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戦場のメロディ〜108人の日本人兵士の命を救った奇跡の歌

2009年9月12日 21:00〜 製作:フジテレビ 
土曜プレミアム『戦場のメロディ〜108人の日本人兵士の命を救った奇跡の歌〜』
放送日:2009年9月12日(土) 21時〜23時10分放送
キャスト:薬師丸ひろ子渡辺はま子成宮寛貴(植木信吉):モンテンルパの戦犯の復員に努力する軍人、萩原聖人(戦犯) 中嶋朋子(その妻) 田畑智子 小日向文世(加賀尾秀忍):僧侶、モンテンルパ収容所に入れた
脚本:末谷真澄 演出:田島大輔(FCC)大川卓弥(ジン・ネット) 制作著作:フジテレビ

=要旨:フィリピンのモンテンルパ収容所の戦犯は冤罪で、渡辺はま子が戦争中戦意高揚映画を歌っていた後悔から気にかけ、死刑執行をから救出したという視点で企画制作されたドキュドラマ。はま子のドラマと当事者へのインタビュー、新聞記事、当時のフィルムなどから構成されている。
番組は戦犯が実際に残虐行為をしたという事実調査はまったく行わず、彼らがただ苦しい戦場から生還したのに、かわいそうだとし、頭から冤罪と決め付けて、無実の罪から助かった事だけをどぎつく演出している。戦犯たちが戦時中何をしたか、また終戦時フィリピン山中に篭ってただ米軍から逃げていただけであった事はまったく言及していない。
 戦犯はフィリピン大統領(キリノ氏)の家族を日本軍に殺された個人的恨みから突如処刑されたとし、死に恐怖し泣き叫ぶ元日本兵を歴史上もっともどぎつく演出している。収容所の様子は教戒師(加賀尾秀忍氏)の体験からドラマ化しているが客観的ではない。
 渡辺はま子がなぜ戦犯に関心を持ったか、歌「モンテンルパに夜はふけて」が日本でなぜヒットしたかの細かい説明はなく、ただ渡辺はま子が突如戦犯の作った歌を歌いだし、釈放するよう運動したとのみ強調する。また渡辺はま子が戦時中は「支那の夜」などの戦争協力歌謡を歌い、大ヒットしたことは述べるがその意味を問おうとしていない。強調しているのは日本兵は何も悪いことをしていないのに死刑になりそうになり、歌で救われたという事であり、歴史の経緯よりも被害者としての感傷である。

結果として多くの戦争ドラマの中でも、もっとも歴史修正主義的、右翼的な色彩が強いものとなっている。
脚本家:末谷真澄→1951年生まれ、本ドラマの原作はない、フジテレビの取材と企画に基づいて作劇のみ担当したと思われる。(参考作:なでしこ隊 〜少女達だけが見た“特攻隊”封印された23日間〜 (2008) 脚本、硫黄島戦場の郵便配達〜 (2006) 脚本)

歌「モンテンルパの夜は更けて」:作詞の代田銀太郎は長野県出身の元大尉、作曲の伊藤正康は愛知県出身の元大尉で、ともに死刑判決を受けていたが、生きて帰国した。問題の歌曲自体は素人の作曲らしくあまり面白くないし、印象的でない。ドラマ内でもあまり印象的には使われていない。

事実経緯

1945年8月:敗戦
1946年〜1947年?:マニラ軍事法廷・フィリピン軍事法廷開催
1952年1月:渡辺はま子は来日したフィリピンの国会議員ピオ・デュラン氏から、モンテンルパ刑務所には、多数の元日本兵が収監されており、すでに14人が処刑されたと渡辺はま子は聞く。処刑はキリノ大統領の命令による?
1952年6月:渡辺はま子の自宅に刑務所から歌詞と楽曲を書いた手紙がとどく
 1952年7月22日:映画「モンテンルパ望郷の歌」大映配給 監督:村田武雄
1952年9月:ビクターレコードに持ち込み、レコード化。大ヒット。
 1952年10月9日:映画「モンテンルパの夜は更けて」新東宝配給 監督:青柳信雄 脚本:八住利雄
1952年12月25日:渡辺はま子モンテンルパ刑務所訪問。59人の死刑囚を含む109人の戦犯の前で歌唱。
1953年:教誨師加賀尾秀忍がキリノ大統領と面会、その際レコードを聞かせる
1953年:エルピディオ・キリノ大統領の特赦により戦犯の日本への移管を許可
1953年7月22日:戦犯、日本へ帰国。

番組HPより抜粋

<番組の戦犯裁判への見方>

戦慄の復讐裁判 2009年09月07日(月) 08:00
元死刑囚・中俣冨三郎さん(86)は、自らが体験したフィリピン裁判について、
克明に語って下さいました。「あれは完全に復讐裁判ですよ。検察が連れてきた見たこともない女性に突然『この男が父の首を斬った』と指を差されました。私はその事件現場にはいなかったにも拘らず、絞首刑の判決が下されたのです。」いいかげんな証言であっても、フィリピン人に指差しされたら最後。反論の余地なく、死刑が確定したそうです。その瞬間から、中俣さんは死への恐怖に脅える獄中生活を強いられたのです。

<あらすじ>

平成21年9月4日、昭和26年(1951年)1月19日深夜──元日本兵の一斉処刑が秘密裏に行われた。家族はおろか、日本政府にも知らされることなく行われた極秘死刑。異国の地の死刑台に虚しく響いた祖国に見捨てられた男たちの無念の叫び──それは、焼け野原からの復興に沸く日本には届かなかった。

戦前・戦中と数々のヒット曲を放つ国民的人気歌手・渡辺はま子薬師丸ひろ子)がトリをつとめた「第一回の紅白歌合戦」が開催されたのも、この頃のことだった。日中戦争からはじまり、太平洋戦争、そして全世界へと拡大した第二次世界大戦。10年近くにも及んだ戦いについに敗れ、絶望の焦土と化した日本は、数年の歳月を経て、戦中・終戦直後の飢餓から少しずつ抜け出そうとしていた。あの忌まわしい戦争の記憶を遠い過去に押しやり、人々は生きる希望をやっと取り戻しはじめていたのだ。

しかし渡辺はま子は、華やぎを取り戻した芸能界に身を置きつつも、心の奥底に暗い影を落としていた戦争の傷跡から目を逸らすことが出来ずにいた。子供の頃からの夢が叶い、歌手となったはま子を待ち受けていたのは戦争だった。従軍歌手として歌を武器にして共に闘ったはま子は、万歳三唱で戦地へと送り出した兵士たちを、忘れることができなかった。その後悔の念から、はま子は戦後、歌手活動も顧みず、傷病兵収容所や巣鴨刑務所に慰問に訪れていた。

そんなある日、はま子は慰問先でフィリピンの刑務所で行われた元日本兵の一斉処刑を知らされる。わずか10センチほどの小さな記事でしか世間に伝えられなかった14人の非業の死。その真実を知るために、はま子は復員局のフィリピン担当の元に足を運んだ。終戦後7年が経ち、すでに復員局はかなり規模を縮小していた。そんな中、たった一人のフィリピン担当・植木信吉(成宮寛貴)は、はま子に驚くべき事実を告げる。

フィリピンのモンテンルパにある刑務所には、戦犯として死刑囚となった元日本兵が108人も投獄されている。しかも彼らの多くが、証人として名乗り出たフィリピン人に「コイツが犯人だ」と指さされ、詳しく事実関係を調べることも無く有罪、死刑となったというのだ。さらには、そんな過酷な状況にあっても、日本政府が手を差し伸べることはなく、遠い南の異国の地で、彼らは孤独な戦いを強いられているという。しかし、そんな彼らについてほとんどが知られておらず、手がかりは植木がたった一人で調べ上げた囚人たちの名簿「命のリスト」だけだった。祖国のために戦い、その末に祖国に見捨てられた男たち──。
たった10センチほどの新聞記事でしか取り上げられなかった声無き14人の死──。

せめて、弔いの言葉だけでもかけて差し上げたい……はま子は、モンテンルパへの刑務所宛に筆をとった。はま子の手紙に応えたのは、モンテンルパの刑務所で、教誨師を務める加賀尾秀忍(小日向文世)。加賀尾もまた、3年前の昭和24年、モンテンルパの囚人たちの悲惨な状況を知り、命がけで反日意識強いフィリピンに渡ったのだった。加賀尾を迎えたのは、生気ない、すさんだ眼差しの囚人達……彼らは、万歳三唱で日本から送り出されたにも関わらず、激戦の中、ライフラインをたたれ、敗走し、さらには、戦後、祖国日本から見放された人々だったのだ。

しかも、加賀尾が来る前に行なわれた処刑で亡くなった3人の遺骨は、淋しい死刑台の前に造作なく埋められていた。死んでも尚、帰れない──囚人達が生きる望みも失い、孤独の中、諦めていたのは当然のことだった。彼らは、戦争犯罪人という名のもとに、日本人に対するフィリピン人の恨みを全て負わされている。彼らだけが、あの戦争の責任を取らされるのはおかしい。同じ時代に生きた自分が見てみぬふりは出来ない。
そう思った加賀尾は、囚人たちと同じように独房で生活すると決意する。
それは、見捨てられたと感じ、絶望していた囚人たちに、一筋の希望の光をもたらしてくれた。

囚人たちと共に暮らすうちに加賀尾は、囚人たちのもう一つの姿を知る。日本の家族に思いを馳せる父親としての姿……前川治助(萩原聖人)は、独房の窓から見上げる空に3人の子供と妻・邦子(中嶋朋子)を思った。妻・初代(田畑智子)と子供たちに、すぐ帰ってくると言い残してきた衛藤利武(伊嵜充則)は、一枚の家族写真だけを心の支えに生きていた。

しかし、その日は突然にやってきた。昭和26年1月19日 夜6時──14人の死刑囚たちの予告なき一斉処刑が始まったのだ。死刑台に響く、家族の名を呼ぶ衛藤の最期の声。
加賀尾はどうする事も出来ず、ただ祈り続けることしか出来なかった。14人の壮絶な最期の真実を知ったはま子は、亡くなった彼らのために何かできないかと模索し始めるが………。

歌姫・渡辺はま子さんの半生ドラマ化(2009年8月19日 東京新聞

 第二次世界大戦中から戦後にかけて活躍した昭和の歌姫・渡辺はま子さん(1999年12月、89歳で死去)。彼女が歌い大ヒットした「あゝモンテンルパの夜は更けて」に込められた思いと、その半生を描いたフジテレビのドキュメンタリードラマ「戦場のメロディ 〜108人の日本人兵士の命を救った奇跡の歌〜(仮)」が、九月十二日午後九時から放送される。「なぜ歌手が戦犯を救ったのか」。素朴な疑問から取材を始めたという同局報道番組部の成田一樹プロデューサーに話を聞いた。 (高橋知子

 「昭和二十八年、フィリピンの刑務所に収容されていた元日本兵死刑囚百八人が、奇跡の生還を果たした。そこには、昭和を代表する歌手・渡辺はま子さんがいて、歌が救出のきっかけになったと知って取材を始めた」と成田さん。はま子さんは「蘇州夜曲」「支那の夜」など戦前〜戦後にかけて活躍。従軍歌手として戦地で慰問を続け、第一回紅白歌合戦のトリを務めた。戦後も独自に、元日本兵や遺族の慰問を続けていたという。
 そんな中、はま子さんは、戦後七年を過ぎてもフィリピン・モンテンルパ刑務所に百人以上の元日本兵戦争犯罪人として収容され、死刑執行を待っていると知る。国交がなく、日本政府も救出の手だてがない。そこで、国に見放された彼らと手紙をやりとりして励まし続けた。故郷や家族への思いを切々と歌い上げる「あゝモンテンルパの夜は更けて」の作詞と作曲は、収容されていたうちの二人が手掛けた。収容者全員の思いを代弁し、はま子さんに託したものだ。「はま子さんは戦後、自身について多くを語らない人だったので、横浜にいるご遺族の協力をいただき、日記や戦犯の方たちとの手紙など、彼女が残した記録を一つ一つ拾い上げる形で番組化を進めた」と成田さん。彼女が残した手紙は数百通。すべてを読み込み、手紙をやりとりした戦犯やその遺族など、七十人以上に取材した。刑務所の現在の様子や遺族のインタビューなどは、ドキュメンタリーとして番組に盛り込んだ。
     ◇
 「あゝモンテンルパの夜は更けて」をはま子さんが歌うことで、モンテンルパに捕らわれた戦犯の存在が広く知られることとなり、最終的にこの歌に胸を打たれた当時のフィリピン大統領が未来に禍根を残さないために釈放を決める。「大統領に決断を促したのは歌だった。歌が外交さえも変える。その力が伝われば」と成田さん。はま子さん役の薬師丸ひろ子は、一カ月間歌のレッスンを積み、収録に臨んだ。この時代独特の節回しは難しかったそうだが「戦犯の方の“和へのあこがれ”を感じながら歌った」とか。「一つの音楽が大統領の気持ちを動かし、大勢の命を救ったことに感動した。その感動がみなさんにも伝わったら」
 はま子さんは生前「歌は三分間のドラマだ」という言葉を残した。三分間のドラマで人がほほ笑んだり泣いたりする。三分の自分の歌で希望が見えるなら、それが戦地でも慰問でも、私はどこへでも行く、と。激動の時代にほんろうされたはま子さん。しかし、成田さんは「傷ついた人、残された人と向き合ったはま子さんの姿は、現代にも通じるメッセージたり得る」と話している。


<ドラマのあらすじ>
 渡辺はま子薬師丸ひろ子)は、戦後七年が経過したある日、フィリピンの国会議員から、フィリピン・モンテンルパ刑務所で十四人の日本人戦犯が処刑され、残り百八人の日本兵も処刑される可能性があると聞く。彼らを救出する手だてはないかと奔走するはま子。その時、政府の復員局では植木信吉(成宮寛貴)が、モンテンルパでは教誨師(きょうかいし)の加賀尾秀忍(小日向文世)が、それぞれの立場で救出に尽力していた。