zames_makiのブログ

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シリアの花嫁(2004)

THE SYRIAN BRIDE 97分 イスラエル/フランス/ドイツ
公開 2009/02/21 岩波ホール 11:30/14:30/18:30
受賞:モントリオール世界映画祭グランプリ、同観客賞、国際批評家連盟賞、エキュメニカル賞の4冠受賞
監督:エラン・リクリス 脚本:スハ・アラフ エラン・リクリス
出演:ヒアム・アッバス マクラム・J・クーリー クララ・クーリー
http://www.bitters.co.jp/hanayome/
=感想:イスラエル占領下だがシリア人である事に間違いない特殊な状態にある人々描いた映画。テーマはこの特殊な状況の描写そのものにあり、訴えているものは住民の意思や思いが両国政府の政治的方針で分断されたままの割り切れない現実の残酷さであり、ヒューマニズムではないだろう。ラストではむしろ花嫁周囲の人のもつヒューマニズムは否定される。従って見終わった感想はなんとも消化不良のものであまり感動的とは言い難い。一般にこの映画はヒューマニズムの観点から優れたものとされているようだが、私には(1)イスラエル政府の出国を難しくすると当然予想されるスタンプを押すという悪意、(2)そのスタンプやそれを消した痕跡さえ拒否し、花嫁の越境を拒否するシリア政府の自国民への無配慮・残酷さ、(3)その間で努力するものの結局の所傍観者でしかなく、最後は放り出してしまう赤十字担当者の無責任さ、という国家や国際社会の残酷さしか目に入らなかった。

 どこにヒューマニズムがあるのだろうか?もし人間性が描かれているとすればそれは花嫁の家族の間にしかなく、それはいわば虐げられた人々の間の連帯でしかない。私はそう受け取ったから、1作品としてなんの主張を示さず終わるラストは、口ごもりがちな悲劇でしかなく、その点では演出不足の凡作としか受け取れなかった。(勿論映画全体としては人々の微妙な感情を巧みに描いた秀作であるが)。

 事件の行く末を示さないラストに私は戸惑い、簡単に言ってつまらないと感じた。勿論こうした表現は可能だ、しかし今現在も起きているこの問題について言うなら映画はやはりもっとはっきり意見を示すべきである。(例えば冤罪事件の裁判中に製作された映画「松川事件」がなんの結末を示さず終わったら人々はどう解釈するだろうか)技術的に結末を直接描かない手法でラストシーンを構成するなら、映像では描かないけれど観客に「あるシーン・ある結末」を想像させる演出がなされるべきだと思う。それはこの映画であれば花嫁が検問を超えてシリアに行く姿であり、両国政府への強い抗議になったはずだ。しかしこの映画はそのような感覚を与えるようにはできていなかった。どうなるのか、疑問符のままで終わった。


 私はこうして現実の事件を曖昧に終わらす映画に疑問を感じる。この疑問は同じイスラエル人のアモス・ギタイが2005年のガザからの入植地撤退を描いた映画「撤退」と同じだ。あの映画では冒頭でユダヤ人のパレスチナ人との連帯を強く訴えるが、結局映画がラストで行ったのは入植者の感情への注目であり共感であったろう。そしてそこでおきている事実そのもにには目をそむけていた。両映画のこうした枠組みは同じものだ。悲劇は描く、しかしなぜそうなったかには沈黙している、いやむしろ感情に焦点をあてる(この映画で言えば花嫁周囲のヒューマニズム)事で「なぜそうなったか」を隠しているともいえよう。これが板垣雄三氏の言いたい事だったのだと思う。


 早尾貴紀氏の映画評を読んだ後でよりはっきり書けば、この映画はイスラエルの言い訳でしかないように思う。私も板垣雄三氏のこの映画への感想を聞いた1人だが、彼は実はもっと厳しい事を言っていた。この映画はシリア人は怠惰で責任感のない人だと描く、花嫁周囲のシリア人はジェンダーなど古いルールに拘るアラブの悪さに辟易し、結局イスラエルとの関係強化へ傾斜するという描写になっているという事を指摘していた。冷静に映画を観察すればその通りだろう。花嫁の新郎となる人は馬鹿者に見えるし、シリア大統領は理由もなく席にいない無責任な人物だ。こういう描写がおかしい事を理解するには日本の首相が電話に出ないという描写を想像してみればわかるのではないか。一方イスラエルについては顔のない人物が花嫁の出国を妨害する事になるスタンプを押すのを命令するだけで背景は何も描かれない、逆にイスラエルの刑事は花嫁の父を脅かすものの結局の所大人しい人物だし、検問所の兵士は規律正しくむしろ優しいと描かれる。


 これをみればこの花嫁に起きた問題は両国それぞれに等しく問題がある、いやむしろシリア側に大きな問題があると感じるだろう。それがイスラエル国内でも映画の評判のよかった原因に思われる。この映画ではイスラエル人は、残酷な国家の方針に従わざるを得ないが、個人ではできるだけの事をしたいと願うヒューマニストであるとされている。しかし本当の問題はそのイスラエルの国家方針にあるのは言うまでもないし、そして大多数のイスラエル人は個人でもその方針を支持しているし、実際にこんな対応をするとは私には想像できない。

早尾貴紀氏映画評(パレスチナ情報センター)抜粋 2009年6月1日

『シリアの花嫁』の見方Posted by :早尾貴紀
 徳永恂氏で、(略)パレスチナを扱っている日本の一部のジャーナリストについて、あまりに単純にイスラエル断罪をしており反ユダヤ主義的傾向がある、と指摘した。たしかにそう言わざるを得ない面がある。そのとき徳永氏は、複雑なイスラエル問題を知るうえで、『シリアの花嫁』はたいへんにいい映画なので、みなさんもぜひ観るべきだと言われた。(略)その意味で、パレスチナに関心をもつ人なら一度観ていていい映画だと思うし、徳永氏が推薦したのも頷ける。

 他方、この映画を批判したのは、日本におけるパレスチナ研究の第一人者とも言える板垣雄三氏だ。(略)こうしたヒューマニスティックな映画が消費されることで、イスラエルによるパレスチナ占領という政治問題が、観衆のなかで帳消しにされかねない構造について危惧していると言ったほうが正確だろう。映画はとりわけ用意にヒューマン・ドラマに訴えがちだ。これはドキュメンタリー作品についても同じだ。これと類似の問題を、僕はこれまでたびたび目にしてきた。(略)


 『シリアの花嫁』に話を戻そう。この映画がよくできていることは確かだし、多くのことを効果的に訴えていると思う。その意味では、一人でも多くの人に観てもらいたい。そのことで、「イスラエルパレスチナ」とか「ユダヤ対アラブ」といった単純な図式での理解が、少しでも是正されればと思う。
 しかし同時に、「ヒューマニズム」の次元でこの映画を消費するだけに留まるならば、シオニズム自体に対する批判には至らないだろう。そうであるなら、シオニズム左派の文学者(アモス・オズダヴィッド・グロスマン)の作品を日本の社会は80年代から消費してきたわけで、まだそこから一歩も前進していない、ということになるだろう。
 『シリアの花嫁』のリクリス監督は、来日インタヴューで、「リベラルさと寛容が必要だ」と訴えていた。これがシオニズム左派の限界でもある。