文部省唱歌
広瀬中佐 (大正元年十二月 尋常小学校唱歌四 )
一、
轟く砲音(つつおと)飛び来る弾丸(だんがん)
荒波洗うデッキの上に
闇を貫く中佐の叫び
「杉野は何処(いずこ)杉野は居ずや」
二、
船内隈なく尋(たず)ぬる三度(みたび)
呼べど答えず探せど見えず
船は次第に波間に沈み
敵弾いよいよ辺りに繁(しげ)し
三、
今はとボートに移れる中佐
飛び来る弾丸(たま)に忽(たちま)ち失せて
旅順港外恨みぞ深き
軍神広瀬とその名残れど
日露戦争(明治37年/1904〜)において旅順港口に船を沈めてロシア艦隊を港内に封鎖する作戦をとったとき、広瀬少佐(軍艦朝日水雷長)は閉塞隊に参加し、第1回(明治37年2月24日)は報国丸を指揮し見事成功したが、第2回(3月27日)にも参加し、福井丸を指揮して港口に突進、船体を爆破後、ボートに乗り移ろうとしたとき同乗していた杉野兵曹長の姿がないのに気づき、再び船内に戻り杉野を探し求めていた時、敵弾に当たり船と運命を共にした。当時、この態度を軍神とあがめ、多くの歌が作られた。杉野兵曹長は負傷してロシアの捕虜になって延命したことが、後年明らかになった。享年37歳。戦死後中佐に昇進。