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テレビの政治報道がどれだけジャーナリズムから遠いか

コイズミの新しい衣裳(石田英敬、雑誌『世界』2005年11月号、http://www.nulptyx.com/pub_koizumi.html)より抜粋
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(略)自立的な「ジャーナリズム」として、政治権力が設定しようとするトピックを批判し、真に社会にとって重要な論点とは何かを検証し、社会的現実を判断するためのイッシューを自ら抉り出そうというような姿勢は、現在のテレビには希薄である。

そもそも「ジャーナリズム」という考え方自体が、現在のテレビ界にとって、すでに「対抗理念」*1に属するといっても過言ではない。

今回の総選挙の報道に関して、およそ、「ジャーナリズム」としての本来の機能を果たし得ていたのは、筑紫哲也キャスターによるTBS番組「New23」の連続特集「コイズミ的を問う」のみであったといえる。

「報道」と「バラエティー」との間にバランスをとって、テレビにおける「報道番組」の準拠点となっていた、久米宏キャスターの「ニュース・ステーション」が終了し、今回の衆議院選挙の報道に関して言えば、後続番組「報道ステーション」では、スペクタクル政治と共振する古館キャスターのバトル・トークによって、ほとんどまともな論点検証の議論が成立しなかったことが、テレビ報道番組のバラエティー化の行方を象徴的に表している。


(略)田原総一郎の政治ショー番組「サンデープロジェクト」のように、政治界アジェンダをテレビ界のトピックへと書き換える入り口の役割を果たしている番組もあれば、
  たけしの「TVタックル」のような、政治的アリーナのグロテスクなショー化を担当している番組も存在している。だが、いずれも、
  テレビ的バラエティーの原理は、ステレオタイプにもとづいた単純化を促進する方向に向かい、モデレートな立場や、緻密な議論は置き去りにされる。話題性や物語性が、論理的妥当性や事実性よりも優位に立つ、スペクタクル政治の競り上げとジャーナリズムの融解現象を招いているのである。


(略)小選挙区制度は、「政治的諸課題」を「二進法化」することを可能にし、政治選択を「二進法アルゴリズム」に書き換えることを可能にしたのである。「郵政民営化」に賛成か反対か、という択一式によって二分化して処理すれば、政権党内のネオリベラル派と「守旧派」との間は整序される。反対する「割り切れない」勢力は、さらに別の二分法の前に立たせて整序していけばよい。同じ「ネオリベラリズムの演算式」によって、民主党内の組合勢力も整序することができる。


(略)どのような効果が生まれるだろうか。
(1)話題性=非政治化:「話題性」とは、「論点」を隠蔽する、政治的テーマである内容ではなく話題にしてしまう
(2)焦点化=盲目化:「シングル・イッシュー」化の論理
(3)論理力の後退:論理的文脈を伝えることが不得手。一般概念や抽象的論理はテレビカメラでは映し出すことができない。
(4)コミュニケーション資本:テレビにおいては、短いフレーズ、孤立した文脈しか映し出されず、カメラへの現前こそが証明であり、カメラの前で語ることができる「テレビ顔」がコミュニケーション資本である。

*1:自分たちはそれに従わないが、検討のために時として参照する考え方