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はじまりのみち(2013)「二十四の瞳」型反戦映画

96分 配給:松竹 公開:2013/06/01
=「二十四の瞳」型反戦映画。木下恵介の映画「陸軍」のラストシーンと木下が自分の病身の母を疎開させるため、長い山道をリアカーを引いて運んだエピソードを物語にしたて、子を愛する母の心情を前面にだして反戦を訴えている。ラスト多くの木下の映画が無音で短く引用され「二十四の瞳」「笛吹川」も紹介される。その中で特筆すべきは「新・喜びも悲しみも幾歳月」での灯台守の息子が海上保安庁の巡視船に船員として乗りんだのを見送るシーンであり、ここだけは「戦争に行く船でなくてよかった」という台詞を再生している。2012年の日中間の尖閣問題を振り返れば、この映画の意図は明確だろう。
 この映画で主人公木下は「陸軍」のラストシーンを軍が拒否したのを、自分の芸術性のへの否定と受け取り松竹を退社し監督をやめる決意をする。軍はそれを戦意高揚=戦争賞賛に不十分(いわば消極的な反戦)としたが、木下に反戦の意図はなく、単に親の心情そのものを描けばこうなるとして、軍や社会は自分の芸術性を否定したと受け取っている。しかし疎開に同行した粗野で素朴な男が、そのシーンに「感動した」との言葉を受け思い直す。また男の行動の粗野さの裏には明日には徴兵されるかもしれない、との背景があると気づかせる。木下は自分の演出の正しさ、病身の母の優しい励ましについにふたたび映画を作る道を選ぶというもの。同時に観客はこうした心情的な反戦意識の正当性を受け取っているだろう、
 物語は短く単純なエピソードであり、全ての客層の観客を大きくを感動させるのは難しい。おそらく若者や多くの観客には「陸軍」のラストシーンは涙を絞るには不十分だったろう。しかし出征という事の意味をよくわかっていた1944年当時の日本人にはよく理解できたのではないか?そして現在でも母子関係を理解している年齢層、あるいはごく一部の若者には受けたのではないだろうか。松竹がこの大きな収益の見込めない地味な映画を製作したことに、彼らの自社の伝統や社会に対して自社のあるべき姿のようなものが窺えて大変頼もしいし、それは賞賛されるべきだ。 
 少なくとも戦争に関する限り木下恵介は、小津よりも黒沢よりも、また戦後最大の戦争映画と言える「ビルマの竪琴」を作った市川崑よりも上だ。木下恵介の方が反戦意識が高く、実際に積極的に戦争の意味に関わる映画を作ってきたのが事実である。ただそれが日本社会では評価されていないのが残念だ。
監督:原恵一 脚本:原恵一
出演:加瀬亮木下惠介(正吉)
田中裕子(木下たま:正吉の母)
ユースケ・サンタマリア(木下敏三:正吉の兄)
濱田岳(便利屋、一緒に母を運ぶ)
斉木しげる(木下周吉、正吉の父)
宮崎あおい(学校の先生、ナレーション)
大杉漣(城戸四郎、撮影所長)
【解説】
木下惠介生誕100年記念映画。「二十四の瞳」「喜びも悲しみも幾歳月」などで知られる日本映画史を代表する名匠・木下惠介監督の若き日の感動秘話を基に、自身初の実写作品に挑戦したヒューマン・ドラマ。戦時中、軍部に睨まれ松竹を一時離れるきっかけとなった「陸軍」を巡る製作秘話を背景に、病に倒れた母を疎開させようとリヤカーに乗せて山越えに挑む過酷な道行きを、母と子の絆を軸に感動的に描き出す。
 太平洋戦争下の日本。血気盛んな青年監督木下惠介が身を置く映画界では、政府から戦意高揚の国策映画の製作が求められていた。そんな中、彼が1944年に監督した「陸軍」は、内容が女々しいと当局の不興を買い、以後の映画製作が出来なくなってしまう。夢破れた惠介は松竹に辞表を提出し、失意のうちに郷里の浜松へと戻る。最愛の母は病気で倒れ、療養を続けていた。しかし戦局が悪化する中、惠介は母をより安全な山間の村へと疎開させることを決意する。彼は病身の母と身の回りの品を2台のリヤカーに乗せると、兄と雇った“便利屋さん”と3人で力を合わせ、過酷な山越えに向かって歩みを進めるのだったが…。
http://www.shochiku.co.jp/kinoshita/hajimarinomichi/