zames_makiのブログ

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第五福竜丸(1959)記録映画風反核映画

メディア:映画 110分
製作:近代映画協会=新世紀映画社(八木保太郎の率いる独立プロ、金がなく共同製作を申し込んできた) 配給:大映 公開:1959/02/18
監督:新藤兼人 脚本:八木保太郎新藤兼人(膨大な事実調査を行いそれを分担して行った、新藤兼人が実質的に脚本を全て書き、八木は目を通した程度の様子、八木保太郎は戦前からの大物脚本家である) 音楽:林光

出演:
宇野重吉(久保山愛吉)福竜丸の無線長、原爆症で死ぬ、終始出番多し、老獪で陽気、被爆を打電するとアメリカに拿捕される危険性を感じている、反核などについて特別な台詞なし
稲葉義男(見島民夫)第五福竜丸の漁撈長、特別な出番なし
松本染升(西山与市・第五福竜丸の船元)船の持ち主、早く帰ってきたので最初は怒る
乙羽信子(久保山しず)久保山さんの妻、反核などについて特別な台詞なし

永井智雄(大宮医師)焼津の医師、最初に船員の診察をする
浜田寅彦(熊谷博士)名古屋大学者?、最初にきて放射能検査をする
永田靖(県衛生部長)?
殿山泰司焼津市の助役)船員に生活の保障を約束する
千田是也(木下博士)京大?教授、死の灰の分析で水爆の証拠であるU237を発見する
ハロルド・コンウェイ(原爆障害調査委員会所長)被爆船員を焼津に見に来る、また船の検査をする

三島雅夫 (清川博士)東大の医師、被爆船員の治療をする(7人)
松本克平(東一副院長)厚生省第一病院の医師、被爆船員の治療をする(16人)
木下陽(東一内科医長)被爆船員の治療をする
ジョウ・ハーディング (アイゼンバアグ)日本の病院と交渉、アメリカ側で血液採取させろとひつこく要求、いっぽう謝罪しろと言われても確約しない

小沢栄太郎(知事)愛知県知事、葬儀に参列
ピーター・ウィリアムス(米大使代理)葬儀に参列し弔辞文を読む、平和をつくると言う

感想

1954年3月1日におき日本の反核運動の大きな発端になった第五福竜丸事件を非常に細かく正確におった再現ドラマ。被爆の様子、焼津港に帰ってから新聞記事になる経緯、アメリカ側医師の反応、などが細かく描かれている、意図的に強調する演出は全体に控えめで単純に再現したいとの意図が窺われる。その中で強調されているのは、アメリカ側の反応で、当初スパイではないのかと疑った事、アメリカ側があくまで自分達で診察検査しようとした事、それに対し日本側医師団が反発したこと、が大きく取り上げられている。一方誠に不十分だった米国による保障や、被爆したマグロの処分問題、などはまったく取り上げられておらず、事件後5年で当時も進行中だった反核運動の邪魔になる事を恐れ、政治的な叙述をほとんど避けたと推測される。
 本物の漁船を洋上で撮影しており、非常にリアルな映像、余分なエピソードのない真面目な映画になっている、一方、この映画だけではアメリカの核実験による日本全体の恐怖感、あるいはアメリカ側の責任逃れの態度(船員の健康障害を核実験のせいだと認めない)などはわからない、当時の社会状況下で見れば明確な反核運動への宣伝映画だ。中の中。
 第五福竜丸の船員は死亡した久保山氏のみに焦点があたり他はほとんど名前もわからないように配慮されている、また家族の描写も最低限しかなく死をどのように悲しんだかはまったく描かれていない。これらは事件当時でも同様に核実験で被爆した船の存在は報道されているにもかかわらず、他に核実験で被爆した漁船員の社会的明示化が控えられたこと、映画がそれらへの注目を喚起し、家族や他の船員が社会的に注目される事を避けるためと推測される(新藤監督は明確な反核である)。だがTV報道の形で事件後3ヶ月で騒動は収束したと映画内では伝えている(実際には原爆マグロの検出は社会的にはずっと続いた(年末まで)し、物理的な事実としてはその後もアメリカの核実験の度に程度の小ささはあっても死の灰による人間の被爆、船員の被爆、漁獲水産物の汚染は続いていた、しかしそれらはまったく描かれていない。

 ラストは久保山氏の葬式に国務大臣や、県知事や、アメリカ大使代理が出席し弔辞を読む場面があり、当時いかに社会的に大きな問題だったかわかる、同時にたくさんの人の葬式参列が描かれ、「原爆許すまじ」が合唱され、この映画の意味づけ=反核、が明確化されている。
 この映画は明確な反核・おそらく反米運動を喚起する宣伝映画である。しかし「原爆許すまじ」の歌詞や歌われた状況を理解できない外国人や後世の観客には、これはわからない可能性が大で、映画中では反核運動の様子やそうした台詞、場面が一切ない事から、この映画は単純な記録映画として扱われるかもしれない。これは映画「シンドラーのリスト」の最後に歌われる歌「黄金のエルサレム」の意味を理解できない日本人観客におきる事と同じであろう。

メモ

  • 興行成績はよくなかった、また反核運動との連携もなかったらしい。新藤兼人は著書「独立プロ30年のあゆみ」で、大映は2月の寒い時期に似合わぬ作品(「最高殊勲夫人」増村保造)、と上映され、公開初日から数人しか客が入っていないと書いている。大映は1500万円は保障しそれ以上は興行成績による、という約束で配給した。製作費は3000万円程度なので興行成績が新藤らにとって重要だった。成績は尻上がりにのぼり1500万円程度の様子だ。

−新藤は事実に忠実に映画化した、としている。