zames_makiのブログ

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満蒙開拓団の真実

映画「嗚呼満蒙開拓団」に涙するだけでいいのだろうか?(日本では満洲への移民、開拓団は「自分たちは酷い目にあった」という被害者意識の上の感傷の対象でしかないようだ。戦争を知る羽田監督自身もその中にあるように見える。はたしてそれでいいのだろうか?)その前に知っておくべきこと=『中国農民が証す「満洲開拓」の実相』(西田勝,孫継武,鄭敏編、小学館、2007年 http://opac.ndl.go.jp/recordid/000008662476/jpn)より 前文

 日本の中国東北(満洲)への移民は中国侵略のための国策だった


日本帝国主義は九一八事変(満州事変)をおこした後、中国東北地区に大規模な移民侵略活動を行ったが、それは中国東北への移民を通じて東北の人口構成を変え、東北を植民地化・日本人化して永久に占領し、日本の一部にすることをもくろんだものだった*1九一八事変(満洲事変)の以後の日本の中国東北への移民は大体、三つの段階に分けられる。


 第1段階は1932年から1936年まで、組織的・計画的に中国東北に試験移民を行った時期で、この間武装してやってきた農業移民は治安維持の役割を担い、関東軍による東北人民の抗日闘争に対する鎮圧を助けた。そのためこの時期は武装移民の段階とも言われる。

 第2段階は、1937年以後の大規模移民の時期である。当時様々な大規模移民の計画が頻繁に提案されたが、最終的に関東軍によって「二十年百万戸移民計画」(1937年〜1956年)が策定され、それは広田内閣の七大国策の一つともなった。満州国政府もまた日本人移民計画をその三大国策の一つとした。日本政府は当時20年後の満州国人口が五千万人に達し、その時日本人移民百万戸による計500万人は東北人口の1割を占めるだろうと推定した。
 このように日本は数百万の移民によって、中国東北に大和民族を指導的な中核とする植民秩序を作り上げようとしたのだ。当時の日本の拓務省は、それを次のように明かしている「現在満州国の人口は概ね三千万であるが、20年後に五千万に達するであろう。その時その一割五百万の日本内地人を満洲に植え付け、民族協和の中核にたらしむれば、わが対満政策の目的は自ら達せられる」(満洲開拓史刊行会編「満洲開拓史」全国拓友協議会、1966年、182頁)。その目的はつまり中国東北を日本領土の一部にすることだった。

 第3段階は1941年以降の移民が衰微してきた時期である。太平洋戦争が勃発すると日本国内の青壮年労働者が応召し軍隊に入るものが増加し、また日本国内の軍事産業が拡大して農村にほとんど労働力の余剰がなくなってきたため、移民の源泉が枯渇し始めた。その他にも関東軍が南方戦線に動員されるのに伴なって、移民団員でも応召し軍隊に入るものが急速に増加した。「一般の開拓団の30から40戸の村落中、男子で残っていたのは4、5人の老人と病弱者に過ぎなかった」(満洲開拓史刊行会編「日本帝国主義下の満洲移民」龍渓書舎、1976年、110頁)。日本の移民政策は事実上すでに崩壊し始めていた。



 日本の中国東北への移民の研究は、中日両国の学者によって重視され、幾つかの専門的な研究書や論文、資料集、回想録などが出版された。その中で示されたいくつかの観点は正確で、当時の実際の状況を反映している。しかし、いくつかの見方は不正確で中には移民の侵略的な性質を否定しているものさえある。またいくつかの移民の手記や回想録はただ日本人移民の経歴を伝えているだけで、彼らが中国東北へ来た前後の中国農村や農民の状況を反映していない。そこで日本の中国東北への移民の本質を、さらによく明らかにし、これらの不備を補うために、私たちは現地調査や訪問を通じて中国東北の農民の、移民が入ってきた前後の情況に関する口頭の証言を集めることにした。これは非常に意義のあることで、また非常に重要な研究課題だった。そのため私たちは1980年代の末から1990年代の末にかけて、吉林省の盤石、樺葡、舘蘭、黒龍江省の樺川、樺南、依蘭、湯原、北安、緩稜、遼寧省の大窪などの諸県や内モンゴル東部地区の科有前旗などの、当時の日本移民地について広汎でたちいった現地調査を行い、100人余の日本侵略の被害者や証人に取材した。これらの調査によって以下の幾つかの問題点を確認することができた。

 
 第1は、移民用地の略奪である。
日本は当時東北農村の土地に対して正気の沙汰と思えぬ略奪を進め、中国の農民から強引に土地を買収した。移民用地の買収は関東軍の手によって直接行われ、農民が土地の売買契約書(権利書)を渡さなくても、関東軍は高圧的な手段に出て、農家の壁を打ち壊し土地の売買契約書を力づくで奪った。そしてこれらの土地を失った農民たちを人里はなれた山野に追いやり荒地を開墾させた。元の土地にとどまることができた少数の農民たちも日本人移民の小作人や作男になった
 樺川県中伏村の傳才(1992年の調査時点で81歳)は語っている。「開拓団に土地を準備するため、日本人は強制的に土地を提供させた。土地を持っている者は皆土地の権利証書を富錦県に渡さなければならないと命令された。土地を失ったので私たちは開拓団の雇農になる他なかった。後に日本人は私たちを更に集賢県に追いやり、県内開拓民にさせた。私たちを数個の部落に編成し私は官部落に編入された。私は天青屯に住みそこで荒地を開墾したが、私たちに与えられたのは広い放牧地であり、そこは何年もの大水で一面洋々たる湖水同然の状態でまったく開墾のしようがなかった。当時天青屯だけで餓死者が十数人でた」傳才老人の証言から中国人農民のおかれた悲惨な状態を知ることができよう。これはまた中国東北農民が日本の移民侵略の直接の被害者であることを説明している。


 第2は、日本移民は「四大経営主義」すなわち自作農主義、自給自足主義、集団経営主義、農牧混合主義を掲げたが、実際にはこの経営主義はまったく実現しようがなかったことである。日本人移民は普通、1戸あたり20町歩の土地を手に入れたが、日本から中国東北の農村に来ると土地の性質や耕作の仕方が異なっていた上、労働力の不足も加わってこうした広い面積の土地を経営することは不可能だった。そのため大部分の土地は中国人に小作させ彼らは地主になった。一部の移民は自身でも耕作したが、その場合もだいたいは中国人を作男や月雇いや日雇いにして耕作を行った。「四大経営主義」は土台、実現不可能なスローガンでしかなかったというべきだ。


 第3は、日本人移民の加害と被害の問題である。
日本人移民の大多数は貧乏に苦しんでいた農民たちで、日本では社会の最低層にあった労働者だった。当時の状況下にあっては彼らは中国人に対して一種の優越感を持っていたものの、一部の移民たちは中国の農民と正常に往来し平和に過ごした。とはいえ、彼らは同時に中国農民の土地や家屋を占拠し、中国農民を流離させて住むところを失わせ、また中国農民を使役し搾取した。彼らは日本帝国主義の侵略の道具にほかならなかった。
 しかし他方では彼らは日本帝国主義侵略戦争の被害者でもあった。彼らの大多数は生活に追われる中、騙されて中国にやってきた者たちで、戦争の末期には日本人移民の青壮年の男は軍の補充のため次々に召集され前線に赴き、残されたのは女性や子供、老人や病弱者で生活は容易ではなかった。1945年8月、日本は戦争に敗れて降伏するが、その際関東軍は日本人移民を遺棄し、大量の死傷者を生み出し、日本の侵略戦争の犠牲者とした


 中日両国人民は、この不幸な歴史を永遠に記憶し、歴史の経験や教訓として総括し、子々孫々友好を進めていかねばならない。


2007年1月30日 中国側編集者を代表して 孫継武

*1:この見解は日本人には突飛に見えるかもしれないが、2009年現在イスラエルが行っている事である。すなわちイスラエルは戦争で占領した土地に入植地を作り移民してきたユダヤ人を住まわせる事を積極的に行っており、オバマ大統領の批判にたいしても未だやめようとしていない。又エルサレムなどではユダヤ人人口がアラブ人人口より圧倒的に多くなるよう過酷な管理を行ってもいる。入植地の存在が今後のパレスチナとの交渉でその土地を自国の領土として宣言する一つの根拠として使用されるのは間違いないだろう