zames_makiのブログ

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南と北(1984)朝鮮戦争

=一人の女性を南と北の兵士が取り合う興味深いメロドラマ。争奪は心情的に行われ、政治的・暴力的ではない。日本の戦争映画にもよくあるテーマだが、3人が一堂に会し、それぞれの主張と心情を語るのが大きく異なる。ラストは昔の夫(北の兵士)が、新しい夫(南の兵士)に妻を譲るのであり、恋愛や行動の自由を求め南へ降伏し、南の兵士が妻を得るという物語の大枠は、プロパガンダ的であることに間違いはない。1965年作では北の兵士を否定する裏話があったようで、北の否定による反共宣伝的意図はより確かだったろう。
 こうした政治性、この映画がけして政治的に中立ではないのは、「南の兵士が妻を探して北へ投降する物語」「北の兵士は南の占領地内で妻を発見し北へ一緒に帰る事を要求する物語」「両者の間で妻は、あくまで戦争をし続ける両者を否定し、ともかく平和を求める、そうでなければ真の家族になれない」などという物語が果たして成立可能か疑問であるからで、更に韓国で将来的に可能かも大変興味深い。ただこの1981年版がかなり融和的のも確かで、北の兵士は最終取引以前に自発的に軍事機密を南に打ち明け、北の兵士の行動が純粋に心情的なものとしているし、夫婦の子供は北の軍服姿の父を始め「傀儡軍」と否定するが、軍服を脱げば優しいおじさんとなつく=北の兵士の個人的尊厳を認めるなどがある。
 更に疑問に思うのは果たしてこれは本当にメロドラマなのか?という点だ。この映画では三人の中で南の兵士の心情に焦点があたり、それは大変行儀がよいもの。一方北の兵士は最初は単に見境なく女を求める獣のようであり、一方ラストでいきなり妻をなぜ譲るのか不明である、あれだけの苦労をしておきながらまるで馬鹿のようだ。そして女性の視点はまったくない。二人の男が取り合った時最も不幸になるのは女ではないのか?そもそも女性はなぜ夫を捨てて南へ移動したのか、なぜ描かれないのか?結果として映画は女性の主張を何も描かない。女性の視点に立てば、やはり戦争自体を否定する事になる。すなわち南も北も批判する内容になった為だったのではないだろうか?こうしたバランスを欠いた物語、それは果たして本当の意味でメロドラマ=心情を契機に動く物語、なのだろうか?
コリアキネマ倶楽部 第151回上映会:新企画「韓国映画・往年の名女優シリーズ?」
南と北の兵士の間で数奇な運命を辿る女。

『南と北』(1984) カラー・日本語字幕

6月25日は朝鮮戦争の始まった日。犠牲を追悼して上映します。
監督:キム・ギ(金起)
スタッフ:製作−チョン・ウンギ/脚本−ハン・ウンサ/撮影−ソ・ジョンミン/照明−チェ・ウィジョン/音楽−チョン・ミンソプ/編集−ヒョン・ドンチュン
出演:ウォン・ミギョン、キム・マン、ユ・ヨングク、ユン・ヤンハ
年国:1984/韓国
時間:110
製作:韓林映画
【ストーリー】朝鮮戦争で夫の戦死の知らせを聞いた女は、南で再婚する。ところが夫は、北の地で生きていた。二人は顔を合わせることになる。南北分断の悲劇を、狭間に立たされた女の姿を通じて訴える。二人の夫の間で悩む美しい妻を、ウォン・ミギョンが演じています。
参考→Taro's SITE by SIGHT <韓国映画劇場>http://www.geocities.jp/taro_kf/movie.htm
日時:2013年 6月8日(土)
午後6:00開場 6:30開映
会場:文京シビックセンター(地下鉄春日駅)地下1階 文京アカデミー
料金:無料・予約不要
主催:コリアキネマ倶楽部、共催:韓国文化院