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『世界の中の日本』第10章「メディアの風景」(1)〜(11)

1.戦争と日本のメディア

「4時半に大きな余震がある」(2008年5月に成都での大地震の際にインターネットで流布したデマ)

1991年の湾岸戦争、2001年のアフガン戦争、そして2003年のイラク戦争イスラム世界での戦争の報道を、テレビやラジオのスタジオの内側からコメンテーターとして見る機会に恵まれた。スタジオにいて不思議な事実に気がつかされた。それは日本の大手のメディアは、自社の社員を戦地には派遣しないという事実である。例外はイラク戦争の際に米軍の部隊に同行した社員くらいである。

1982年のイスラエル軍レバノン侵攻の際には、同軍に包囲され砲撃を受けていたベイルートから日本の大手メディアの特派員たちはニュースを送り続けた。また1980年〜1988年のイラン・イラク戦争の末期、イラク軍のミサイルの多数落下するイランの首都テヘランからも日本の特派員たちはニュースを配信し続けた。まさに戦場へ危険を承知で特別に派遣された「特派」された記者たちの頑張りであった。しかし、現在では大手の記者は戦地には行かない。戦場には姿を見せなくなった。この背景には管理職が部下を危険にさらすのを嫌うという傾向がある。またメディアの労働組合の要求もあるだろう。

それでは、誰が現地から報道するのだろうか。それはフリーのジャーナリストである。フリーというのは、大手メディアに属していないという意味である。内実はともかく、以下のような形式になっている。テレビ局の依頼で戦場にフリーの記者が行くのではない。個人の自由な意志で戦場に赴くフリーのジャーナリストと、たまたま大手のメディアが契約を結び、現地からの報道を依頼するとの形式である。もし仮に不幸にも、こうしたジャーナリストが死傷するような事件が発生しても、大手メディアには何の関係もないという状況が作り出されている。事実2004年5月にイラクで殺害されたジャーナリストの橋田信介さんはフリーの方であった。これを大手とフリーのジャーナリストの分業として積極的に評価するか、あるいは大手のメディア企業の社員のジャーナリストとしての義務の放棄とみるかは意見が分かれよう。

どの大手メディアも社員を戦地には派遣しないのであるから、他の大手に出し抜かれる心配はない。報道の自己規制の協定が日本の大手メディア間で成立している。 これは、たとえばイラク戦争で戦争当事国であるアメリカのCNN(Cable News Network)やイギリスのBBC(British Broadcasting Corporation 英国放送協会)の特派員がバグダッドから報道を続けたのとは対照的である。あるいはアラビア語の衛星放送のアルジャジーライラクからの報道で何人もの殉職者を出したのとは、昼と夜ほどのコントラストをなしている。湾岸戦争イラク戦争、戦争の当事者であるアメリカやイギリスのメディアが現地から直接に報道しているのに、日本のメディアは外国の報道やフリーのジャーナリストの報告の解説という二番煎じを提供しているという事態は余りに「日本的」であった。

競争を自己規制する姿勢は、戦争報道に限られない。大手メディアと官庁などは記者クラブを維持しており、政府関連のニュースは、この記者クラブを通じて報道される。となると、このクラブに加入しなければ、取材もままならない。だが、記者クラブへの加入には既存のメンバーの同意が必要である

しかも共同通信からのニュースの配信も、共同通信の株主である既存の新聞社が反対すれば、受けられない仕組みとなっている。というのは名前の通り共同通信は、既存のメディアが共同で運営しているからである。2009年2月に確認した同社のホーム・ページの表現によれば「日本のマスメディアで中枢の役割を担う共同通信社は、真実、公正な報道活動ができるよう、1945年の設立以来、全国の新聞社、NHKが協力して維持する社団法人組織として運営されています」。と言う事は、日本のメディア業界では新規の参入が極めて困難である。
さらに日本のテレビ業界と新聞社とは強い人的な資本的な関係にある。系列化されている。全国的なネットワーク(放送網)を持っているのは、NHK日本放送協会)を除くと、全て新聞社系列である。『読売新聞』と日本テレビ、『毎日新聞』とTBS、『産経新聞』とフジテレビ、『朝日新聞』とテレビ朝日、そして『日本経済新聞』とテレビ東京である。またラジオ各局においても系列化が進行している。

協調関係はニュースの取材と報道に留まらず、販売にまで及んでいる。『産経新聞』、『朝日新聞』、『読売新聞』、『毎日新聞』、『日本経済新聞』の五紙で見ると、2009年1月の段階では、『産経新聞』が一番安くて朝刊紙のみで一ヶ月の購読料が2,950円、一番高いのが『日本経済新聞』4,383円である。『朝日新聞』が朝夕刊込みで3,925円、『読売新聞』と『毎日新聞』も一円台まで同じ値段である。それぞれの新聞の販売部数も広告収入も違う。それなのに、この三紙は、まったく同じ値段である。偶然では説明しづらい現象である。こうしてニュースの取材、報道、販売において大手メディアの間で余りにも密接な協調関係が成立している。

この協調関係に問題があるだろうか。制度的に報道の幅が狭められている点が問題である。たとえば建設業界で談合が発覚すれば、マスメディアにより批判される。しかし、新聞料金が一斉に値上げされた場合に、これが大手のメディアによって大きく取り上げられた例を知らない。テレビやラジオでさえ、この点に関しては口数が少ない。新聞社と密接な関係ゆえではないだろうか。テレビと新聞が、それぞれの独自性と独立性を発揮すれば、より広がるであろう報道の幅は、系列化により、明らかに狭まれている。付言すれば新聞は、定価販売を義務付ける再販制度(再販売価格維持制度)において対象商品に指定されており、新聞社の行為は違法ではない。

しかし、この制度と慣行に関する議論があってしかるべきである。だが、大手のメディアは、この問題を黙殺している。せいぜい週刊誌が批判する程度である。報道の自由が民主主義の前提であるとすれば、この問題のように制度的に報道の幅が狭められているというのは、その前提を脅かすのではないだろうか。となると、大手メディア以外による報道にも、ニュースの消費者である市民が目を向け耳を澄ましておく必要がないだろうか。しかし、そんなことが一般の市民に可能だろうか。


2.衛星テレビ

だが限られた数の大手メディアが報道において圧倒的な影響力を持つという事態に変化が起きている。変化の風は、いくつもの方向から吹いている。その一つが既に言及したCNNのような衛星テレビの登場である。これによってテレビの影響力は国境を越えるようになった。国境を越える映像は、国際政治に大きな影響を与えるようになった。衛星テレビの場合は、大気圏外の静止衛星経由でさまざまな情報を載せた電波が地上に降り注いでいる。それまでのテレビが地上のネットワークを通じて一つの国を対象としていたのに比べると衛星テレビの放送は、一つの大陸を市場としている。

ただ、そのネットワークの構築と運営には莫大な資本投資が必要とされた。さらに番組制作能力を含む技術力も不可欠である。そのため必要な資本と技術を有する一握りの集団がこの分野で寡占的な支配力を確立した。その代表がアメリカのCNNであり、イギリスのBBCである。CNNは、衛星放送、ケーブル・テレビ、24時間放送、ニュース専門局という四つの要素を結びつけることで成立した。アメリカでは1970年代からケーブル・テレビの拡大が進み、テレビの多チャンネル化が進行していた。過半数の家庭にケーブル・テレビが入り込んでいる。したがって各地のケーブル・テレビ局に衛星によって同時に番組を提供すれば、地上波と呼ばれる既存のネットワークに対抗できる放送網ができる。とCNNの創始者テッド・ターナーは考えた。しかも、これまでラジオにしかなかったニュース専門の24時間放送というアイデアを結びつけた。

1980年にCNNが放送を開始した。国際政治の大事件が起こるたびに視聴者が増大した。事件は時間を選ばずに発生するからである。1989年の天安門事件ベルリンの壁の崩壊、そして湾岸危機と湾岸戦争などがCNNの視聴者を急増させた。

放送という言葉は英語ではブロード・キャスティングである。ブロードは幅が広いという意味であり、キャストとは投げるを意味する。つまり、なるべく多くの人に視聴してもらうために放送するのが、放送の本来の使命だろうか。不特定多数が対象である。衛星テレビの出現は、対象をさらに広げた。

同時に逆の現象も起こっている。不特定多数ではなく、特定少数の視聴者のみを対象とした放送も始まっている。ブロード・キャスティングではなく、ナロー(狭い)キャスティングである。チャンネル数が、局数が増えれば増えるほど放送の内容は多様化できる。放送コストが低下すれば多数を対象としなくても経営が成り立つ。機材の価格の低下と機能の改善により、一人のジャーナリストが取材、撮影、編集、ナレーションの全てをこなすような状況が発生している。それが、ナロー・キャスティングの拡大を後押ししている。

その例の一つがコミュニティ・テレビであろうか。地域の話題を取り上げ、地域に向けて放送するという形態が普及しつつある。ケーブル・テレビを利用したコミュニティのコミュニティによるコミュニティのためのメディアが普及し始めている21世紀初頭のメディアの風景の特徴は、ブロードとナローの二つの方向へ展開だろうか。


3.「古い」ニュー・メディア

ニュー・メディアと呼ばれる媒体の一つにフリー・ペーパーがある。発行者は、広告収入でのみ利益を上げる仕組みとなっている。読者からはお金を取らない。アメリカの大都市でスターバックスなどのコーヒー・ショップに置かれるようになったのが、その走りであろうか。2006年秋にアメリカの首都ワシントンの商店で筆者は二種類のフリー・ペーパーを入手した。その一つは、タブロイド・サイズで、つまり普通の新聞の半分のサイズで大半が広告とはいえ実に136ページもある。日本でも今世紀に入ってからフリー・ペーパーを目にする機会が増えた。各戸に無料で配布される新聞はあったが、繁華街など人の集まる場所で配布されるようになったのは新しい。

英語のフリー(free)には、「自由な」と「無料の」という二つの意味がある。フリー・ペーパーの場合のフリーは「無料の」意味であろう。だが同時に既存の大手メディアから「自由な」のも事実である。家庭で伝統的な新聞を取らない読まない層が増えている。こうした層が、そもそもの対象だろうか。最初は芸能やスポーツのニュースのみであった。しかし、その後は硬いニュースも掲載するフリー・ペーパーも出てきた。読んでみると、限られた字数で良くまとめてある記事もある。

たとえばリクルート社の『R25(アールニジュウゴ』である。団塊ジュニア世代つまり「25歳以上のオトコの情熱誌」が謳い文句である。同社の2004年11月の日付にある広告主用の企画書によれば、首都圏の駅やコンビニなど4700箇所で毎週木曜日に60万部が配布されている。自分の店の前がその置き場となっている経営者の話しを聞くと、新しい号が来るとたちまちなくなると言う。人気があるのだろう。実は放送大学も学生募集の広告を載せこともある。発行元のリクルート社は、伝統的にはメディア企業としては分類されていない。人材募集などで知られた会社である。この『R25』に国際門出に関して取材を受けた経験がある。さすがにフリー・ペーパーだけあって取材謝礼も無料であった。情報提供者の著書名を載せて紹介してくれるのが謝礼の代わりのようだ。


4.ラジオ

古いメディアにはまだまだ力が隠されている。たとえばラジオである。アメリカの都市では、本当に何百という数のラジオ局が存在する。ニュースのみを24時間放送する局もあれば、ジャズばかりを放送する局もある。様々な言語でエスニック・グループに向けた放送もある。大学が、そのスポーツ・チームの対抗戦を放送するラジオ局をもっている。

ラジオ局の比較的少なかった日本でも、新しい動きがある。1996年1月の阪神淡路大震災の際に外国人向けの情報提供が十分でなかったとの反省から、日本に在住する外国人を意識した放送局も開局されている。一例として関西の財界44社が共同出資で同年7月に設立したインターメディア社が経営するFM COCOLO(ココロ) がある。大阪市住之江区南港の世界貿易センタービルの3階に位置するFMココロは、大震災から9ヵ月後の1996年10月に放送を開始した。日本で初めての多言語のラジオ放送局である。日本語のみならず、英語、スペイン語、中国語、ポルトガル語などの13ヶ国語で放送している。

これまで世界各地の災害について現地語で放送して、関西に在住する災害発生地の出身者に貴重な情報を提供してきている。たとえば2008年5月の中国の四川大地震の際などである。

またインターネットでラジオを配信する動きもある。放送大学でも一部の科目のインターネット配信を始めている。地方出身者が東京で出身地のラジオを聞ける状況が起こりつつある。また故郷のラジオを世界のどこでも楽しめる時代が来ている。ラジオというメディアは、新しい展開を見せている。このように、古いメディアが、様々な新しい形で社会に影響を与えつつある。ニュー・メディアにはニューでないメディアがあるわけだ。古いニュー・メディアである。既に触れた フリー・ペーパーは、新聞あるいは週刊誌という紙媒体である点においては、ニューではない。古い既存のメディアと同じである。しかし、広告収入だけに依存して無料で配布する点は新しい。また、その発行元の多くが既存の大手メディア企業ではない。この点でも目新しい。


5.インターネット

古いメディアの新しい形態ではなく、全く新しいメディアもある。たとえばインターネットでのテレビ映像の配信が始まっている。これを一部ではパソコン・テレビと呼ぶ。日本では一番視聴者の多いユーセンのパソコン・テレビのギャオ は2006年10月現在で1,100万人の登録者を誇っている。日本の総人口を1億2千万とすると日本人の1割弱が潜在的な視聴者である。だがギャオは独自の取材による独自の報道に特化したメディアではない。その主流は娯楽である。

しかし独自の報道機関として活動しているメディアもある。アメリカではデモクラシー・ナウ という放送局がある。インターネットにより全世界にニュースを発信している。そのニュースを日本語に翻訳する組織 も立ち上がっている。世界各地に散在するボランティアたちが、ネットでつながって翻訳作業を支えている。

また日本発でネットでインタビュー番組などを配信しているビデオニュース・ドットコム という会社がある。同社の謳い文句は「日本初のニュース専門インターネット放送局」である。日本初であるし日本発である。筆者はテレビやラジオで数多くのインタビューを受けたが、ビデオ・ニュースのインタビューの経験は新鮮であった。通常はインタビューにおいて重要な考慮は時間である。ところが、このニュースでは、時間に関係なく好きなだけ喋っても良いとうことであった。インターネットで配信するので、視聴者も好きなだけ付き合えばよいからである。時間の考慮が希薄なインタビューという不思議な体験であった。

インターネットを通じて比較的に簡単に世界のメディアに触れられるようになった。もちろん外国語という壁は越えなければならない。しかし、これとて翻訳ソフトの発達により、部分的にしろ日本語だけでも接近が可能になった。このようにインターネットの普及は、メディアの風景を一変させた。ネットによって、個人でも世界に向けて意見を発表できる。ネットを通じて、映像番組の配信と受信が可能である。


6.揺らぐメディア帝国

新聞を購読しない、そしてテレビよりもインターネットを見るという層は確実に増えている。若い層になればなるほど、その傾向は強い。2008年末、都内の有名私立大学で教壇に立っている方のお話を聞いた。「朝日新聞」の元記者の方である。その方によると新聞を購読している大学生は20人に1人程度だという。

新聞配達の制度は着実に崩れつつある。ネットでニュースが読める時代に、わざわざ毎月何千円ものお金を出して新聞を読むというのは、かなりの人々にとっては、過去の習慣になりつつある。そもそも有料の新聞は読者の支払う購読料とスポンサーの支払う広告料で経営が成立している。フリー・ペーパーは、購読料という部分を切り捨てて経営を成立させている。フリー・ペーパーやインターネットでニュースに触れるので新聞を買わないという層が増大すれば、伝統的な新聞は経営的な苦境に追い込まれるだろう。

これが巨大メディアの帝国を足元から脅かしている。インターネットの広告収入は増大しテレビや新聞の広告収入は減少している。フリー・ペーパーなどの影響力の拡大は、既存の新聞の経営基盤を脅かしている。新聞の影響力が弱くなれば、広告主は広告支出を他のメディアに振り向ける。そして経営が苦しくなれば、人員整理が起こるという構図である。既に欧米ではジャーナリストを大量に解雇した新聞社や、新聞紙の発行そのものを停止し、ネットによる情報提供に特化した「新聞社」さえ存在する。

伝統的にクオリティ・ペーパー(高級な新聞)として知られた『クリスチャン・サイエンス・モニター』が2009年に紙媒体での発行を停止すると報道された。100年以上の歴史を持つ老舗の新聞社の事実上の廃業である。やはり高級紙の「」ロサンジェルス・タイムズ』が社員の大量解雇を行っている。ニュー・メディアの挑戦が既存の新聞社の経営にも影響を及ぼし始めている。2008年末には『朝日新聞』が大幅な赤字を出したとの報道が流れた。広告収入がインターネットに流れているのが、赤字の最大の要因のようである。

こうした状況を受けて、2007年に『朝日新聞』と『読売新聞』が販売網の統廃合と共同利用を話し合っているとの報道が流れた。メディアの風景は大きく変わった。そして、さらに変わるだろう。


7.新しい課題

しかし、新しい事態は、新しい課題を突きつけている。たとえば大半のフリー・ペーパーは、比較的に少数の人々により編集されている。ということは、長い時間をかけて一つのテーマを調査し、深い分析を読者に提示する。そうした機能は、強くないのが普通である。となると真剣なジャーナリズムは望みにくくなる。


日本の大手メディアは高給で知られていたが、経営が苦しくなり、給与が低下すれば、優秀なジャーナリストの育成と雇用が難しくなるだろう。そして、それがジャーナリストの資質に、さらには報道の水準に跳ね返ってくるだろう。真剣なジャーナリズムをニュー・メディアの時代にどうやって確保するかは大きな課題である。


ニュー・メディアのもたらした新しい課題を、もう一つ紹介しよう。インターネットで多様な情報が提示されている。しかし、本当にそうした情報を信頼して良いのであろうか。ジャーナリストとしての訓練を受けていない個人が、薄弱な根拠で、思い込みだけで、あるいは悪意で情報を発信して世間を混乱させる場合はないだろうか。


2008年5月に筆者は中国の成都市で地震に遭遇した。この際にデマが街に広がった。たとえば、地震の起きた日の午後4時半に大きな余震があるとの噂があった。実際には、小さな余震は何度もあったが、午後4時半に大きな揺れは起こらなかった。


また水道が止まるとの「情報」が流れ人々がミネラル・ウォーターを買い求める事態が起こった。しかし実際には水道は止まらなかった。いずれも、こうしたデマの発生源はインターネットであったと言う。インターネット上の偽りの「情報」の発信が人々を惑わせた。インターネット上に行き交う無数の情報のうちで、どれが信頼に値するのか判断が難しい。インターネットが生み出した情報の洪水は、既存のメディア帝国を押し流す勢いである。メディアの風景を変えた。しかし洪水の生み出した新しい風景の中では、個人の判断力がこれまで以上に厳しく試されている。


*本章の一部は、以下の議論を発展させたものである。
高橋和夫「秩序の形成と変動(3)メディアと社会」、天川晃(他)編著「市民と社会を考えるために」(放送大学教育振興会、2007年)、47〜58ページ

−−参考文献−−

高橋和夫『現代の国際政治/9月11日後の世界』(放送大学教育振興会、2008年)
高橋和夫『国際政治/9月11日後の世界』(放送大学教育振興会、2004年)
高橋和夫『国際政治/新しい世界像を求めて』(放送大学教育振興会、2000年)
柏倉 康夫(他)『日本のマスメディア』(放送大学教育振興会 2007年)
平塚千尋(他)編著『パブリック・アクセス―市民が作るメディア』(リベルタ出版、1998年)
船津衛、浅川達人(著)『現代コミュニティ論』(放送大学教育振興会、2006年)
ヒュー・マイルズ(著)『アルジャジーラ 報道の戦争』(光文社、2005年)
ロバート・K・マートン(著)『大衆説得―マス・コミュニケーションの社会心理学』(桜楓社、1973年)
ダニエル・J・ブーアスティン(著)『幻影の時代―マスコミが製造する事実』(東京創元社、1974年)
E・カッツ、P・F・ラザースフェルド(著)『パーソナル・インフルエンス』(培風館、1965年)
J・T・クラッパー(著)『マス・コミュニケーションの効果』(日本放送協会、1966年)H・キャントリル(著)『火星からの侵入―パニックの社会心理学』(川島書店、1985年) ウオルター・リップマン(著)『世論』上下(岩波書店、1987年)
鷲見朗子『初歩のアラビア語/アラブ・イスラーム文化への招待』(放送大学教育振興会、2006年)