zames_makiのブログ

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オマールの壁(2013)パレスチナ

原題:OMAR 97分 製作:パレスチナ 配給:アップリンク 公開:2016/04/16
監督:ハニ・アブ・アサド 製作:ハニ・アブ・アサド 脚本:ハニ・アブ・アサド
出演:アダム・バクリ(オマール)
リーム・リューバニ(ナディア)
サメール・ビシャラット(アムジャド)
エヤド・ホーラーニ(タレク)
ワリード・ズエイター(イスラエルのラミ捜査官)
パレスチナに暮らす真面目なパン職人のオマール。生活圏を高い“分離壁”で分断されていて、友人たちとも切り離されていた。彼は危険を顧みずに高い壁を乗り越え、友人や恋人のナディアに会いに行く日々。そんなある日、オマールは仲間と共にイスラエル兵の狙撃を企てる。すぐにイスラエルの秘密警察に捕まり、激しい拷問を受ける。そして釈放と引き換えに仲間を売るよう執拗に迫る捜査官に、必死に抵抗を続けるオマールだったが…。
オフィシャル・サイト=http://www.uplink.co.jp/omar/

「オマールの壁」感想

映画「オマールの壁」は公開時に見たが、「パラダイス・ナウ」ほど面白くなかった、割り切れないものが残った。ハニ・アブ・アサド監督の新作検索中に、「オマールの壁」に関する批評と更にネタバレ論考があったので以下コメントした。
http://www.newsweekjapan.jp/kawakami/2016/05/1_1.php
http://www.newsweekjapan.jp/kawakami/2016/05/2_1.php
http://mideast-watch.blog.jp/archives/59902447.html?1475828383#comment-form

「歌声に乗った少年」検索中にこの記事を知りました。「オマールの壁」も公開時に見ましたが、ラミを殺す理由は、オマールというスパイを仕立てるという罠(策略)でサルを育てたつもりが、逆にその関係性故にサルに殺されるという意味と思っていました。パレスチナ人を自分にとって都合のよいサルに育てたつもりが、その関係性故に、逆にパレスチナ人を自己犠牲を伴ってでもイスラエル人を殺そうとする最悪の(いわゆる)テロリストに育ててしまったという、事でしょう。ラミは自分が砂糖を与える安全な高所にいるつもりが、関係性の罠にはまり、平気で銃を与えてしまうミスを犯す、実はサルはラミであった、という意味です。
 そして殺されるのがアムジャドでは映画は成り立たないでしょう、「馬鹿なパレスチナ人の仲間割れ」という映画になってしまい誰の共感も得られない。死ぬのがイスラエル人なのは政治的関係性故であってほとんどの観客にとって必然です、この映画はそこへ至る道を恋愛を使って観客に歩かせた。従ってこの映画は非常に政治的な映画ですね。
 これは製作者がどう言っても変わらない事でしょう、なぜなら映画は公開されればその受け取りは観客に任されるから、製作者がどんなにこの映画は××ですと言ってもそれは通らない。「独裁者」「遠すぎた橋」がよい例です。

映画「独裁者」は公開時にチャップリンは「これはコメディです」と当時のアメリカの記者に明言しているが、その内容は戦争呼びかけのプロパガンダなのは明らかだ。日本ではこの映画を戦争プロパガンダと分類しないのは、公開時期のずれによる日本人の受け取り方の変化によるもので、戦後日本人は自分が英米に戦争を仕掛ける側にいたのを忘却し、「独裁者」で批判されているのは自分たちではない、と勝手に解釈している。そしてこの映画をナチに抵抗する平和的なものという見方をしているのは、恐るべき歪曲である。近年の映画研究者の発見で「独裁者」の最初のシナリオには日本軍が登場しナチと並んで揶揄されているのが確認されている。

映画は観客のものだ、製作者がどんなに”ある意味”をこめても大多数の観客が”別の意味”に受け取れば、”そういうもの”となってしまう。そして映画は本のように振り返って何度も吟味するようなものではないので、予備知識のない、多くはそれほど関心も知的レベルも高くない観客が、最初に一度見たときの印象・意味でほぼ決まる。見た時に了解できぬ細かい細部は捨て去られ、観客が期待する結末とそれに付随する余韻や余波へと印象が収束するのが当たり前の事だ。だからアメリカ映画はあんなにわかりやすく出来ている。