zames_makiのブログ

はてなダイアリーより移行

アモス・ギタイAmos Gitai

1950年、イスラエル北部の港湾都市ハイファに生まれる。ヨム・キプール戦争第四次中東戦争)で、搭乗していたヘリコプターが撃墜された体験を契機に、本格的に映画制作に取り組みはじめる。82年、『フィールド・ダイアリー』が依頼主であるイスラエル・国営テレビから放送禁止処分を受けた直後、パリに亡命。アンリ・アルカンサミュエル・フラー、ベルナルド・ベルトリッチなど多くの映画人・演劇人と交流を深める。93年にイスラエル帰国。以後も、フィクション、ドキュメンタリーを問わず次々と作品を発表し続けている。

アモス・ギタイの劇映画>
1986 エステル 97分 旧約聖書の物語をイスラエルに読み替える 初の劇映画
1995 メモランダム 行き先を失った建国世代の男 110分
1998 ヨム・ヨム 共存の可能性を描く 99分
1999 カドシュ ユダヤ教正統派の抗争 110分
2000 キプールの記憶 (2000) 監督/製作総指揮/脚本 ◆第4次中東戦争での医療ヘリの活躍。被害者の視点のみで、戦争の後方のみを描く。戦争の継起まったく説明なく傷つくイスラエル兵のみ出る。説明極端に少ないが大げさな強調が鼻につく。後の演出と同じ傾向。

2001 エデン イスラエル人の隠された内面 アーサー・ミラー原作を移す 90分
2002 11'09''01/セプテンバー11 (2002) 監督/脚本 ◆9.11テロより、エルサレムの爆弾テロの方が大事だと言わんばかりの掌編(9分)、同じオムバス集でも今村昌平は「聖戦などない」と実直訴えたのと対照的。

2002 ケドマ 戦禍の起源 (2002)<未>   建国当時の混乱 監督/製作/脚本 ○
2005 フリー・ゾーン〜明日が見える場所〜 (2005)<未> 監督/脚本
2007 それぞれのシネマ (2007) 監督
2007 撤退 (2007) 監督/脚本   ◆2005年のガザ撤退を悲しむイスラエル人、冒頭でパレスチナ男とユダヤ女の強烈なキスをいきなりみせつけて弁解的だが、ラストはただユダヤ人入植者の訴えのみ強調する。映像的にもパレスチナ人の抗議を後景においやっている、明確なイスラエル賛美映画。

アモス・ギタイドキュメンタリー映画
1977「政治的神話」30分 修正主義シオニストの嘘→没収
1980「家」(51分) エルサレムの家での両民族の葛藤→没収→別保存版
1982「フィールド・ダイアリー」(83分) イスラエルの暴力の実態→亡命に◆
1994「戦争の記憶」(104分)
1996「殺人のアリーナ」(83分)
1998「エルサレムの家」(89分)
1998「オレンジ」(58分)
2000「ラシュミア谷の人々ーこの20年」(180分)

アモス・ギタイ ドキュメンタリー・セレクション

Amos Gitai: Documentary Selection 2009年4月21日〜4月25日
第四次中東戦争、ラビン首相暗殺、中東和平交渉の決裂……。激動するイスラエルを内側から見つめる映画作家アモス・ギタイ。彼が手がけたドキュメンタリー作品7本を特集。
アテネフランセ文化センター:http://www.athenee.net/culturalcenter/program/ag/ag.html

家House 1980年(51分)

監督/アモス・ギタイ 撮影/エマニュエル・アルグマ
かつてパレスチナ人が所有していたエルサレムにある一軒の家。この家の来歴を通して、アラブ人、ユダヤ人双方が持つ土地の記憶や愛着を浮き彫りにする。

フィールド・ダイアリーField Diary 1982年(83分)

監督/アモス・ギタイ 撮影/ヌリット・アヴィヴ
ヨルダン川西岸、ガザ地区イスラエル軍侵攻直後のレバノン南部を往復し、アラブ、イスラエル間で激化する暴力の実態とその背景を捉える。

戦争の記憶 Kippur: War Memories 1994年(104分)※ビデオ上映

監督/アモス・ギタイ 撮影/エマニュエル・アルグマ アッシ・ロゼク オフェル・コーヘン
1973年の第四次中東戦争における監督の記憶を、当時撮影した8ミリフィルムの映像を交えながら、生存者へのインタビューや家族による証言を通して紡ぎ直す。

殺人のアリーナ The Arena of Murder 1996年(83分)

監督/アモス・ギタイ 撮影/ホルヘ・グルヴィッチ アリエル・セメル ジャン=ポール・トレーユ
1995年11月4日、イスラエルのイツハク・ラビン首相が、イエメン系ユダヤ教徒イガール・アミールによって暗殺される。この事件の余波を分析する。

エルサレムの家 A House in Jerusalem 1998年(89分)※ビデオ作品

監督/アモス・ギタイ 撮影/ヌリット・アヴィヴ
『家』で描いた場所を再訪し、複数の民族、言語、文化、歴史が混交するイスラエル社会の現実とともに、考古学的な記憶の戦場であるエルサレムの姿を炙り出していく。

オレンジ Orange 1998年(58分)

監督/アモス・ギタイ 撮影/フィリップ・バライシュ 歌/ハンナ・シグラ マーシャ・イッキナ
イスラエル建国前からパレスチナの主要な輸出物だったオレンジについてのドキュメンタリー。産業の近代化に伴い民族間の分断が激化した現実が照射される。

ラシュミア谷の人々ーこの20年 Wadi Grand Canyon 1981年-1991年-2001年(180分)

監督/アモス・ギタイ 撮影/ヤァコブ・サボルタ(1981) ヨッシ・ウェイン(1981) ヌリット・アヴィヴ(1991/2001) ジョルジ・グレヴィッチ(2001)
ハイファ郊外のラシュミア谷の人々を1981年から10年おきに20年にわたって撮影。国内外の情勢の変動に揺り動かされてきた地域社会の姿を記録する。

キプールの記憶(2000)KIPPUR

戦争映画 (ビデオ題:キプール 勝者なき戦場)
映画 118分 イスラエル/フランス/イタリア 初公開年月 2001/12/22  ビデオ化
監督:アモス・ギタイ 脚本:アモス・ギタイ、マリー=ジョゼ・サンセルム
出演:リロン・レヴォ、トメル・ルソ、ウリ・ラン・クラズネル、ヨラム・ハタブ
...ヨム・キップール戦争での監督自身が実体験を基に、救急部隊に配属された若者たちを通して戦争の真の姿を浮き彫りにしていく。ワインローブと友人のルソは、車の中で国防軍のラジオから流れる非常事態宣言を聞いた。エジプト・シリア両軍がイスラエルに侵攻してきたのだ。そして、ヨム・キプール戦争が始まった。兵役に従事していた二人はそのまま基地へと向かうが既に部隊は出発してしまっていた。そこで、クロイツナー空軍医と出会った二人は、自分たちの部隊から離れ、空軍の救急部隊に入ることに。ヘリコプターは病院と戦地を何度も行き来し、彼らは激戦地のただ中で、負傷者を運び出し、また見込みのない者を非情にもその場に置き去りにするという過酷な毎日を送るのだった。
2000年カンヌ国際映画祭正式出品作品。

ケドマ 戦禍の起源(2002)KEDMA

94分 イタリア/フランス/イスラエル 戦争映画 ビデオ化
監督:アモス・ギタイ 脚本:アモス・ギタイ・マリー=ジョゼ・サンセルム
出演: アンドレイ・カシュカール、エレナ・ヤラロヴァ
...1948年パレスチナの地にやってくるユダヤ人、建国の混乱。シオニズム脱構築
インディペンデンス アモス・ギタイの映画『ケドマ』をめぐって(2002)

早尾貴紀氏によるアモス・ギタイ評(パレスチナのオリーブHPより)

「批判的」イスラエル映画監督、アモス・ギタイ(2003年)

近年のイスラエルの映画監督で、世界的にも名前が知られているのは、アモス・ギタイをおいては他にいないと思います。日本でもかなりの作品が上映されましたし、僕もいつかの作品を観ていますが、確かに『エルサレムの家』や『ケドマー』など、ひじょうに面白かったと思います。しかし、近年多くの人がアモス・ギタイを絶賛している中で、そうした姿勢に対し僕は違和感を持っています。それは、一言で書くのは難しいのですが、こういうことです。


ギタイ論でしばしば言われることは、ギタイが高く評価されるべきなのは、イスラエルが抱えているさまざまな矛盾を容赦なくえぐり出しているところだ、というものです。イスラエル・アラブの問題も、パレスチナの占領地の問題も、アシュケナジームとスファラディームの矛盾や、世代間ギャップ、ジェンダー間のギャップ、移民問題、等々も。しかし、1980年代にはいくつかの作品が上映禁止にまでなったはずのギタイの作品は、90年代にはイスラエル大使館の後援を受けながらイスラエル映画を代表するものとして、映像作品の上映会が海外で頻繁に開るようになってきます。この変化は、どうも腑に落ちないと思いました。


このギタイ評価の転換の背後には、イスラエル文化政策の転換もあると思うのですが、ある種の時流に乗った「多文化主義」をイスラエルも前面に押しださなくてはならなくなっている、そういう現状があると感じます。89年からのロシア系の大量移民に始まり、エチオピアからのファラーシャ(ユダヤ起源の改宗クリスチャン)とか、さらには南米諸国やからとか、南アからとか、出身地域構成がどんどん多様化している。さらに加えて、各地からの外国人労働者の増加。現実に、そして必然的に多言語・多文化になっている。そう状況とギタイの仕事は一定シンクロしているように思われます。


他方で、明確にシオニズムを肯定しているギタイは、この「多文化主義」と言われるものを換骨奪胎して、根本的な国家原理であるシオニズムを否定しないかぎりでの、それに抵触しないカッコ付き「多文化主義を打ちだすことで、90年代以降の変化にイスラエルが対応することを可能にしたと言えるような気がします。そうだとすると、国家がバックアップするようになったのもうなずけます。


だから、僕からすると、それでいいのか、不十分なのではないか、逆に、すでに「国民的」映画作家になりつつあるのではないか、とそういう危惧も持つわけです。もちろん、イスラエル国内で一般大衆ウケをするような作品を作っているわけではないのだけれども、むしろ海外向け、外向けの「顔」をつくっているのではないか、つまりある種のプロパガンダになっているのではないか、と思えるのです。彼の多くの作品が海外に出されて高く評価されている事実に鑑みても。


日本でギタイの映画を高く評価している人たちは、イスラエルのことをある意味でよく知っていると思うのですが、もちろんそれは、いわゆる、モサド・マニアとかIDF(イスラエル軍)マニアとかユダヤ・マニアとかでは決してなく、アラブ・パレスチナ人とか占領地の問題とか移民問題をいちおう理解した上で、しかしそれらを抱え込んだ複雑なイスラエルこそが「面白い」っていうことのようです。それは一面で僕もよくわかります。だけれども、そういうイスラエル「国家」の肯定は、「そのようなアラブ人や占領地などの問題を内部に抱え込んでいるのが、まさに我々の姿なのだ」というような、現状をたんに固定してしまう立場に転化できてしまう。批判的な視点を持ちつつも、現実のイスラエルパレスチナ問題を解決する努力を回避したまま、ただ考え込んでいる素振りを保持できてしまうのです。

これが、イスラエルの映画監督の代表的存在とされる、アモス・ギタイを評価する姿勢に対して、僕が感じている違和感です。

注記:四方田犬彦氏もアモス・ギタイシオニズム映画作家と分類している。