zames_makiのブログ

はてなダイアリーより移行

シンポジウム「歴史和解のために」山室信一「真実と権利回復の要求」

基調報告:山室信一氏「真実と権利回復の要求」

山室でございます。日本側参加者の中では一番末輩なのですが、要するに露払いということで、前座の役割を果たさせていただきます。
時間もありませんのでスクリーンのほうに、話の中で触れております「歴史の可視化」、「記憶のモニュメント化」とかというものを示す写真を映していただきます。これは80年代以降、顕著になってくるわけでありますが、皆さんは東アジアのことはご存じだと思いますので、最初に出てくるのは日本のことが少しある以外は、あまり行かれたことがないと思われる東南アジア各地の、ミャンマーでありますとか、シンガポール、タイ、インドネシアのボルネオ、そういった場所で「記憶のモニュメント化」がどう進んでいったのかということを、映していただきますのでご覧ください。
さて、ただ今、お話がありましたように、このシンポジウム自体は2つの企画をもとにして始まったわけであります。今、ここから歴史という対象に、どういうふうに対処していくのかということに関する議論の場として設けられたわけであります。
そこでは、「向き合うべき歴史とは何なのか」という問題に関連して、「生きている歴史とは何なのか」、さらにまた、今という時点で「東アジアの150年」という空間の範域、さらに時間の幅で、議論の対象を設定することがなぜ要請されているのかということが、まず問題になってまいります。
これにつきましては、東アジア世界内の諸国家、諸民族がいかなる相互連関のもとに、それぞれの地域で国民国家を形成してきたのかということを明らかにするという課題とともに、その東アジア世界が他の外部世界といかなるかかわりを持ってきたのかということを現時点において、総体として問うということが問題になっているのだと思います。この「東アジアの150年の歴史」という中には、当然のことながら、さまざまな時間の層が重なっておりますし、それが現在にまで影響を及ぼし、大きな影を落としております。
そして、「歴史と向き合う」ということは、歴史学研究の成果を踏まえつつ、現在進行中の問題へ、その関心を、過去を省みながら今後のあり方を探るという意味ですから、当然、それは極めてアクチュアリティーを持った現在的な行為であります。その意味で、歴史は決して過ぎ去った過去を整理することではなくて、今を「生きている歴史」としてとらえることになります。このようなとらえ方を「歴史認識」とした上で、ここで考えてみたいと思います。
もちろん、こうした「歴史認識」というものについては、さまざまなアプローチが可能でしょうし、この後の討論の中でご批判いただきながら、それを深めていければいいと思いますが、時間が限られておりますので、私はこの150年というものを2つのグローバリゼーションの時代であり、しかも、その重なりの時代であったと考えて、そして、今をどうとらえるのかというように考えてみたいと思います。
●第1のグローバリゼーション
企画にありましたような、「東アジアの150年」という視野の起点となっておりますのは、言うまでもなく中国におけるアヘン戦争であり、その結果結ばれた1842年の南京条約ですね。ご存じのように、中国においては、このアヘン戦争が近代の起点とされているわけです。そして、南京条約に規定されておりました領事裁判権最恵国待遇、あるいは関税に関する協定などが、その後、日本をはじめとする東アジア世界と欧米各国とをつなぐ、いわば不平等条約体制につながっていきます。この不平等条約を解消するためには、主権国家としての確立が条件でありましたけれども、その主権国家となるためには、ご存じのように、いわゆる文明国標準というものに合致しなければなりませんでした。つまり、西洋化としての近代化というものを進めなければならなかったわけであります。
こうした文明国標準へ合致するというのは、日本の場合でありますと、「文明開化」という言葉が象徴的に示しておりますけれども、そういった欧米の文明への同化ということが国家目標となってきたわけです。つまり、アヘン戦争以降、現在に至るまでの世界の歴史というのは、主権国家という国家システム基準が地球上を覆っていく過程であったと言えます。これが第1のグローバリゼーションの時代であったわけであります。
この第1のグローバリゼーションにおける課題は、いま言いましたように、主権国家、あるいは国民国家としての確立でありましたけれども、南京条約の締結されました同じ年、1842年に刊行が始まりました、中国の魏源という人による『海国図志』という本がありまして、これは世界事情書でもあり、国防書でも軍事書でもあったわけですが、この本はすぐさま日本に輸入され、横井小楠佐久間象山、それから吉田松陰などに非常に大きな影響を与えまして、鎖国から開国へと国論を転換していく大きな契機となりました。このことは何を示しているかというと、東アジア世界がまさに同時性を持って連動し始めたことを意味しております。
そして、この第1のグローバリゼーションとしての主権国家の世界化という過程におきましては、その国民統合の主要なチャンネルとして、国語の統一といわゆる国史、一国の歴史というものの普及というものが図られてきたわけです。つまり、この第1のグローバリゼーションの中における国民国家形成のための歴史における対立というものが、実は今日、歴史問題となっているわけであります。
●第2のグローバリゼーション
マクロな視点で申し上げますと、こうした第1のグローバリゼーションが打ち立てた国境内の統合を最優先するためのシステムというものが、人、モノ、財の国境を越えた移動を規制する障害とみなし、この障害となるものを打ち破ろうとしているのが、現在進んでいる第2のグローバリゼーションとしての新自由主義型のグローバリゼーションであると考えられます。この第2のグローバリゼーションには、当然、さまざまな弊害が生じておりますし、経済格差や階層分化をはじめとして、社会的な亀裂を生んでおります。しかしながら、国民国家ができる以前、本来は自然であったはずの人と人とのつながりというものを強権的に国境によって断ち切ってきた主権国家の作為性といいますか、そういった歴史的なあり方が、交通・通信のシステムの発達の中で、もはや維持できなくなってきているという側面があることは、否むことはできません。
私たちが直面している歴史認識における和解という課題は、こうした2つのグローバリゼーションの流れの中にあることは否定できません。ただし、第2のグローバリゼーションという観点からだけで、20世紀から21世紀へ移行していった転換期に現れた事象を見ることは、やはり一面的であります。
なぜかと申しますと、この20世紀から21世紀への転換というのは、さらに2つの要因が重なっているからです。1つは1945年以降の戦後50年という時間の経過でありますし、もう1つは、冷戦の終結という事態であります。
●歴史の可視化
そして、戦後50年を迎えるに当たって、1980年後半から世界的現象としてあらわれたのが、記念碑や歴史的博物館の建設ラッシュなど、「歴史の可視化」です。目に見えるようにすること、あるいは「記憶のモニュメント化」という事態でありました。ヨーロッパにつきましては、アンドレス・ハイセンという人が、私たちは現在、「前例を見ない規模のメモリー・ブームを目撃している」というふうに証言しておりますけれども、スクリーンに映していただいておりますミャンマー、インド、タイ、シンガポール、マレーシア、インドネシア、フィリピン、モンゴルなど、この間、10年近く、アジア各地を歩きましたが、そこで起こっていましたことも、実は同じような事態でありました。旧日本軍の戦友会や遺族会などによる記念碑や慰霊碑、あるいは忠魂碑などの建設ラッシュというのも、同時期の東南アジアで起こっておりました。その中には、日本語が読めたら、どういう反応がされるだろうかと思われるものも少なくありませんでしたが、実際に破壊されたモニュメントもあったわけです。
いずれにいたしましても、こうした歴史的記念館などは泰緬鉄道に関する歴史的展示館や博物館などを含め、一種の観光資源としての役割も持っております。しかし、同時にそれが歴史についての情報や記憶を伝承するためのトポス(場所)として機能していることの重要性を見逃すことはできません。日本の中でも、各県の護国神社などの境内を見て回りますと、「大東亜聖戦大碑」などが続々と建てられたのも、この時期の特徴でした。おそらく、それらは兵隊として動員された人たちが人生の終焉を控えて、みずからの体験や記憶を後世に残し、同時に戦友への慰霊や鎮魂の意味で建てられたに違いないのでしょうけれども、いったん建てられたものは、長ければ数世紀にわたって残ることも、また事実であります。
また、この時期には、各地で戦争遺跡を保存したり、記録にとどめるという動きもありました。これらの事態は、歴史認識の世代間伝達という問題にもかかわってまいります。


他方、埋もれていた歴史というものを見直すためには史料の発掘が必要なのですが、やはり新しい史料が浮かび上がってくるためには、30年から50年の歳月の経過が必要です。1990年代に入りますと、第2次大戦から半世紀を経たことによって、史料的にも相対的な見直しが進みました。しかし、この時期は冷戦が終結したことによって、冷戦体制下で制限されていた過去の不正義への真実究明という要請と、それから被害者個人が権利回復要求というものをするということが出てまいりました。これも世界的に現れてきた現象であります。
●東アジアの民主化の進展
さらに、東アジアに着目いたしますと、中国では改革開放政策によりまして、史料の公開が本格化いたしました。私たちが満州国研究を中国の史料を使って進めることができたのも、まさにそうした幸運に恵まれたからでもありました。
また、台湾でも、権威主義体制、いわゆる威権統治というものから、民主開放への運動が進みましたし、1987年には戒厳令が解除されまして、ここに初めて党派的な立場から自由な歴史叙述が可能となったわけです。周先生のご本なども、その成果であります。
また、韓国におきましても、軍事政権下で光州事件などの悲劇を乗り越えて、民主化が進められていきました。80年代からは海外旅行が自由化されることによりまして、日本人と等身大での接触が始まりました。この時期、従来の「反日」一辺倒から「知日」や「克日」、日本を克服するという克日ですけれども、そういったスタンスが受け入れられるようになりました。他方、1988年のソウルオリンピックは、日本人の韓国認識が変わる契機ともなったわけであります。
こうして東アジア世界では、各地で民主化の動きが進行しておりましたが、ここに世界的な冷戦の終結という事態が重なることになります。
言うまでもなく、民主化の進展とは、国家の制約から離れて、個人が自由や権利を主張する領域が拡大していくことですが、歴史研究の取り組みにおきましても、従来の国家や民族に固定されていた基準からだけではなくて、人権という新たな視点が加えられることになりました。この点が後で挙げます歴史認識の共有基軸ともかかわってまいります。
そして、冷戦の終結は、それまで抑圧されておりました声の回復という事態をヨーロッパでも、そして東アジアにおいても呼び起こしました。冷戦体制下では、国家間、とりわけ同盟国家間の対立を防ぐことが最優先されたこともありまして、個人の侵害された権利は封殺されていたわけでありますけれども、冷戦中に凍結されていた被害者の声が噴出するに至ったわけであります。
1990年代には、日本の植民地統治や戦争における被害者が次々と証言と告発の声を上げ、60にも及ぶ戦後補償の提訴がなされました。特に1991年には、元従軍慰安婦でありました金学順さんが、日本国家の責任追及の主体として個人として、みずからの肉声をもって告発されましたけれども、このことは「想起と証言の時代」というものを象徴するものであり、一般社会にも、歴史研究にも衝撃を与えるものでありました。なぜなら、そこでは植民地統治下にあった「日本臣民」や「戦争被害者」という一般呼称ではなくて、固有名を持った一人の個人として証言や告発がなされたからであります。そのことは何よりも、歴史とは抽象化された国民によってつくられるのではなくて、個人の固有な名前と身体を持った具体的な存在の証明であるということを示すものでありました。
これを受けて、「従軍慰安婦」の記述が、1994年のすべての中学校の歴史教科書の検定を通りました。その一方で、この問題は同時に日本国民の一部に強い反発を生み、その削除を求める議案が300以上の地方議会に提出されましたけれども、可決したのは大体1割程度でした。そのことは、1993年8月の細川護煕首相によります「侵略戦争」発言とともに、この時期の日本人の歴史意識を反映したものでしたが、この「従軍慰安婦」の記述と細川発言への否定的な反応というものが、これはお配りいたしました略年表をごらんになるとわかりますけれども、自民党内で「歴史検討委員会」の設置となり、さらにその後、96年末の「新しい歴史教科書をつくる会」の結成につながっていったわけです。
こうした動向に対抗して、みずからの発意で過去を克服するための試みとして、国際的な教科書作成運動や共同研究が進展していきますけれども、これもほんの概略だけですが、年表をごらんいただくとわかります。
こうした一連の流れを見ますと、「新しい歴史教科書をつくる会」の意図がいかなるものであったかにかかわらず、それが契機となって、東アジア各国で「一国史」という自明の前提とされていたものを問い直し、解体し、再構築していくというネガティブな媒介になったというある種のアイロニーが浮かび上がってまいります。ただ、略年表をごらんになるとわかりますけれども、そういった国際研究や国際歴史教科書の進展とは逆に、日本国内の歴史教科書を見ますと、「従軍慰安婦」などの記述や沖縄での軍隊の行為などが次第に少なくなってきているという事実があることも、また見逃せないと思います。
こうした問題は、単に日韓関係や日中関係だけの問題にとどまりえない世界的な動きともかかわります。2001年に国連が主催いたしました「反人種主義・差別撤廃世界会議」において、韓国政府代表が「慰安婦」問題と教科書問題を「人種差別」として採り上げましたけれども、日本政府は、これに正式に回答することを拒否いたしましたし、植民地支配に対するアフリカやカリブ海諸国の追及に対しましては、アメリカなどとともに、補償や「人道に対する罪」を認めないという案の提案者の一人に日本はなったわけであります。
さて、1990年代以降のこの「抑圧されていた声の回復」という事態は、国家の殻を打ち破って、個々人の自由や権利が主張されたことを意味いたしますが、それは裏を返しますと、国家という殻に守られていた人がそこから投げ出されたということでもあります。そして、冷戦後に急速に進みましたグローバリゼーションによりまして、生活様式や文化というものが均質化し、それによってみずからの存在根拠というものを脅かされるということを感じる人々が、伝統や習俗の維持を求めて、いわゆる民族主義的な歴史を排他的に再構成しようとする動きも強まってまいります。日本に即して言えば、新自由主義グローバリゼーションによって経済格差の増大が生まれましたし、その危機感の救済のよりどころとして伝統的な国家のあり方にその救済を求めた側面があります。それは、同時に東アジアにおいて中国、韓国、台湾が経済的に台頭していく反面で、日本が停滞しているということへの不安、そして不満と相まちまして、排外的な主張につながっていきます。教育基本法「改正」における伝統や愛国心や郷土愛の強調などは、まさにそうしたものの現れの1つだと言えます。
もちろん、グローバリゼーションというものがもたらす弊害というものは、著しい経済格差や環境破壊などにとどまらず、少数民族語の消滅、文化破壊といった取り返しのつかない事態を日々生んでいることも事実でありますから、固有文化の維持という要求を全く無視することはできません。
●国際的なメディア環境の変化
他方、第2のグローバリゼーションによる国際的なメディア環境の変化というものは、歴史意識の表明という点でも非常に大きな意味を持ちました。それまではマスメディアなどによってしか知り得なかった国境の外の人々の意識や行動が、インターネットなどの個人が自由に使えるグローバル・メディアの普及によって察知できるようになりましたし、個人の意見表明が瞬時に世界的な波及力を持つようになりました。ただ、インターネットを通じて流れる歴史意識の多くは、匿名であることも手伝いまして、「情報共有のツール」であるはずのものが、「バッシングのツール」となっていることは言うまでもありませんし、それがまた、ポピュリスト・ナショナリズムといいますか、そういった思潮を東アジア世界に蔓延させることにもなっております。
もちろん、インターネットというものの効用というのは、例えば、日本における韓流や華流とか、それから中国や台湾における哈日族、つまり日本大好き族というものの出現、それから韓国における「ニッポンフィール(日本趣味)」などのポピュラーカルチャーや、生活用品の選好などにおきましても、いわば文化連関というものを引き起こす重要な機能を持っていることも見逃すことはできません。


ただ、ここで留意しておかなければならないのは、歴史意識の共有を図るということは、つまり同時代の歴史教科書を読むという機会のない学校を卒業した人たちにどういうような歴史研究の到達点を理解してもらえるか、ということです。しかし、率直に申しまして、専門分化いたしました現在の歴史研究の成果というものをお読みいただける層というものは、ほとんど限られております。私どもの歴史関係の専門研究所などは、多くの場合300部とか、500部程度しか、実は読まれていないのです。そういった講読数が実情であります。そのため、この局面におきましては、新聞をはじめとするマスメディアの果たす役割はますます重要性を増していると思います。
以上述べましたように、東アジアは第1のグローバリゼーションの中で、それぞれの国民国家の形成を目指しつつ、多少のタイムラグを伴いつつも同時性や連関性を持って動いてまいりました。第2のグローバリゼーションにおきましては、まさにリアルタイムで、しかも国家という枠を超えて、個々人のレベルで相互作用を起こす時代になっております。
そうした状況にあって、これからも生き続けていく歴史について、いかなる認識が必要なのかということが次に問題になります。この問題について考えるためには、まず歴史認識とは何かということを確定しておかなければなりません。
歴史認識とは何か
歴史認識という用語は非常に多義多様に使われておりますけれども、私はここで、「ただ過去の事実についての情報を持っているというにとどまらず、過去を知った上で、現状をどうとらえ、将来にいかなるビジョンを持つか、という認識である」というように規定したいと思います。それは日本を例にとりますと、日本人である個人みずからが、日本をどのような国家や国民として記憶されたいのか。さらに、いかなる社会として東アジア、さらには世界において存在していきたいのかという問いそのものにつながってくるわけであります。そうした明確な像が立ち上がったときに初めてアイデンティティーのバックボーンができるはずでありますけれども、1982年の歴史教科書問題以来、既に語り尽くされているとも言えます、この歴史認識における議論の混乱というものは、率直に言えば、戦後の日本において、敗戦に至るまでの近代日本史に関して、国民に共有されるべき歴史像が成立してこなかったということの帰結でもあります。
ところで、歴史認識を、それを教科書にどう記述するかは内政問題であるという主張がよくなされます。しかし、果たして近代日本の歴史は日本だけのものだったのでしょうか。既に述べましたように、アヘン戦争以来、万国公法と称されました国際法の受容や三権分立の政体書など、これはまさに中国経由でもたらされました西学書、西の学書と書きますけれども、つまり漢訳の欧米書である西学書によって、可能になったものであります。そして、その国際法をもって、実は日本は朝鮮を開国させたわけなのです。
さらに、日清戦争以後、台湾や朝鮮、関東州や満州国、それから樺太南洋諸島というものは、法的状態はそれぞれ異なりますけれども、あくまでも日本の歴史の一部を構成していたはずです。つまり、日本史の一部は同時に他国の歴史の一部をなすものでありますし、その逆もまた真であります。とすれば、日本の近代史については、「歴史を剥奪されていた地域」からの視点や声を全く無視できないのは当然であります。さらにまた、日本国内におきましても、多民族の人々が生活をしてきた事実からすれば、日本国内の歴史もまた、日本人だけのものではないということになります。このように、日本の近現代史というものがアジア諸国との深い連関性を持って推移してきた以上、歴史についての認識問題が外交問題へと発展する必然性を、本質上内包していたことは否定できません。
さらにまた、現在、そして将来ともに、日・中・韓・台が他を欠いては、みずからが存続できない相互依存性の高まりの中で、これまで以上に他者の必要性が出てきたわけでありますから、その他者を排除することによってつくられてきた「一国史」というものを脱却して、他者とともに共生していくための歴史認識をいかに共有していくかということが問われることになるわけです。
こうした歴史認識の共有という問題に関連しまして確認しておかなければならないことは、もう1つあります。それは歴史の事実については幾つもの見方が可能であり、その立場によって異なるから歴史の共有はできないという相対主義の主張です。確かに、さきに述べましたように、歴史認識というものを「どこから来て、どこに行こうとするのか」というアクチュアリティーを持ったものとして考えますと、その共有は困難を伴うことは当然であります。しかし、歴史認識が多様であるということは、その対象となる事実が幾つもあるということを意味しません。ましてや、その事実がないということも意味しません。歴史もまた社会の構成物であり、時代や社会によって見方が変わっていくことは当然でしょうけれども、そこに共有すべき歴史的事実が存在しないということはないはずであります。
ただ、同じ歴史的事実について議論していくためには、本来、同じ方法論に従う必要がありますが、現在、歴史研究の方法やそこにおける社会的意義の認識というものは、東アジア各国でそれぞれに異なった歴史的背景による相違があることは事実です。その意味では、歴史認識のためには、それぞれの歴史学の、あるいは歴史学なり歴史研究のよって立っているところの基盤や方法論についての認識が不可欠であるはずです。つまり、「歴史認識の歴史」といいますか、そういった共通認識が必要なはずです。それが歴史和解の前提となります。ただし、その共通認識に至るためには、その方法論の自己検証としての歴史学史といいますか、史学史というものについての共同研究から始めなければならないということではありません。例えば、相互に鋭い対立をなしている事件や人物についての具体的な歴史的叙述を出し合って、それを対比していくというアプローチも歴史研究への立脚点や方法論の異同性について、相互に確認し合うための1つの基準、方法にもなります。もちろん、こうした対応を進めていくためには、厳密な史料批判に基づく歴史学的研究法によって得られた結論を突き合わせる以外、王道などはあり得ません。その上で、対話や共同研究において得られる見解の相違について、その客観性の根拠とは何なのかということを相互に明確化していくということが必須の条件となります。
歴史認識の共有や歴史和解などはあり得ない」という主張は、現状認識としては確かに否定し得ない面もありますけれども、そのシニシズムニヒリズムによって何がもたらされるのかということは、甚だ疑問ではないでしょうか。
●連関史としての東アジア世界史
以上のことを踏まえまして、終わりに、歴史認識において、どういうような研究領域や方法が設定されたら望ましいのかということを考えますと、我田引水となって大変恐縮でありますが、私個人は東アジア地域世界における思想連鎖とか文化連関によるアジアという空間の現れという問題を追及しております。そこで留意しておりますことは、東アジアを他のアジアとか欧米とかアフリカなどの地域空間から隔絶するのではなくて、グローバル空間としていかに立ち上がってきたのか。つまり、地球全体の中での部分空間としてのアジアという意味ですが、そのグローバル空間としてのアジアというものがいかに立ち上がってきたのか、それはまた、今後、いかなる空間として動いていくのかということを考えるということが重要ではないかと思います。
現在、既に日韓、日中、日台などのバイラテラルな二国間関係による関係史や交渉史の研究の蓄積は大変に進んできておりますけれども、その成果を受けて、私としましては「連関史としての東アジア世界史」とでも言うべき歴史が、それぞれの地域からどのように描けるのかを出し合ってみたらどうだろうかというのが、私の第1の提言であります。この提言は、将来的には東アジアの歴史史料を共有するためのセンターを設置し、その上で東アジア共同歴史研究所といったものを創設するというものを目指すための、いわば予備作業、あるいは道ならしとしての意味合いを持つものでもあります。


そうした長期的な課題を視野に入れた上で、「連関史としての東アジア世界史」というものを相互に突き合わせるという構想になるわけでありますけれども、これは更にはトランスナショナル、あるいはインターカルチュラルなグローバルヒストリーという構想につながっていくわけであります。しかし、もちろん、それは直ちに自国史の排斥というものを意味するものではありません。ちなみに、2006年に韓国教育人的資源部が発表いたしました歴史教育強化法案には、高等学校の選択科目として「東アジア史」というものを新設する案が盛り込まれております。しかし、この提言はアジア地域におけるつながりと断絶を、ただ叙述するという意味での連関史が出ればいいという意味ではありません。そこに何らかの共通の基軸なり指針がなければ、またしても同じような隔絶したものの歴史叙述に終わることになります。
それでは、今後の歴史認識や歴史叙述において何を共有する基軸とすべきでしょうか。それを確定する際に、まず確認しておかねばならないことは、今後の歴史叙述というものは、さきに申しましたような歴史認識の定義からいたしまして、もはや国家を単位とするのではなくて、個々の人々が生きていく上での条件や課題とは何であり、その課題をいかに人間は克服してきたのか、あるいはそれにいかに失敗してきたのか。換言すれば、人としての生活様式の変化や、それに伴う文化のあり方の変化を通して、どのような生活や文化のあり方を望ましいと考えるのかという素材を提供するものでなければならないということです。戦争や虐殺や植民地支配という問題は、そうした事例として扱われるべきでしょうし、「従軍慰安婦」という問題も、まさに人間の尊厳という課題がジェンダーによって違うとされてきた悲惨な先例として欠かすことができないことになるはずであります。そうした基軸に基づいた記述を相互に出していくということは、東アジアにおいてだけではなくて、他の地域ともつながっていくための要件でもあります。
その前提に立って、さらにそれがそれぞれの地域世界の固有な状況を踏まえた上で、なお共有できると想定し得る基軸として、第2の提言として挙げますと、第1に「人としての生存のあり方の基盤としての基本的人権の尊重」であります。第2に、その「人権を尊重し合う保障としての民主主義」、第3にそれらを確保していくための根幹としての「人間の安全保障」という問題であります。
この3つが普遍性を持つかどうかということも、実は相互批判が不可欠となりますけれども、少なくとも戦後日本において戦争や植民地支配についての共通理解が生まれなかった背景には、こうした共通基軸を確認する作業が手薄であったということが挙げられると思います。何よりも戦後日本では、みずからが人権先進国であるかのごとき錯覚があったことが、さまざまな歴史認識におけるあつれきを生んできたことは、今、確認しておかねばならないことだと思います。
現在、東アジアにおいて経済的な相互依存関係は日増しに高まっており、経済的には「運命共同体」になってきたとも言われております。その中で「東アジア共同体」構想が語られております。しかし、そこでは同時に、日本あるいは日本人だけには「東アジア共同体」などと言ってほしくないという強い反発があることも、私自身、直接にこれまでも見聞してきております。しかし、それでは研究者として、東アジアにおける思想連鎖や文化連関の歴史についての説明責任というものを放棄すればいいのかというふうにはならないということも、また自戒として考えています。
東アジアにおいて、歴史認識が歴史問題として紛糾し続けている背景に、戦後処理を怠ってきた日本に責任があることは疑いありません。そして、適切な対応ができなかった理由としては、そもそも日本の近現代史において何が意義ある事柄であるかどうかということ、あるいはどこに誤りがあり何を教訓とすべきかということについての両面からのバランスのある、いわば統合した歴史観というものを現在でもなお国民全体で共有できていないということに第1の問題があります。未来に対する明確なビジョンがあれば、過去の見方をどう改めていったらいいかということの方向性も明らかになってくるはずでありますけれども、相互不信であれば、同時代や将来像についての共通のビジョンも持ちにくいという、いわば堂々めぐりに、今、日本は陥っております。
その意味では、歴史認識の共有という課題は、異なった国籍の人と人との間においてだけではなく、何よりも同じ国籍を持った人と人との間でもなされる必要がありますが、この2つながらの非常に困難な課題、そして気の遠くなるような課題にいかに対処していくべきなのか、これから皆さんのお考えをお聞かせいただいて、一歩でも前に進みたいと思っております。