zames_makiのブログ

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加藤陽子氏の昭和天皇研究

昭和天皇と戦争の世紀 (シリーズ天皇の歴史) 加藤陽子 講談社 2011.8(未)
◇「昭和天皇はなぜ戦争を選んでしまったのか」対談 半藤一利×加藤陽子 中央公論 2011年9月号
◇◇「笠原和夫の『昭和天皇』から読む―皇室の母性と天皇の超越性」加藤陽子佐藤優福田和也の鼎談、雑誌『en-taxi』扶桑社、vol.29(2006年3月)
◇昭和の戦争を考える 加藤陽子 中央公論. 122(8) (通号 1480) [2007.8]

天皇像を再考する=東京大教授」加藤陽子毎日新聞 2011年8月21日)

◇虚構に抗する理性とは
 この1年間、天皇関連の史料や文献を、時間の許す限り読んでいた。昨年11月に刊行の始まった「天皇の歴史」シリーズ(講談社)の第8巻「昭和天皇と戦争の世紀」を書くためである。

 順次刊行される、神話時代から近世までの天皇像を、「そうであったのか」と驚嘆しつつ読み、近代の天皇像を再考するのは、苦行ではあったが、楽しくもあった。例えば大津透氏の第1巻「神話から歴史へ」。恥ずかしながら私は、本書によって初めて、720年完成の「日本書紀」が、神武天皇即位を紀元前660年とした理由と経緯を知った。

 まず、「日本書紀」あるいはその底本の編纂(へんさん)者が、十干十二支でいう辛酉(しんゆう)の年に革命が起こる、との中国古代の言説に従って神武即位を定めたはずだと推測する。次に、辛酉の年は60年に1回来るが、辛酉の年ならいつでも良いわけではない。60年に3と7を乗じた1260年(この単位を蔀(ほう)と呼ぶ)が、最適の大革命の1単位と考えられていたことをつきとめる。

 そのうえで、編纂者たちの確実な記憶の範囲で大変革が起きた直近の辛酉の年はいつかといえば、601(推古9)年だったのだろうとの見立てがくる。確かに603年に冠位十二階、604年に憲法十七条の制定があった。つまり、最も輝かしい事跡を遺(のこ)したと考えられた推古朝の辛酉の年601年を起点とし、そこから1260年さかのぼった年を建国年に選んだとする。

 近代史の研究者としては、1940年に近衛内閣が主催した紀元二千六百年式典について、その国民動員の特色などの方にどうしても目が向いていた。だが、上に述べた神武即位の虚構性は、東洋史の祖・那珂(なか)通世(みちよ)によって、すでに1897年に明らかにされていたものだった(「上世年紀考」)。さらにさかのぼれば、10世紀初めの「意見封事十二箇条」で知られる三善清行や、天保期の国学者伴信友(ばんのぶとも)などは、神武紀年が後世の作為だと気づいていた。

 戦前期であっても旧制中学以上の教育を受けた者ならば、神武紀年の虚構性は気づいていただろう。だが、単に気づいている段階と、「60年に3と7を乗じた1260年さかのぼったため」と理解している段階では、大きな違いがある。時代の風潮が、理性の指し示すところとズレていくような場合、過去の歴史に対する正確な理解は、死活的に重要となろう。そのような時、歴史的な考え方は、理性に耐性をつけてくれるはずだ。

 では、天皇を中心に昭和戦前期を見直したこの1年で何がわかったかといえば、教育と軍隊という二つの領域・空間において、詔書勅語がいかに重みを持っていたかということだった。その時代を生きた読者は何を今更と思われるかも知れない。だが、例えば、1935年に起きた天皇機関説事件一つとっても、美濃部達吉を論難した排撃派が最も力点を置いた点が実のところ何だったかを知れば、私のいうところをご理解いただけるのではないか。

 排撃派は、機関云々(うんぬん)といった言葉尻をとらえた批判をしていたのではない。明治憲法第3条「天皇神聖にして侵すべからず」についての美濃部の主著の説明、すなわち、憲法発布によって、天皇の国務については国務大臣が輔弼(ほひつ)責任をもつのだから、国民は天皇の発する国務関連の詔勅を批評し論議する自由をもつ、との部分を追及した。

 排撃派の衆議院議員・江藤源九郎は、宣戦の詔書は国務に属するだろうと前提し、ならば、開戦という時に「国民が、いや今度は戦さなんか出来ないと言って」詔勅に反対したらどうするのかと質(ただ)していた。憲法第3条は、当時の欧州の君主国の憲法であれば標準的に書かれていたところの、君主無答責条項(君主には政治的刑事的な責任はない)をそのまま模倣したものだった。その憲法第3条を排撃派は、「日本書紀」に由来する神権的天皇について述べたものと解釈し直し、天皇の聖旨の表現であるところの詔書・勅書・勅語憲法よりも上にくるとする解釈を政府に強要していった。

 開戦の詔書に国民が反対したらどうするか、との機関説排撃派の問いは重い。政府は屈服し、美濃部の主著を発禁処分とした。では、詔書はどのような過程を経て出されるものなのだろうか。詔書は、天皇の意思を確認しつつ、内閣と宮内省間の折衝で作成される。国際連盟脱退の詔書の例で見ておこう。

 まず天皇の意思として、世界平和の祈念という点と、文武官が領域をわきまえ、上下の分に従うべしとする2点の要望が出される。しかし、閣議において、後には機関説排撃派の一翼を担う荒木貞夫陸相その人が、「上下其(そ)の序」に従うべきであるとした、詔書案の一部削除を要求し、実際この一句は削除される。

 陸相としてはこの一句が入れば、満州事変が関東軍参謀の暴走で起きたように(実際その通りだが)思われるのを忌避したかったのだろう。詔書を批判する自由を謳歌(おうか)したのは、まさに機関説排撃をおこなった、当の軍部に他ならなかった。このような背景を理解しつつ、終戦詔書を読めば、昭和はまた違った相貌で迫ってくるはずだ。=毎週日曜日に掲載