zames_makiのブログ

はてなダイアリーより移行

高遠菜穂子氏に関する自己責任論について

3月3日(水)にNHK総合で「クローズアップ現代高遠菜穂子イラク」スタジオゲスト  江川 紹子さん(ジャーナリスト)が放映された。内容は曖昧なものだったようだ。以下はそれに関しネットで拾ったもの。

その1

『自己責任論とは「死ね」という事だった(高遠氏)』
2004年当時の日本はまるで1930年代の日本のように3人を「非国民だ」と批判した、それは全体主義であり国家主義だ。当時の自己責任論とは国家の方針に従わない国民は死んでよいという意味だった。
 戦前と異なり戦後の日本では個人は国家の方針に従う義務はない、基本的に自由だ。一方国家には国民を守る義務があり、例え国家方針に反した者でも守らねばならない。こうした原則を当時多くの視聴者はわかっておらず、また今も理解していない人も多い。個人と国家は多くの場合対立する、しないのはガリガリ国家主義者だけだ。しかし戦後、シビアな戦争というテーマで個人と国家が、対峙したのはこの事件が初めてだったから話題になったのだろう。


気をつけるべきなのは以下であろう。

  • 1家族の発言は間違っていないこと
  • 2同じ時期に拘束された少年や自称フリー記者も同じであること
  • 3より問題なのは高遠氏批判を喧伝したマスコミであること


1家族の発言=左翼(正確には平和主義者)に支えられ家族が自衛隊を撤退してくれと言って悪い事はない。
 上記で述べたように個人は自由だ、国家の方針に従わねばならない理由はない。2004年当時、確かに自衛隊撤退を求める平和主義者は日本では少数派であったが、だからと言って沈黙せねばならない理由はない。思想・表現は個人の自由だからだ。往々として無理解な人は「自衛隊の行動は偉い人が決めるのであり家族が求めてはいけない」と考えて勝ちだが、これは民主主義を理解していないとんでもない、大馬鹿者である。そして実際にもしこの家族の訴えに多数の国民が同情すれば、自衛隊撤退も真面目に議論されたかもしれない。
 これはアメリカなどでは当たり前のことだ、ジェシカ・リンチ事件など政府は常に国民の支持を得ようとそうした情報を流し、一方反対する側は米軍の残虐行為など逆の情報を流す。民主主義の基礎はこうした情報にありそれに基づく国民の判断だ。国家的な事は「お上に従うべし」という古い考え方は間違っているだけでなく民主主義をまったく理解していない危険なものだ。


2同じ時期に拘束された少年や自称フリー記者も高遠氏と同じであること
同じ時期にノー天気な少年と自称フリー記者が拘束された、しかし彼らにも同じ原則が適用される。たとえ2人に記者としての実績がなくてもその行動は自由だ。それを憲法は保証している。これを批判する人は自分では気づかぬうちに1930年代と同じような国家主義者になっている、自分が「非国民」を連呼する軍国主義者になってしまっているのに気づいていない。


3より問題なのは高遠氏批判を喧伝したマスコミ
マスコミの多くは家族を含め拘束された3人を批判した、自己責任という名目で3人を攻撃したのだ。それが日本で事件を大きくし、帰国した高遠氏などを更に傷つけたのだ。NHKを含めたマスコミはこれを心から反省すべきだ。

その2

1個人には行動の自由があり、それを「自己責任」(実際には国家方針に従わぬ者は死ねの意味)というお題目で縛るべきではない


2個人の思想信条によらず国家には国民を守る義務がある。実際に日本政府は一応の対応はした。


3しかし残酷な原則として国家は国民個人よりも国家を大事にする(例えば自衛隊設置法の記述を見よ)。多くの場合は個人を見殺しにする。この場合でも政府は自衛隊撤退を検討することはなかった。更に過去には太平洋戦争時の東京など内地の空襲とそれに関する今の裁判のように、今も実際には国家は国民の死をまったく斟酌しないのが現実である。


4今の人が間違えやすいのは、戦前は国家の方針に個人がそむくことはありえなかった事だ。治安維持法などで検挙処罰されたし、一般意識として「非国民」の名前の下にひどく糾弾されたからだ。しかし戦後はそうではない。


52004年におきた自己責任論はこの戦前の「非国民」批判の再来であり、高遠氏への不当な非難だった。しかし当時マスコミは(1)右傾化の波(2)戦前の経験と歴史を知らぬ無知な国民の「お上に迷惑かけちゃなんね」という原始的な反応、を受けてこれを喧伝した。


6先日のNHKの番組は民主党への政権交代により右傾化の波が一応収まり、当時からまったく事情のかわらぬイラクへ継続して救済努力をする高遠氏の存在の重みから「曖昧な反省とゆるい問題提起」をしたものであろう。