zames_makiのブログ

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奇跡体験!アンビリバボー〜戦場のラストサムライ・敵兵を救助せよ

フジテレビ 2007年4月19日放映「奇跡体験!アンビリバボー」において放送。番組では特別に海上自衛隊の協力で、海上ロケで再現ドラマを作成して放映。番組では前フリ:「日本人の品格」全体まとめ:「武士道の精神で救った」として構成。完全な美談として放映。(原作)敵兵を救助せよ! / 惠隆之介(元海上自衛隊自衛官). -- 草思社, 2006.7


(概要)1942年2月28日、ジャワ海スラバヤ沖で、イギリスの駆逐艦「エンカウンター」が撃沈され、400名以上のイギリス兵が救助を求めて漂流しているところに、通りかかった日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」(乗組員約240名)、その前年には日本の病院船の救命ボートが攻撃されて撃沈されるということも起こっていたから、イギリス兵たちは一度は死を覚悟した。しかし、「雷」の艦長、工藤俊作は、自艦が攻撃される可能性を冷静に判断した上で、「雷」の乗組員の倍以上の422人のイギリス兵をひとり残らず救助した、日本兵は献身的に救助した。

救助されたイギリス兵は翌日ボルネオ島近辺で病院船に引き渡された。救助されたイギリス兵の一人、サムエル・フォールは戦後外交官としてサーの称号を得た。彼は1966年「My Lucky Life」を執筆し、この経験を記し工藤を称えた。

駆逐艦「雷」はその後撃沈され、乗組員はほぼ全員が死亡、艦長工藤俊作は別の艦に移動していており、戦後日本へ帰国したがこの経験をいっさい語らず昭和54年死亡。(だが番組では「雷」航海長に取材している。)執筆者惠隆之介は、関係者でこの事件を語る者はおらず、部下を失ったため工藤も語らなかったのだろうとコメント。


「戦争を語りつごう」ブログ執筆者のコメント。http://nishiha.blog43.fc2.com/blog-entry-1125.html

こういう“美談”を語り継ぐことは結構なことだと思いますが、同時にこのような“美談”が美談でなく、まったく隠蔽される世の中であったこともまた語り継がねばと思います。これをただ単に“美談”としてもてはやす(だけでは)、当時の帝国海軍や軍国主義に対する批判ということ(にはならないでしょう)。


今年の5月、<この事績をひろく世界に向けて発信する事は、日本国の国益としても大いなる意義があることと信ずるところであります>という趣旨で、「故海軍中佐工藤俊作顕彰会」(会長:平沼赳夫)が発足しました。
「故海軍中佐工藤俊作顕彰に関する趣意書」(http://ameblo.jp/meiseisha/entry-10105224271.html
協賛にはなぜか、工藤元艦長が祀られてもいないのに靖国神社の名があります。パール判事と同じく境内に顕彰碑が建つのでしょうか。戦後もずっと沈黙を守ってきたという工藤は地下でどう思っているのでしょう。
( )内はzames_makiが意訳

(感想)
まったく同感のコメント、戦時中の記録映画1943年「海軍病院船」(監修:海軍省 )では捕虜へも手厚く治療をしている様子を示しており、ナレーションは非常に宣伝の色合いが濃い。なのにこの出来事が日本人に知らされなかったのは、記録映画自体は宣伝のための嘘(または珍しいケースの誇張)であり、海軍では工藤のような行動を歓迎していなかったからではないのか?

工藤のケースを大々的に日本で報じれば、連戦連勝である日本軍はその後も、続々とこうした捕虜への人道的扱いを報じざるを得なくなり、それが日本軍の残虐な姿勢とあまりに乖離することを恐れた(あまりに嘘を重ねる事を心配した)からではないだろうか?


これを美談と単純に誉めるのは、グァム島から戦後28年たって帰った横井庄一さんを「英雄」と誉めるのと同じような<愚行>に思える。実際2008年7月NHKで放送した「日めくりタイムトラベル−昭和のヒーロー特集!」http://www3.nhk.or.jp/hensei/program/k/20080712/001/12-2000.html
では、王貞治などと並べて横井庄一さんを取り上げており、彼が英雄として歓待された様子を伝えていた。しかしNHKの扱いは細かい。NHKの番組自体はコメントをただサラリと流しただけだが、コメンテーターに入っていた、天野祐吉は「横井さんはヒーローではなく、犠牲者だ。彼を英雄として扱うべきではない」とコメントしていた。


天野祐吉氏は、日本の戦争犯罪・戦争責任にも厳しい立場をとっている人、彼の言いたいのは、「こうした美談はたしかにそれ自体は賞賛すべきことだろう、しかしなぜそれが引き起こされたかという大元ををまったく忘れ、その原因への批判なく、ただ賞賛するのでは戦前の体制となんら変わらない。特に、戦争で相手を残酷に殺すのは当たり前だ、国の為に死ぬのはいい事だ!などと、正面から戦前の価値観を肯定する人が現れた今では」という事のように思える。

(以下、公式サイトの説明)
2003年10月19日の海上自衛隊観艦式に、84歳という高齢で心臓病を患いながらも元イギリス外交官のサムエル・フォール卿が参列した。サーの称号を持つ彼にはどうしても日本を訪れたい理由があった。案内された艦内で、サー・フォールはしみじみと65年前の壮絶な真実を語った。それは、戦後の長きに渡り日本人の誰もが知らなかった奇跡の話だった。
 第二次世界大戦が勃発した翌年の1942年2月28日、ジャワ海スラバヤ沖で物語は始まった。当時の戦況は日本が圧倒的に優位で、イギリスを始めとする連合国艦隊は連日猛攻撃を浴び、フォール中尉の乗った駆逐艦・エンカウンターも3隻の戦闘艦に包囲されていた。エンカウンターは攻撃を受け、エンジンが停止し乗員達は脱出するしかなかった。3月31日午後2時、全員が救命ボートで脱出し、エンカウンターは海に沈んだ。だが本当の地獄はここからだった。船から流出した重油で多くの者は目が見えなくなった。近くには沈没した他の船の乗組員を含め400名以上が漂流していた。

 8隻の救命ボートでは不十分で、漂流しながらしがみつくのがやっとだった。しかしフォール中尉は、沈没する前に打ったSOSの信号を受信できる距離に味方のオランダ軍基地があったため、すぐに救助が来ると思っていた。
 しかしいつまでたっても救助は来なかった。怪我をした足を魚につつかれ、不安の中でサメに襲われたとパニックに陥る者達も多かった。諦めそうになる者も多かったが、フォール中尉は「家族を思い出せ、生きて故郷に帰ろう」と励まし、自分にも言い聞かせた。
 漂流から20時間が経ち、絶望感から自殺しようとする者も現れた。その時、フォール中尉達の前に船の姿が見えた。しかしそれは日本海軍の駆逐艦「雷(いかずち)」だった。
 乗組員220人の小型の軍艦ではあるが、数日前の海戦では連合国軍の船3隻を撃沈するなど、その威力を見せつけていた。
 指揮をするのは艦長・工藤俊作少佐。身長185cm、体重90kgの堂々たる体格の孟将だった。

 雷の乗組員が、多数の浮遊物に気づいた。工藤少佐は、潜水艦の潜望鏡が見えないかどうか確認するよう、航海長の谷川清澄中尉に指示した。この2ヶ月前にアメリカの潜水艦から魚雷攻撃を受けていた上、前日には日本の輸送船が敵の潜水艦に撃沈されたばかりだった。
 油断できない海域だったため、戦闘用意が指示された。しかし浮遊物が敵のイギリス兵らしく、400名以上いることも伝えられた。だが念のため潜望鏡がないかさらに確認するように指示が出た。
 戦場に情けは無用。事実、前年には日本の病院船の救命ボートが攻撃され、158名が死亡するという悲惨な出来事も起こっていた。
 工藤の船は漂流者を射程距離に捕らえた。この時工藤が見たのは、ボートや瓦礫に捕まり、必死に助けを求めるイギリス兵たちの姿だった。いつ潜水艦に襲われるかわからない危険海域で、艦長に全ては委ねられていた。
 フォール中尉たちが最期の瞬間を覚悟した時だった。工藤艦長は、敵兵を救助するよう指示を出した。駆逐艦には、救難活動中を示す国際信号旗が掲げられた。

 兵士達は、自分たちより数の多いイギリス兵を助けることに戸惑った。しかし、海軍兵学校の頃から教育されてきた武士道、それが工藤にこの行動を取らせた。敵とて人間、弱っている人間を相手にフェアな戦いはできないのだ。兵士達もこの考えに従うことになった。
 世紀の救出劇が始まった。まずは自力で上がれる者に縄梯子などを差し出したが、イギリス兵たちは病人たちを先に救助するよう求めた。日本兵達は病人達を担いで雷に引き上げた。
 また、イギリス兵達は最後の力を振り絞って雷に向かって泳いだ。だが、21時間の過酷な漂流ですでに限界を超えていた。自力で上がれる者がほとんどおらず、救助の手はとても足りなかった。すると工藤は、一番砲だけ残し総員敵溺者救助用意を命じた。最低限の人間を残し、全員で救助活動に当たることになったのだ。ここで兵士達は覚悟を決めた。ただ工藤は220名の命を預かる艦長として気を緩めることはなかった。
 イギリス兵たちの救助は続いた。だが体力の限界を迎えていた彼らは自力でロープも棒も掴むことができなくなっている者もいた。そんな彼らを、日本兵達は海に飛び込んで抱えて救助した。

 敵も味方もなかった。救助活動を見ていた工藤は、魚雷搭載用のクレーンでも何でも、使えるものは何でも使って救助するように指示した。甲板では日本兵がイギリス兵達の汚れた体を優しく拭き、自分達にとっても貴重だった真水や食料を惜しみなく与えた。
 やることはやったと思っていた兵士達だったが、工藤はさらに他の漂流者を残らず救助するように指示した。遠方に一人でもいたら船を停止し救助した。全員を救助し終った時、その数は日本の乗組員の倍近い422名にのぼった。
 サー・フォールは、全員を救おうとした工藤艦長のフェアな態度こそ、日本の誇り高き武士道なのだろうと感じたという。
 救助活動が終ると、工藤は士官のみを集合させた。そして「諸官は勇敢に戦われた。諸官は日本海軍の名誉あるゲストである」と英語で伝えたのだ。
 名誉ある442名は翌日、ボルネオ島の港で日本の管轄下にある病院船に捕虜として引き渡された。

 終戦後、サー・フォールは家族と恋人の待つ祖国イギリスに帰国し、サーの称号を与えられるほど有能な外交官として勤め上げた。
 1996年、彼は自らの人生を「マイ・ラッキー・ライフ」という自伝にまとめた。その冒頭には「この本を私の人生に運を与えてくれた家族、そして私を救ってくれた工藤俊作に捧げる」と書かれている。
 サー・フォールは自分が死ぬ前に工藤艦長に会いたくて日本を訪れた。しかしその時、工藤の消息は掴めなかった。
 実は工藤が別の船の艦長になった1942年、雷は撃沈され乗組員全員が死亡した。工藤はそのショックからか戦後は戦友と一切連絡を取らず、親戚の勤める病院を手伝いながらひっそりと暮らした。そして昭和54年1月4日、77歳でこの世を去った。
 自らのことを工藤は語らなかったため、サー・フォールが来日しなければ誰にも知られることはなかった話。
 この救助劇はサー・フォールの話に感動した元自衛官の手により「敵兵を救助せよ」(惠隆之介・著/草思社・刊)にまとめられた。

 惠氏は工藤元艦長の家族にも取材をしたが、誰もこの話を知る人がいなかったという。戦争で部下達を失った悲しみが、彼の口を閉ざしたのだろうと感じたという。
 さらに救助活動に加わった元航海長の谷川氏は、当たり前のことをしただけだと工藤元艦長なら言うだろう、と話す。
 サー・フォールの日本人に抱く印象に影響を与えた彼の武士道。尊敬と感謝の念を今も抱いている、とサー・フォールは話してくれた。工藤元艦長の残した真の武士道の姿は、今も多くの人の心に生き続けている。
 工藤は自らのことを何も語らずに亡くなったが、生前、一度だけイギリス兵について話したことがあるという。彼がいつも持っている黒いバッグがボロボロだったため、姪が「なぜ新しいのに替えないの?」と聞いたところ、「イギリス兵にもらった大切なバッグなんだ」と語ったという。
 サー・フォールは敵を敬う武士道を、子供や孫達にも話したという。いつか世界中の人たちが仲良くなれるきっかけになることを祈って。