zames_makiのブログ

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坂野義光監督インタビュー

コジラマガジンVOL8.5 2002.7.5
http://www.h4.dion.ne.jp/~gmaga8_5/jinbutuden_1_wp.htm
■日本特撮人物伝・1 坂野義光 (取材・文/もりりん)
〜時代を切り取る眼〜ヘドラ誕生 「ゴジラ対ヘドラ」監督坂野義光YOSHIMITSU BANNO

その名を聞いて「おおっ!」と反応したあなたは既に中級以上のゴジラファン。そう、あの「ゴジラ対ヘドラ」の監督である。インパクト絶大の主題歌「かえせ!太陽を」、空飛ぶゴジラ、エキセントリックなアングラ・バーなどなど、一度見たら一生忘れられない、トラウマ度満点の作品というのが、一般的な評価かと思われる。いろいろな意味で有名な「ゴジラ対ヘドラ」であるが、その監督・坂野義光については、田中友幸本多猪四郎円谷英二はおろか、福田純伊福部昭中野昭慶各氏に比べても紹介記事が格段に少ない。その理由は坂野のフィルモグラフィーを見れば一目瞭然で、氏の専門分野はドキュメンタリーとイベント映像であり、ソフト化困難なものばかりなのだ。
 ここでは、監督デビュー作であり、 手軽に観賞できる唯一の作品、「ゴジラ対ヘドラ」を通して、坂野監督の映像世界の原点を覗いてみたい。


●芸術青年からゴジラへの道
坂野は1931年3月30日、愛媛県生まれ。中学3年の時に東京へ転校。大学では美術史学を専攻し、演劇を愛する芸術青年だった。そして大学卒業後の1955年に東宝に入社、助監督として黒澤明監督に師事、「蜘蛛巣城」「どん底」「隠し砦の三悪人」「悪い奴ほど良く眠る」で助監督として活躍。他にも、成瀬巳喜男監督「妻として女として」堀川弘通監督「別れて生きる時も」古澤憲吾監督「「ニッポン無責任時代 」「日本一のホラ吹き男」といったクレージー映画、福田純監督の「100発100中」等、多くの作品に参加。1966年には東宝に水中撮影班を設立、後に海洋ドキュメンタリー映像作家として名を成すきっかけとなる。特撮関連では、「太平洋 奇跡の作戦 キスカ」、日本万国博三菱未来館の映像、「日本海大海戦」協力監督など、製作補的な立場で円谷英二特技監督の最晩年作品に参加していた。その際、製作者・田中友幸の目にとまり、後に円谷英二亡き後の特撮復興を目指す田中に抜擢され、ゴジラ映画の監督登板となった。


●確固たるゴジラ
ヘドラ誕生から遡ること5年、1966年「ウルトラQ」の放映に始まる、空前の怪獣ブーム。テレビ、映画 を問わず怪獣達が大暴れ、怪獣のアイドル化はエスカレートし、ゴジラも熾烈なブームからの生き残りをかけ、かつての核の申し子から華麗な怪獣スターへの変貌を余儀なくされていた。そこに坂野は違和感を抱く。
「「ゴジラ(1954)」には確かに一つのメッセージがあった。ゴジラはやはりエビのお化けなっかと闘うんじゃなく、社会現象の中で最もポピュラーな悪と闘う形にしたい(東宝特撮全史)」。
つまり、「ゴジラ対ヘドラ」は、怪獣映画の原点「ゴジラ(1954)」に立ち返った、最初の作品なのである。1980年代より現代に至るまでファンサイドで語られるゴジラの原点回帰。既に1971年において、坂野が確固たるゴジラ観を持ち、このテーマに果敢に挑戦した業績は、もっと評価されて然るべきであろう。


●時代を切り取る眼〜ヘドラ誕生〜
ヘドラのキャラクター、そして「ゴジラ対ヘドラ」のストーリーは坂野の発案である。それは、ドキュメンタリー映像を得意とする坂野の映像作家としての時代を切り取る眼によるものである。 1960年代、高度成長の陰で徐々に列島を蝕み、顕在化してきた公害。空にはスモッグ、街には騒音、海にはヘドロ・・・。坂野は、かつてゴジラに託された核の恐怖に替わるテーマとして、「公害」に白羽の矢を立てた。企画当初の名前はヘドロン、水俣のヘドロからの連想である。紆余曲折を経て生まれた公害怪獣ヘドラは、当時のマスコミにも取り上げられるなど、世相を如実に反映しており、話題性は十分だった。また、製作当時は、ニクソン・ショックをきっかけとする高度成長の陰り、70年安保、沖縄返還協定、ベトナム戦争等の社会不安が時代に影を落とし、ヒッピー・ムーブメント、アングラ・バーなど、若者文化にもデカダンなムードが漂っていた。坂野はそういった時代の虚無感も旺盛に作品に取り込み、「ゴジラ対ヘドラ」作品に奇妙なスパイスを添えている。


●映像は語る〜多面性の強調〜
坂野によるヘドラ=公害による恐怖の描写は、必要以上のセリフによる説明を省き、映像中心に展開する。その手法は劇映画というよりも「公害怪獣ヘドラの生態」とでも呼ぶべきドキュメンタリー映画になっている。ドキュメンタリーとは、「実際にあった出来事をもとにして作られた小説・記事・映画」のことである。ある一つの事件が起こったとき、対する人間の反応は、それこそ十人十色である。その多面性を強調することにより、その事件の奥行きがいっそう深くなる。オーソン・ウェルズの傑作「市民ケーン」などで使われた技法である。もちろん怪獣は架空 の存在なのだが、この方法を使うことで、作り物である特撮映像に、より迫真性が加わり、怪獣には命が吹き込まれる。読者諸兄も、怪獣映画の本編演出における「ドキュメンタリー的演出」という言葉が使われるのを聞いたり読んだことがある事と思う。本多猪四郎に代表されるこの方法論を、坂野はさらに強調して描いた。詩の朗読、アニメーション、テレビ報道番組にマルチ画面。時に幻想的に、時に通俗的に描かれる、多様な公害のイメージは、底知れぬ公害問題の広がりと根深さを伝え、単なるセリフ以上の説得力を持って、見るものに迫ってくる。


●誇張されるイメージ〜かえせ!太陽を〜
また、「ゴジラ対ヘドラ」が他の東宝特撮と一線を画しているのは、公害の描写や怪獣の人的被害が意図的に誇張されていることである。これでもかと大写しになるヘドロの海、硫酸ミストを浴びて白骨化する人々、猛毒ヘドロ弾を受けて死んでいく若者たち。それまでも怪獣によって命を絶たれる人々の描写は東宝特撮において見られたが、本作のそれはより直接的であり、過激である。これらのシーンも、 観客=子供にも公害の恐ろしさを知ってもらおうとする熱意の現れである。また、公害の恐ろしさを印象づけるものとして、映像と同じく大きな役割を果たしているのが、坂野の作詞による「かえせ!太陽を」であろう。一度聞いたら忘れられない、トラウマ度満点の歌であるが、その歌詞はあまりに哀しい。後年、坂野が潤色、共同監督を務めた「ノストラダムスの大予言」でも、同様の誇張により、幻想的な破滅絵巻が描かれる。


●更なる映像の可能性を求めて〜
ゴジラ対ヘドラ」「ノストラダムスの大予言」の後、坂野は海洋ドキュメンタリーや博覧会などのイベント映像に活躍の舞台を移すことになる。現在は株式会社・先端映像研究所代表取締役社長。日本初の新しい映像文化の発信と人材育成を目指す運動「ミロシティ映像情報都市研究会」の専務理事として精力的に活動されている。その情熱とパワーはかつて「ゴジラ対ヘドラ」に取り組んでいたころと少しも変わるところが無い。常に未来を目指す坂野監督のこれからの活躍にエールを送るとともに、久々の新作劇場映画、あわよくば新作ゴジラ映画への再登板も期待したいところである。


●付記
1971年夏、「ゴジラ対ヘドラ」が公開され、今年で31年が過ぎた。かつての「公害」 は、近年では「環境破壊」と名を変え、より大規模に、より深刻に地球を蝕んでいる。本作で坂野が訴えた、公害反対のメッセージは、今も痛烈に人類の未来に警鐘を鳴らし、我々の脳裏には、あの「かえせ!太陽を」のフレーズが、今も鳴り響いているのだ。(文中敬称略)


●坂野監督へのメールインタビュー
1.監督は学生時代、美術史を専攻されていたとのことですが、いわゆる芸術家(画家・彫刻家)を志されていたのでしょうか。また、影響を受けた芸術家はおられますか。
(答え)高校時代に水彩画で二度日本水彩画展に入選して上野美術館に出展したことがあるが、自分より遥かに巧い友人がおり芸大は断念。3年の暮れまで芝居ばかりやって遊んでいた。影響を受けたのは、小林秀雄。大学時代も演劇に明け暮れ、2年の時サルトルの「蝿」を本邦初演。3年の時、日下武等と劇団「方舟」を結成、モリエールの「スカパンのペテン」を中労委会館で上演。その後、「劇団ボトム」で1年間スタニスラフスキー演出方式を研究するが上演の目途立たず断念。東宝(株)ヘ入社。大学の文学部では、仏文か英文に入りたかったが、成績が悪いので美学美術史学科へ放り込まれた。ちなみに、4年生の時は、学校へ行った日は10日しかなかった。


2.映画界を志されたきっかけは何ですか?また、影響を受けた映画人を教えて下さい。
(答え)芝居では、食って行けないと思ったから。


3.監督のフィルモグラフィーは多くがドキュメンタリーやイベント映像です。
劇映画と比べて、このジャンルの監督にとっての魅力はどこにあるでしょうか。(私信:「野生の王国」大好きな番組でした!懐しいです。)
(答え)東宝に1966年に水中撮影班を設立し、「南太平洋の若大将」のタヒチロケで加山雄三と前田美波理を水深30メートルの沈没船に潜らせて撮影した。
ゴジラ対ヘドラ」でゴジラを飛ばしたので続編の監督が出来なくなり、≪素晴らしい世界旅行≫等で5年間海のドキュメンタリーに携わる。ラッコやゾウアザラシと遊び、クジラやサメの背中に乗って面白かった。


4.「ゴジラ対ヘドラ」には、「ゴジラ(1954)」に通じる「現代文明への警告」が色濃く打ちだされていると思います。当時監督の中にあった、公害に対する強烈な危機感がヘドラを生んだと思うのですが、いかがでしょうか。
(答え)ゴジラを久々にやるから企画を考えろと田中友幸プロデューサ−から1970年に指示があったとき、その年の7月に杉並区で女子高生が校庭で体操中に光化学スモッグでバタバタ倒れる事件があり、自民党も公害はいかんと言い出したので「ヘドラ」が実現出来た。その前にレイチェル・カーソンの「沈黙の春」を読んでいたので、「鳥も魚も、黙っちまった」というテーマソングの歌詞が出来た。


5.ゴジラに空を飛ばせるに当たっては、東宝の重役にも了解を取り付けるほどの一大事だったとのことですが、監督の御苦労なさった思い出はありますか?
(答え)ヘドラは今までの怪獣で一番強く、倒しても倒しても又出てくる。ゴジラ放射能と電極版でやっつけても小さくなって逃げ出した。ゴジラがのそのそ歩いて追っかけては間に合わないので飛ばした。田中プロデューサーが「飛ばしちゃいかん」と言った場合のために、飛ばさない編集用のカットも取っていたが、田中さんがオールラッシュにも入院中で出てこられないので、判断は東宝映画(株)の馬場和男に一任された。「スピード感があった方がいい」という彼のOKで今の形になったが、退院したプロデューサーには、作品を見て不機嫌顔で一言「性格を変えてもらっちゃ困るんだよな」と言われた。 その後、続編の企画も出したが、予算が掛かりすぎるという理由でじ実現しなかった・・・・・、と私は思っていたのだが,” A Critical History and Filmography of Toho’s Godgilla Series (もりりん注:アメリカのゴジラ研究書)”を読んで驚いたのは、東宝(株)は私を新人監督として売り出そうと考えていたが、田中さんが激怒して「二度と坂野義光には怪獣映画は撮らさない」と断言したと書いてあるのにめぐり合った次第である。


6.ズバリ、「ゴジラ対ヘドラ」の続編について、あらすじなどお聞かせ下さい。
(答え)続編は、ヘドラがアフリカに上陸するストーリーを考えていたが、その話が” A Critical History and Filmography of Toho’s Godgilla Series “ にちゃんと載っているのには、アメリカ人の取材能力に感心した。