zames_makiのブログ

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沖縄戦<日本軍による殺害の証言>

石原昌家によると沖縄戦で日本軍は住民を守るという考え方はなかった、戦闘開始以前から「軍官民共生共死の一体化」が指揮官から唱えられ、日本軍の劣勢が明確になった時点でも住民も共に死ぬまで最後まで抵抗するという方針が与えられたとする(1945年3月日本軍資料「秘密戦に関する書類」および5月5日の牛島司令官の命令、石原昌家の記述による)(例えば証言http://www.csmonitor.com/2007/1023/p04s01-wosc.html)。加えて住民が米軍に投降するのはスパイ行為だとして、投降者、投降を進める者、なんらかの形で接触した者を殺害することがあった。また壕追い出しや食料を奪うこと、悪性マラリア地帯に強制疎開させることで死に追いやる多くの例がある。それぞれの被害者数は住民が死亡しているためあくまで推定だが、大田昌秀は多くの証言を調べ、壕追い出しで100人以上、食料強奪で60人以上、住民虐殺が290人という数字をだしている(総史・沖縄戦および家永教科書裁判での証言)。

日本兵自身が安全な壕内に避難するため、「我々はお国のために闘っているのだ」という口実によって先に避難していた住民を追い出す例が多くある(ひめゆりの塔で知られる陸軍病院伊原第三外科壕や他の第一・第二外科壕、本部壕なども「追い出し壕」とされている)。ガマの中で泣き止まない赤ん坊を黙らせるために殺害した事例も報告されている。また、民間人に対するアメリカ軍の人道的扱いを期待した日本兵が、意図的に民間人の避難先に潜り込んでゲリラ活動を展開したという話も残っており、それが米軍を「馬乗り攻撃」に踏みきらせたとも言われている。その一方で、日本軍は沖縄住民のスパイ活動を警戒して方言の使用禁止を命じ、方言を使った住民をスパイ容疑で処刑したこともあったという。また米軍から住民に配給された食糧を狙って飢えた敗残兵が襲撃を行うなど、軍民の信頼関係は著しく損なわれたとする説もある(総史・沖縄戦)。

生存者の中には「日本兵のほうがアメリカ兵より怖かった」「捕まったら強姦されるか殺されると聞いていたのに優しくしてもらえて驚いた」などと証言する者が多くいる(例えば証言http://hb4.seikyou.ne.jp/home/okinawasennokioku/okinawasennosyougen/syougen29.htmlまた「総史・沖縄戦」など)。南部に現存する轟の壕では、「泣き声で敵に発見される」という理由で壕内で幼児を虐殺するなどをしたうえ、投降を警戒した兵士が住民を奥に追いやって監視をしたため大量の餓死者が発生し、また危険が迫ると逆に住民を入口付近において盾にした挙げ句馬乗り攻撃で多数の犠牲が出た。そのため、投降した住民がアメリカ軍に「日本の兵隊を生かしますか?」と問われて「殺せ!」と答えたという石原昌家「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕」集英社新書大宜味村渡野喜屋(現・同村白浜)では、山中に潜んでいた日本兵アメリカ軍保護下の住民をスパイと見なし、食糧を奪って海辺に連れ出し35人を虐殺するという事件があったNHKスペシャル「沖縄 よみがえる戦場」(2005年6月18日放送)

また、久米島では米軍の大兵力による上陸こそ無かったものの、日本軍軍属の鹿山正久米島守備隊長(兵曹長)の疑心暗鬼によって、郵便局員とその家族など20名の住民がスパイ容疑等で虐殺される事件('''久米島守備隊住民虐殺事件''')がおこっている。この時の経緯は本人が1972年サンデー毎日の紙面で事実であると認めたが、本人は「誇り高き大日本帝国軍人として正しい事をしたから良心の呵責はない」との主旨を主張した。

糸満市真栄平での住民虐殺の証言

女性当時20才。「私たち一家は日本軍に何度も壕を追い出され、ついに自分たちの屋敷の下に穴をほって避難していました。5月下旬のある夜、日本刀を持った日本兵がやってきて「出ろ!お前達はすぐに出て行け」と怒鳴った。母はよく聞き取れなかったらしく「なんでしょうか…」と身を乗り出したら、いきなり首をはねられてしまった。首は穴の奥に寝ていた金城さんの胸に落ちてきたそうです。
 私はちょうど水くみに出かけていた、帰ると穴の近くに眼を光らせた日本兵が一杯いた。「ヒッー」と声にならない声が聞こえ、見ると妹と弟2人がいた、3人とも血まみれで下の弟は腸が見えていてこと切れていた。まだ息のある弟と妹を抱え隣の兵隊のいない壕へ逃げたが、3時間後には息を引き取った。苦悶の中で2人が話してくれたのは、母が首をはねられてから妹達はすぐに逃げた、でも刀を振りかざした3人の兵隊が追ってきて何回もついてこじり上げて、背負われていた弟は腹をえぐられたんです。」(総史・沖縄戦

壕内で子どもを薬殺:

仲間忠一(当時31才)
私たち40〜50人は阿檀林の中の石の下に隠れていました。2キロも離れた上里の井戸から命がけで水をくんでいましたが、兵隊たちは「水を渡さなければ殺すぞ!」と何度も水を奪いました。ある時米軍がマイクでこの山をガソリンで焼くと言ったので、私は1人で壕を捜しに出かけました。そうすると日本兵が「お前はスパイだ」と言って1人は手榴弾で1人は小銃で殺そうとするです。その壕にいた親戚や部落の人がかばってくれたのやっと助かりました。その晩子どもが泣くと今度は「子どもを泣かせると殺すぞ」と脅しました、そして注射器を持った兵隊が「こどもを静かに眠らせてあげるから」と言って、無理矢理注射をしたのです。4人の子どもは苦しみながら間もなく死にました。(総史・沖縄戦、p207)

天久台高射砲陣地でのスパイ視での処刑

1945年4月28日、大城政英
大城さんは宮城護衛の近衛兵だったが1944年に満期除隊していた、しかし沖縄防衛のため自ら沖縄に行き故郷の小湾(旧浦添村)の現地軍の下で陣地作りなどをしていた。4月28日小湾に危険が迫ったので天久台の親戚のいる壕に移動しようと壕に入った。すると兵隊が突然「誰だ」と呼び止めすぐに「お前はスパイだ」として刀を抜き殺そうとした。大城さんは軍隊手帳を出し、小湾の部隊に電話して聞いてくれといい、出てきた叔母が自分の甥だと言っても、また天久の区長が言っても兵隊は聞かない。最後に叔母が天久台高射砲陣地の面識のある兵長を連れてきてその兵長が「この人なら私が保証する」と言ってくれてそれでやっと助かった。私が「なぜ沖縄人をスパイだと言って殺すのか」と言うと兵隊は「沖縄人はみんなスパイだから殺せという命令が上から出ているんだ」と言った。しかし、ちょうどその時大城さんと同年輩の男性が、同じようにスパイと言われていて、日本兵はその人を壕の外に連れて行き拳銃で撃ち殺しました。(石原昌家意見書、p45)

慶良間諸島での軍命の証言

慶良間諸島の場合は直接的に「集団自決」の命令が日本軍からきたという事が、軍からの命令を受ける立場であった兵事主任の言った内容として残されている。渡嘉敷島では兵事主任富山真順(戦後死去)が、戦後「軍から命令された」と証言しているし、金城重明が兵事主任からその話を聞いたことを現在も証言しているhttp://ryukyushimpo.jp/news/storyid-27030-storytopic-1.html。また慶良間島では、兵事主任宮里盛秀(玉砕)の父親(宮里盛永)および妹(宮平春子、宮村トキ)が、その晩彼が「軍から命令が出ている」と喋ったことを手記に書いたり、証言(沖縄タイムズ、2007年7月6日、http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-07-09/2007070904_01_0.htmlおよび大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判|「集団自決」訴訟の陳述書)したりしている。

「集団自決」は日本軍の強制

沖縄戦において日本軍による住民殺害の例があり、「集団自決」がいくつもあったこと及びそれが日本軍に強いられたものであった事は、戦後早期の「鉄の暴風」「沖縄県史」などの証言で知られているが、現在では研究者はこれら「集団自決」(集団死)の多くは日本軍による命令・強制であったと考えている(例えば「沖縄戦と民衆」、林博史、2001年)。またこれを反映し1982年以降高校教科書では「日本軍にしいられた・追い込まれた」という表現がとられている。(また集団自決はその実態が文字のままではないため、集団死、「集団自決」などの言葉や表現がとられるようになってきている)

研究者は、根こそぎ動員により住民全てを日本軍が支配し、特に諸島部では国のために死ぬのは尊いという思想、捕まれば女は陵辱された上で男女とも酷く殺されるとの教え込み、その上で米軍上陸時には自決せよと、あらかじめ訓示・命令をしている事を重視している。このため住民は、米軍上陸時には自動的に自決をすべきと感じ、そこに日本軍から手榴弾を配布された事などをきっかけに「集団自決」がおきたと考えている。ここで日本軍指揮官から直接住民に命令があったかは重要ではなく、兵事主任という町の役人が、役人と同時に軍から住民への様々な命令(作業動員など)を伝達しており、渡嘉敷島などではこの兵事主任から自決の連絡があった事が実際上の命令であったと考えている。

背景には、捕虜になるより死を推奨する戦陣訓の考え方が兵士だけでなく住民に広がったため、という見方がある一方、日本軍が根こそぎ動員で住民全てを軍の作業につかせ、兵士の数、配置、武器の状況、壕の状況など日本軍の状態が住民に知られ、住民が米軍に捕縛された時にこうした軍事情報が漏れることを恐れたためとする意見もある。

実際の自殺方法は手榴弾により集団で自殺したり、家族同士がカマや棒で殺しあったりする異様な悲劇であり、こうした肉親を殺した経験が生き残った者が進んで証言しにくい原因となっている('''チビチリガマ'''での惨劇がよく知られている)。軍の行為やそれまでの教育が間接的な原因となっていたとの指摘もある。http://www.okinawatimes.co.jp/day/200703311300_03.html 真実のわい曲許せず 600人死亡の惨劇消えぬ沖縄タイムスhttp://www.okinawatimes.co.jp/day/200703311300_02.html 「あれは軍命だった」 座間味・戦争体験者ら怒り沖縄タイムス

2006年10月3日日本兵が住民に対する集団自決を命令した事を示す発生直後の住民証言を記録した1945年4月3日付の「慶良間列島作戦報告」がアメリカで見つかったと沖縄タイムスで報じられた。
さらに、軍命であったという証言が援護法の適用のためではないかという疑問に関しては、2007年1月15日の沖縄タイムスに『「集団自決」早期認定/国、当初から実態把握 座間味村資料で判明/「捏造説」根拠覆す』との記事が掲載された。座間味村役所の「戦闘協力該当予定者名簿」および「戦協該当者名簿」と厚生省から返還された県の記録を照合したものによれば、座間味村の認定は最短3週間、平均3ヶ月で認定されており、琉球政府援護課の元職員は「本島に先駆け、慶良間諸島の被害調査を実施した。厚生省(当時)も人々を救おうとの熱意を感じた」との証言も合わせて掲載し、『一部マスコミなどによる、補償申請が認定されにくいため「『軍命』が捏造された」という主張の根拠がない』と報じた。

また、ひめゆり学徒の証言の中には「兵士に手榴弾を渡されたが死にきれなかった」「青酸カリを飲むよう言われたが量が足りなかったため飲まずにすんだ」「攻撃に行って反撃を受けた兵士が民間人の避難していた場所に逃げ込んできたため猛攻を受けてほぼ全滅した」「『おまえたちが沖縄を守るのだ』と初年兵らを集めて囮に使い、兵隊たちはその隙に逃げた」というものもある。