zames_makiのブログ

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わたしを離さないで(カズオ・イシグロ)

著者の名は知っていたが臓器移植がテーマの無理なSFと思い敬遠していたが今回TBSドラマをきっかけに読んだ所、人の死と医療(または科学)に関わる近年まれに見る素晴しい文学だと感じた。多くの事を感じるように出来ている作品だが、以下がその感じ・考えるべき論点だろう。

<感じ・考えるべき論点>
1臓器移植の是非
 果たして臓器移植してまで生き続けるべきなのか?それに伴う他者の不幸はその他者の視点からどう考えればいいのか?今でも金のある人間はアメリカで臓器移植を受けられるが金のない人間に不可能だ。又臓器を売らざるを得ない人間の不幸を臓器を買う人間は金で保障できるのだろうか?
2科学進歩ははたして人間を幸福にするのか
 臓器移植などという技術がなければ貧富の差や臓器売人等それに伴う悲哀もない。そして例え移植したとしても最後は人間は全員死ぬのである。
 ガンの治療についても近藤誠医師が指摘している事はこれに近い、手術をしても最終的に当人の幸せの度合いが増えるかは実は定かではない。どんな治療が真にすべき治療なのか、医学は考えた事がなくただ盲目につき進んでいるように見える。
3その人の不幸を当人に教えない事は幸せなのか
 ヘールシャムでは生徒に全ては教えない、教えていれば提供で死ぬまで自分の不運な境遇を呪うだけの不幸な人生しか送れず可哀そうだから。一方主人公は教えられぬおかげで優秀な介護人と認められ30歳まで提供もせずに生きてきた、それは自分の不幸さをある程度無視しているからだろう。彼女は恋人から何度も「提供者になっていないあなたにはわからない」と言われる。本当に意味でどちらが幸せなのか?
 つい40年ほど前までガン患者にはガンである事は教えない事が正しいとされてきた。今後遺伝子診断などで未来の病や胎児の異常が判る時、社会の判断の基準はどこにあるべきなのだろうか?
4なぜ人は他人の不幸を意識的に無視するのか
 小説では描かれないが主人公以外の一般人は主人公らにとてつもなく冷淡だ。人間扱いしていない。それは彼らがクローン人間なので魂がなくまともな人間ではないからと「意識的に無視」してるかららしい。似た事は今日本でも起きている、シリア難民を”一人も”受け入れない政府に対し日本人大多数からはなんの反応もない。難民に細かい政治的逃亡証明を求め、なければ経済的理由とし難民と認めない日本人の態度は提供者には魂がないとする、意図的な冷たい態度とどれだけ違うのか?

 物語的・文学的な観点からは以下が言えよう
5不幸な環境で人が愚かしい目先の快楽で自分や仲間を騙し、あげくに仲間を傷つける愚かしさ悲しさ
6不幸な環境で人がはかない望みのない妄想にしがみつく愚かしさ悲しさ
7不幸な環境で人がはかない噂やデマにあらがえない悲しさ
8死を目前にした時多くの人は過去の過ちを償おうとするがはたして償えるのか?それは単に独善的な行為なのか?それとも人間的成長への死の恐怖による促進なのか?

そして
9この小説ははたして特殊な人間の話なのか?
 例えば、末期癌の患者
 例えば、アウシュビッツユダヤ
 例えば、貧しい中虐待されながら偏った情報を自ら求める今の日本の若者
 例えば、原発の危険性を身に染みて知っていながら"止めない"人間たち、それが悪い事だと知っていながらやめない人間たち
 例えば、年を経るに従い病で一つまた一つと臓器の機能不全に陥り最終的に全員死ぬ人間という存在 


 小説の舞台は1960年代から90年代のイギリスと明示されており、SF設定を行っているが明らかに空想でも架空でもなく、作者は読者に常にこれが自分の事と考える事を要求している。読者は物語の大半で主人公らの間の愛や憎しみなどの感情につき動かされページをめくるが、時代の明示は常に物語の主題がこれがただの虚構のお話ではなく、別世界の話でもない事を意味している。だから読者は主人公らの感情の動きに共感し動かされるのと同じだけの重さで、上記のような社会的な論点にも考える事を求めれているように思えてならない。

 もしこの小説に違和感を覚えるとしたらそれは主人公ら提供者に対する一般人の反応がまったく書かれていない事だろう。この点TBSドラマでは家畜という台詞やコテージの管理人の侮蔑的な態度、更に原作にない真美(中井ノエミ)を登場させ、例え提供者が自分の人権(命)を主張しても一般人からは完全に無視され、即座に殺される様を明確にしていた。小説では書かれていないが主人公らの周辺では真美のような事が起きている・起きうるのがあたり前であろう。もしこの小説がSFならば悪と戦う真美が主人公だろう、しかし著者はそうせず、あえて主人公らだけの話にする事で寓話性をもたせ、読者に考える事を要求したと感じる次第だ。

<わたしを離さないで>関係記事 2016.2まで

カズオ・イシグロ:日本とイギリスの間から
著作者:荘中 孝之
出版元:春風社
刊行年月:2011.3
=第8章 「オリジナル」と「コピー」の対立-『わたしを離さないで』を読む、補論1 日本におけるカズオ・イシグロ-その受容と先行研究の整理


カズオ・イシグロ:境界のない世界
著作者:平井 杏子
出版元:水声社
刊行年月:2011.2
=6章: 座礁した船-『わたしを離さないで』


●特集カズオ・イシグロ(雑誌:水声通信)
出版元:水声社
刊行年月:2008.11
カズオ・イシグロの長電話--『わたしを離さないで』で気になること(阿部 公彦)


書評:「わたしを離さないで」--人間という「種」のアイデンティティの揺らぎ
著者 小野 正嗣.
特集等 味読・愛読 文學界図書室
雑誌名 文學界.
出版者等 東京 : 文藝春秋, [1933]-
巻号・年月日 60(7) 2006.7


なぜ生まれ死んでいくのかあらためて再考させる本 『わたしを離さないで』
雑誌名 Verdad / ベストブック [編].
出版者等 東京 : ベストブック, 1995-
巻号・年月日 12(12) (通号 140) 2006.12


「コピー」の脱構築--『わたしを離さないで』におけるコピーに与えられた権利
著者 町田 直子.
雑誌名 東洋大学大学院紀要.
出版者等 東京 : 東洋大学大学院, 1964-
巻号・年月日 46 (文学(哲学)) 2009


●ヘールシャム・モナムール--『わたしを離さないで』を暗がりで読む
著者 加藤 典洋.
雑誌名 群像.
出版者等 東京 : 講談社, 1946-
巻号・年月日 66(5) 2011.5


「いのちの教育」:臓器提供を「訓育」する装置?--カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』を「豚のPちゃん」の教育実践とともに読み解く
著者 大谷 いづみ.
雑誌名 立命館産業社会論集.
出版者等 京都 : 立命館大学産業社会学会, 1965-
巻号・年月日 47(1) (通号 149) 2011.6


●『わたしを離さないで』考
著者 田中 康子.
雑誌名 公評.
出版者等 [東京] : 公評社.
巻号・年月日 48(7) 2011.8


カズオ・イシグロの"人間の情況"意識 : 『わたしを離さないで』から現れ出るもの
著者 深澤 俊.
雑誌名 人文研紀要.
出版者等 八王子 : 中央大学人文科学研究所.
巻号・年月日 (74):2012


プルトニウム社会に生きる : 核エネルギー小説として読む『わたしを離さないで』
著者 麻生 えりか.
雑誌名 青山学院大学文学部紀要 / 青山学院大学文学部 編.
出版者等 東京 : 青山学院大学文学部, 1957-
巻号・年月日 (55):2013