しかし、そこにとどまっていては、現代の戦争を伝えるという点で不十分さが残る。現代の戦争の犯罪性を告発するためには、戦争の本質・背景をきちんと伝えることが不可欠であり、その部分はどうしても自前で展示物を作成して補完・補強しなければならないだろう。
 しかし、そうはいっても実際に自前の展示パネルをつくるのは大変なことだ。学習が必要だし、討議も必要だ。大変なエネルギーが求められる。が、そのことがあってこそスタッフの層が厚くなり広がる。平和の知恵が蓄積され、財産になる。
 そこにチャレンジしてこそ平和の力がつく。埼玉では二〇年間、そうしてきたからこそ「平和の学び場・コラボ21」という常設の平和学校をつくろうという発想も生まれた。それが土台になっている。
 ちなみに、「平和の学び場・コラボ21」は、シーズンには戦争展の作業場になるが、通常は平和学習の常設センターであり、若者たちの寄りあい・ふれあいの場となっている。単なる倉庫や作業場ではなく、平和学習・平和教育運動の拠点施設である。戦争展などがベースとなって、こうした平和の拠点施設を獲得しえたことは、埼玉の運動にとって大きな画期をなすものとして、期待されている。

(E)運営面での創意と工夫を
 とかく戦争展は、「暗い」「まじめすぎる」というイメージが強いといわれ、少なくない地域では参観者の獲得に苦労している。どんなに良いとりくみでも参観者が来なければ、展示目的は達成できない。大規模に広げるためには宣伝の工夫もあるが、目玉になる企画や話題づくりを行い、人を呼ぶ工夫を凝らすことも必要だ。
 その点で、満州国皇帝・溥儀の資料を中国から借用して「満州帝国」展にとりくみ、マスコミなどに取り上げてもらうなかで参観者を獲得した福井や愛知の経験や、お寺を会場にして開催している兵庫、住職が実行委員長をつとめていることで保守的な人たちの理解や賛同を広げている奈良の経験などは貴重だ。京都では、市内の寺院の住職に色紙を書いてもらい、墨跡展で展示販売するなど、土地柄を生かした話題づくりを行っている。
 最近はホームページを持つ戦争展も増えている。インターネットなどの活用も大いにはかる必要があろう。
 交流会では、若者の参加や獲得についても意見が出たが、若者に限らず参観者やスタッフの数も、まだまだ不十分だ。埼玉でいえば、一〇代、二〇代の若者たちはそこそこいるが、三〇代、四〇代の働き盛りがいない。実はこの層は参観者の層でももっとも少ない。働き盛りの、しかも男性。この層は自衛隊イラク派兵や改憲問題などでは、圧倒的多数が賛成層を形成する。本当は、この層にこそ見てもらいたいのだが、そうはなっていない。そこを切りひらかないと平和の多数派にはなれない。その点の研究が大きな宿題として残されている。