zames_makiのブログ

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安全保障問題・天木直人ブログよりメモ

岡本行夫(外交評論家)の本性

朝日新聞論座」の2008年4月号に掲載されているインタビューで
岡本行夫日米安保を守るための嘘の扇動作文を書いた(喋る)。本音(安保全体支持)とは反対の言辞(アメリカはよくないかも)を弄して国民の嫌米意識のガス抜きを図ろうとした。
2002年の11月に、最終報告書を発表した。その報告書に岡本は「米国は、反対意見や異なる価値体系に関する寛容の精神が弱まりつつある」「米外交の道義性が弱まる可能性がある」など、アメリカに対する厳しい表現がある。どういう理由で対米批判のごとき言及をしたのか、インタビュアーがたずねたのに対し、

岡本氏は「・・・日米安保は絶対的に必要で、安全保障の面では日本はアメリカと一心同体であるべきだと思います
・・・(しかし、イラク開戦が囁かれている中で)国民の間に嫌米主義やアメリカは怖い、という感じが出始めていましたから、(アメリカに批判的な事を言う事によって)国民の米国離れ、安保離れを食い止めようという意識がありました。すべての問題についてアメリカべったりということになれば、日米安保への国民的支持が弱まってしまうという危惧感がありました・・・(それを防ぐための政治効果を狙ったレポートだったのです)。」

核の傘

日本人がよく言う「米国の核の傘」に守られているという考え方は、実は米国の「日本核武装」に対する警戒から生まれたものである。米国は日本に核兵器を持たさないために、「核の傘」でなだめたのである

2005年8月1日付の朝日新聞

 米国民間研究機関ナショナル・セキュアリティーアーカイブ(NSA)が入手した米国務省公文書によれば、日本の二人の首相が「核武装論」にふれる発言を米国高官にしたことが米国の警戒感を刺激し、日本の核武装を抑え込むという観点から、65年1月のジョンソン・佐藤会談で初めてジョンソン大統領より「核の傘」の提供が明言されたというのだ。
 すなわち、61年11月箱根で開かれた日米貿易経済合同委員会でのサシの会談で池田首相はラスク米国務長官に、「日本にも核武装が必要だとする論者がおり、それは自分の閣内にもいる」と漏らした。ラスクは核拡散に米国が反対であると必死に説得した。


 その後64年12月には、佐藤首相がライシャワー大使にこう語ったウイルソン英首相は他人が核兵器を持てば自分も持つのは常識だと言ったが、私も同じ考えだ」これについてライシャワー大使は次のような電報をワシントンに打電している、「佐藤が池田よりも慎重さに欠けるとの評判どおりだ・・・彼が危険なコースに陥らないよう、池田にした以上の教育が必要だ」これを受けたラスク国務長官は「これ以上の核拡散」に反対すべきであることをジョンソン大統領に進言、65年1月12日、ホワイトハウスでジョンソン大統領の佐藤首相に対する次の発言に至った。


 「日本は核兵器を持たず、われわれは持っているので、日本が防衛の為に核抑止を必要とするなら、米国は約束を守ってそれを提供する」佐藤は「核武装論」などなかったかのように、次のとおりそれを受け入れた。「それが聞きたいと思っていたところだ」

上記は日本の核武装に関する研究書にも採録されている。


安保条約の意味

日米安保条約の米国にとっての最大の意味は、日本にアメリカ軍を置くことである(豊下楢彦集団的自衛権とは何か」で引用されている1960年の安保改定に先駆けて行われた重光葵外相とダレス国務長官とのやり取りの中で示された次のごとき米国の本音、

ダレスにとっては、日本が集団的自衛権を行使して「米国を守る」ことよりも、米国が日本の基地を特権的に維持し続けることの方がはるかに重要な意味を持っていた・・・ダレスの最大の獲得目標は、「望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利」の獲得にあった
(中略)
一般国民は、岸信介の手による日米安保条約の改定が、それまでの片務的なものから対等なものに改められたと信じ込まされている。それが岸信介の一大功績であると思い込まされている。しかし実際は安保条約の改定によって米国の一方的な基地占有が固定化されたのだ

これは豊下楢彦氏の別の著書で、戦後早期の昭和天皇マッカーサーでの交渉内容の分析からも言及されている。即ち、最初の安保条約交渉の際、米国はアメリカ軍を日本に置くことの代償に、日本を一方的に守る条約を申し出た。これはこの交渉について一般に言われている、米国の片務的な条約を「日本が勝ち取った」のではなく、最初から交渉当事者の目的が異なっており、譲歩すべき場所やレベルが異なっていた、という事を示している。