zames_makiのブログ

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山田朗講演会 何が「田母神」を生み出したか〜自衛隊と歴史修正主義

講師:山田朗さん(明治大学教授、歴史学、近代日本軍事史
日時:2009年1月21日(水)
時間:午後6時半〜
会場:文京区民センター3階C(地下鉄・後楽園駅
参加費:700円(会員500円)
主催:国連・憲法問題研究会

旧・日本軍とは違うとして存在を正当化してきた自衛隊でなぜこのような人物がトップの座に着くことができたのか。背景には何があるのか。

山田朗(やまだあきら)。明治大学教授。日本近現代史軍事史天皇制論。自衛隊イラク派遣違憲名古屋訴訟の原告側証人として、航空自衛隊イラクでの活動実態が違憲・違法であることを証言。著書に『大元帥昭和天皇』(新日本出版社)、『軍備拡張の近代史―日本軍の膨張と崩壊』(吉川弘文館)、 『歴史修正主義の克服―ゆがめられた<戦争論>を問う』(高文研)、『昭和天皇の軍事思想と戦略』(校倉書房)、『護憲派のための軍事入門』(花伝社) 他

歴史修正主義」と何か(しんぶん赤旗2009年1月9日)

〈問い〉大江健三郎さんの『沖縄ノート』をめぐる訴訟の控訴審判決の記事で「さらに力を込めて歴史修正主義とたたかっていく」という言葉がありました。「歴史修正主義」とはどういうことをさすのですか?(兵庫・一読者)


〈答え〉「歴史修正主義」とは、一般に、侵略戦争や植民地支配、軍隊等による組織的残虐行為など、こんにち批判的な評価が定着している事象について評価を逆転させて支持・擁護する主張をさす用語です。

 もともとは、欧米で「ナチス・ドイツによるユダヤ人大量殺りく(ホロコースト)はでっちあげ」などと主張する論者が、自らをリビジョニスト(修正主義者)と名乗って活動していたことから、広く使われるようになったとされています。

 歴史学は、過去の事実を確定し、批判的に評価してそれを再構成する学問ですから、その通説が時代の変化や新たな史料の発見などによって「修正」されるのは当然のことです。しかし「歴史修正主義」は、それとは次元を異にするものです。

 日本では、1990年代後半以降、「新しい歴史教科書をつくる会」のように、日本が過去に起こした戦争を侵略戦争とする見方にたいして「自虐史観」と非難する勢力の動きが強まり、それが「日本版歴史修正主義」とよばれるようになりました。

 たとえば、1931年の中国東北部侵略戦争開始以後、日本が中国大陸や東南アジア・太平洋地域で起こした戦争を「自存自衛の戦争」「アジア解放のための戦争」として正当化する靖国神社などの歴史観は「歴史修正主義」の典型といえます。

 また、南京大虐殺はなかった」「『従軍慰安婦』の強制連行はなかった」といった議論や、沖縄戦訴訟での「軍の『集団自決』命令はなかった」という原告側の主張なども、それに該当するといえるでしょう。

 このように侵略戦争や組織的残虐行為への批判的評価を「修正」しようとする動きは、必ずしも日本だけの現象ではありません。ドイツでは、先にのべたように、極右勢力から「アウシュビッツのうそ」といった議論がくりかえし唱えられてきました。イタリアでも、第2次世界大戦下の反ファシズムレジスタンス闘争の意義を否定し、レジスタンスや憲法を詳述した学校教科書を「偏向」とする議論があります。

 しかし、こうした主張を公然と唱えてきた勢力が政権に参加した例は、一時期のオーストリアなどを除き、欧米ではほとんどありません。(土)

 〈参考〉歴史学研究会編『歴史における「修正主義」』(青木書店)、高橋哲哉『歴史/修正主義』(岩波書店)、山田朗歴史修正主義の克服』(高文研)

軍隊なしで国際紛争を解決する方法はあるのか?(しんぶん赤旗2008年12月20日

〈問い〉 志位和夫委員長の党創立86周年記念講演に「人類の英知によって、紛争を戦争にしないことはできる」とありますが、どういうことですか? 戦争と紛争の区別は何ですか?(愛媛・一読者)


〈答え〉 世界で起こる紛争にはさまざまな理由と背景があります。問題は、それをどう解決するかです。対話と交渉による平和的解決か、それとも武力によって決着をつけようとするのか。記念講演が強調しているのは、現代の世界には、武力を行使しないで紛争を解決する可能性があるという点です。

 実際、世界の武力紛争の様相は、1990年代以降大きく変化しています。世界の武力紛争の調査を続けているスウェーデンのウプサラ大学の研究では、90年代初めから04年の間に武力紛争はほぼ半減し、その後の3年間でもさらに減少し、全世界で06年現在残っている武力紛争は56件とされています。『広辞苑』では、戦争とは「武力による国家間の闘争」とされています。戦争と武力紛争との区別に厳密な定義といったものはありません。ただ、ウプサラ大学の研究では、小規模紛争(年間の死者が25人〜千人未満)、中規模紛争(紛争の全期間を通じて死者が千人超)、戦争(年間の死者が千人超)と、犠牲者の数で三つに区分しています。

 人類は、20世紀、二度の悲惨な世界戦争を経験するなかで、戦争を違法なものとする方向にすすんできました。現在の国際秩序の基礎となる国連憲章は、国連安全保障理事会が決定する集団安全保障としての軍事的措置と自衛のため以外の武力の行使を禁じています。近年、世界で広がる平和のための地域的共同の広がりは、紛争を戦争にしないで解決する大きな力となっています。欧州共同体(EU)では、もはやEU加盟国を侵略・占領して勢力を拡大しようというような脅威はない、という認識に立ち、直面しているのは、テロ、大量破壊兵器の拡散、地域紛争、破綻(はたん)国家、組織犯罪という「単なる軍事的手段では対処できない」脅威だとしています。

 しかし、日本の一部では、いまだに、日米軍事同盟が日本の安全の保障という主張がくり返されています。これは、平和と安定を脅かす問題をどう解決していくかではなく、20世紀の帝国主義の時代そのままに、軍事力で他の国々よりも優位に立つというものでしかありません。米国の軍事力に依存する国際秩序ではなく、21世紀の新たな脅威に対処する国際の平和秩序を世界は求めているのです。(村)


〈参考〉『前衛』08年10月号、森原公敏「地域共同の発展―21世紀の『脅威と平和秩序』」

三光作戦とは何?(しんぶん赤旗2008年12月3日)

日本軍がおこなった「三光作戦」とは?

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〈問い〉 「『三光』とは中国語なのだから、三光作戦など、そもそも存在しない」という人がいます。実際はどうだったのですか?(東京・一読者)


〈答え〉 戦前、中国への侵略戦争が長期持久戦に入ると、日本軍は華北において中国軍がおさえていた地域、とくに中国共産党が解放した抗日根拠地に対して掃討作戦を実施しました。万里の長城の南北500キロ以上に無人区」を設定、村を消滅させていったのです。そのあまりの残虐さから、中国では、これらを、焼光(焼き尽くし)、殺光(殺し尽くし)、搶光(奪い尽くし)した「三光作戦」と名付け、呼んだのです。
 日本軍はこれを「燼滅(じんめつ)掃討(燃えかすがなくなるまで徹底的に滅ぼす)作戦」と呼びました。日本軍の作戦名でないから、掃討作戦がなかったなどとは論外です。

 中国側は37〜45年の8年に7つの根拠地が受けた被害だけで「318万人が殺され、276万人が連れ去られ、1952万軒の家屋が焼かれ、5745万トンの食料、631万頭の耕作用家畜、4800万頭の豚・羊…が失われた」(『日本侵略軍在中国的暴行』軍事科学院外国軍事研究部編著)としています。

 作戦の実態は、被害を受けた中国の民衆や、元日本軍兵士のさまざまな証言があります。「侵略はなかった」という靖国派の人たちは、中国の調査はもちろん、日本軍兵士の証言も「中国の戦犯収容所で洗脳されたもの」などといって多くを否定するので、ここでは、昭和天皇の末弟・三笠宮崇仁(たかひと)の証言だけをあげます。

 三笠宮は「支那派遣軍総参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任したときに、日本軍の残虐行為を知らされました」「ごくわずかしか例があげられませんが、それはまことに氷山の一角にすぎないものとお考え下さい」と前置きし、書いています。

 「ある青年将校―私の陸士時代の同期生だったからショックも強かったのです―から、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる、と聞きました。また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿(きょう)の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかった、と語っていました」(『古代オリエント史と私』学生社、84年6月刊)華北における掃討作戦は、南京大虐殺七三一部隊、毒ガス使用とともに日本侵略軍の残虐さを象徴するものです。(喜)