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<戦争ドラマ・作品で印象に残るのは何か?>(2007年の朝日新聞記事より)

印象に残るテレビの戦争作品リスト:TVドラマ「はだしのゲン」、TVドラマ「人間の条件」、TVドラマ「火垂るの墓」TVドラマ「私は貝になりたい」TVドラマ「さとうきび畑の唄」NHKスペシャル「原爆の絵」、
「戦争を伝えるこの一作」のリスト:火垂るの墓(映画)/ひめゆりドキュメンタリー映画)/ちいちゃんのかげおくり(絵本)/雨にも負けて風にも負けて(本)/東京の戦争(吉村昭)/七人の遺髪 ソ満国境の開拓団より逃れて(近藤かつみ)/収容所から来た遺書(辺見じゅん)/美空ひばりの「一本の鉛筆」(歌)/あの日夕焼け(鈴木政子)/ガラスのうさぎ(本)/かわいそうなぞう(絵本)/はだしのゲン(漫画)/ビルマの竪琴(本)/

テレビが伝えてくれる戦争の真実 朝日新聞 2007年09月02日

 〈TV端会議〉印象に残る、戦争をテーマにした作品として声が多かったのは、今夏、初めてテレビドラマ化された「はだしのゲン」でした。 「広島に住んで3度目の夏。原作も読み、いろいろ知らなかったこともありショックを受けました。ゲンの母親の『死ぬも地獄、生きるも地獄』というセリフがグサッときます」(広島市・太田サナ江・43歳)
 ドラマ「鬼太郎が見た玉砕」には「終盤、玉砕命令が出て『じゃあ、おまえたちが好きな歌でも歌って死ぬか…』という場面。その歌は、入魂のメッセージだと思えました」(横浜市・でも悩まん・43歳女性)との感想が寄せられました。
 過去の作品では、五味川純平の小説が原作のドラマ「人間の条件」(62年放送)やドラマ「火垂るの墓」(05年放送)が挙がっています。 「『人間の条件』。戦争の中で個人の果たす役割について『押しつぶされるな』とハラハラしながら見た。個人の抑制はいつの時代でもあることで、そんなときに力を発揮する難しさを考えさせられた」(神戸市・高木朝雄・60歳) 「『火垂るの墓』で、孤児にも優しかったおば役の松嶋菜々子が『あんたらのことまで構っていられない!』と変わる姿に、戦争がもたらす狂気の一面を見ました」(京都市・おひるねトトロ・43歳女性)
 フランキー堺主演のドラマ「私は貝になりたい」(58年放送)には、「どこにでもいる普通のおじさんが米兵を殺さなければならない場面は今でも目に焼き付いている。これ以上シンプルな反戦ドラマはないと思う」(大阪府・辻本潤子・45歳)との声が。
 明石家さんま出演のドラマ「さとうきび畑の唄」(03年放送)には「戦争ものは重いイメージがありましたが、見やすく工夫されていて最後まで泣きながら見ました。11月に行く沖縄への修学旅行で、もっと知りたいと思います」(埼玉県・キティ子・16歳女性)とのメールも。
 ドキュメンタリーでは、NHKスペシャル「原爆の絵」(02年放送)に「被爆者が描く、記憶に残る惨状で最も多いのは赤ちゃんをかばってうつぶせになり、亡くなっている母親の姿だった。戦争のむごさがわかります」(宮城県・尾形和子・56歳)との感想が届きました。
 記者もひとこと:8月24日放送の中村獅童主演の「私は貝になりたい」。中村が演じたBC級戦犯の加藤哲太郎もさることながら、死刑判決を受けた哲太郎の再審をマッカーサーに直訴しようとする妹の行動に驚きました。無実の罪をはらそうとする「家族のきずな」なのでしょう。さて、今年は「はだしのゲン」や「鬼太郎が見た玉砕」のような漫画原作の戦争ドラマが力作でした。漫画を次々とドラマ化している昨今の傾向と重なったのは、偶然でしょうか。興味深いです。

〈戦争を伝える私の一作〉朝日新聞 2007年08月15日

生活面で募集した「戦争を伝えるこの一作」には、全国から約100通のお便りをいただいた。文学作品からドキュメンタリー、映画、アニメ、歌まで、多様な媒体にわたり、たくさんの戦争に対する思いがあわせてつづられていた。  

1 「火垂るの墓」 (アニメ版のテレビ放映)
テレビで泣かされた:戦争で孤児となった兄妹の悲劇を描いた作品。兵庫県に住んでいた4歳の節子と14歳の兄清太は、空襲で母も家も失い、身を寄せた親類ともうまくいかない。2人で必死で生きぬこうとするが……。千葉県流山市の中島一浩さん(55)は7年ほど前、単身赴任先の福島県郡山市のアパートで、寝ころんでアニメ版のテレビ放映を見た。金曜の夜、他にすることもなかったので見た結果は、「泣かされた」と打ち明ける。中島さんは、兵庫県西宮市に生まれ育った。アニメには、小中学生のころ自転車で走り回ったふるさとの土地が次々と登場する。当時は戦争への意識は薄く、郷里でこんなことがあったのか、と初めて痛感させられた。「戦争の悲惨さがとてもよく伝わった」と話す。中島さんは、アニメの場面と同じような風景を、見たことがある。95年に起きた阪神淡路大震災の時だ。実家が全壊したと聞き、飛んで帰った。両親は無事だったが、何もかもが壊れていて「地獄絵になっていた」。「震災も戦争も、自分の身にこんなことが起こるはずないと思っている所に降りかかって来る。その悲惨さに、共通項があるように感じます」

2 ドキュメンタリー映画ひめゆり
耳に残った友の一言:沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の教師や生徒で組織した「ひめゆり学徒隊」。沖縄戦では二百数十人の半数以上が自決などで亡くなった。柴田監督は沈黙していた生存者を13年かけて掘り起こし、22人の生の声で映画を構成した。各地で自主上映中だ。東京都八王子市に住む兼次京子さん(79)は生々しさに胸が詰まり、涙が止まらなかった。「私も第一高女の同窓生。あの場にいたら同じ運命を受け入れていた」防空壕(ごう)や高射砲陣地を造るため、建材を運び地面を掘る日々。44年夏、父の転勤で鹿児島県に渡り、結果的に助かった。島を離れる時、見送りに来た仲良しの一人が、別れ際に「いいわね」と漏らした。その一言が今も耳から離れない。彼女は手投げ弾で自決した。兼次さんは「自分が生きながらえたことを、ずっと、後ろめたく感じていた」と言う。「私自身死ぬのは当然と思っていたのですから、教育ほど恐ろしいものはありません。昨年教育基本法が変わり、今年、教科書の沖縄戦の記述から『日本軍が集団自決を強制した』などの文章が削られることになった時、また教育から変わっていく危機感を感じた。一人でも多くの方にこの映画を見てもらい、何が少女たちをこうさせたのかを考えてもらいたい」

3 絵本「ちいちゃんのかげおくり
 紙芝居公演に子ら涙:死んだ人の姿は出てこない。残酷な場面もない。ただ、空襲で家族とはぐれた「ちいちゃん」が、焼け跡で母の帰りを待ちながら死んでしまう姿が淡々と描かれる。「それだけに、よけいに心に残る作品です」と横浜市栄区原和子さん(56)。ボランティア活動で知り合った大泉ひろ子さん(51)と「かみしばいアンサンブルよこはま」を98年に作り、公演活動を続ける。「かげおくり」は主な演目のひとつだ。著者らに許可を得て、今年7月までに計277回上演。1万9280人が見た。紙芝居の絵は大泉さんが担当。原さんはキーボードで音響を受け持つ。空襲などの効果音は、被災経験のあるお年寄りに確認しながら電子音で再現し、曲も作った。作品は小学生の教科書に載っており、小学校で上演することが多い。来年は日系移民らのためブラジル公演も予定している。「ゲームでは平気で人を殺し、リセットで生き返らせる子どもたちが、公演では効果音におびえ、ストーリーに涙を流す。戦争を知らない私たちが、戦争を知らない子どもたちに伝えることは難しいですが、この作品を通じて、子どもたちが一生、戦争を嫌いになってくれればと願いながら、活動を続けています」と原さんは話す。

4 本「雨にも負けて風にも負けて」 [著]西村滋
 息子に読み聞かせた:空襲で親を失い窃盗で生活していた13歳少年、売春で生計をたてていた16歳少女。戦災孤児の施設に入った子どもたちが演劇を始める。練習を重ね、他の施設に慰問に出かけ、公開で上演するほどになる。山口県周南市の小野尚子さん(55)は21年前、長男出産の直前に古本屋でこの本に出あった。戦災孤児の悲惨な暮らしぶりに「強く心を揺さぶられた」という。長男と、一つ年下の次男が小学校高学年のころ、寝る前に読み聞かせた。かつて同年代の子どもたちが、大人が勝手に起こした戦争でつらい日々を送り、心の傷を生涯にわたり残したことを知ってほしかった。目の前で米兵に犯された姉が、川に身を投げるのを目撃した15歳の少女の話なども、書いてあるままに読んだ。同じ子どもの話として心に迫るものがあったようで、2人は言葉もなく聞いていた。次男はその後、高校生の時に自分で再び読んでいた。過ちを繰り返せば、再び多くの人にはかりしれない影響を与える。2人の子どもには伝わったと思っている。何人もの知人に貸し、何度も買い直した。小野さんは「多くの大人と子どもに読んでほしい」と話す。

5こんな作品を推す声も
 「東京の戦争」吉村昭ちくま文庫):戦争をした立場ではなく、「された人々」の視点で、体験者の目と耳を通して生々しく語り実感を持って読める=札幌市、自営業山口博さん(53)
 「七人の遺髪 ソ満国境の開拓団より逃れて」近藤かつみ(揺籃社):目を覆わんばかりの悲惨な逃避行でありながら、著者のまなざしはとても優しく、読みやすい=長野市、大学名誉教授筒井健雄さん(71)
 「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」辺見じゅん(文春文庫):子どもを失った母の悲しみ、戦争そのものの残虐さ。子や孫とともに読みたい=東京都調布市、主婦銅谷孝子さん(74)
 美空ひばりの「一本の鉛筆」(松山善三作詞、佐藤勝作曲):パネルシアターで披露。「一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと私は書く」などの歌詞と歌唱力に感動した=宮城県柴田町、図書館ボランティア尾形和子さん(56)
 「あの日夕焼け 母さんの太平洋戦争」鈴木政子(立風書房):10歳の著者が旧満州から引き揚げた体験記。「茅ケ崎朗読の会」で朗読。今年も15日に平和の集いで語る=神奈川県茅ケ崎市、主婦福田通子さん(56)

〈戦争を読む、見る、伝える〉朝日新聞 2007年08月16日

 戦後62年。生活面で募集した「戦争を伝えるこの一作」には、全国から約100通のお便りをいただいた。文学や映画の名作だけではなく、「戦争を語り継ぐ思いで作った」という自分史の本や小冊子を寄せる人も少なくなかった。一方、戦争体験がない世代がどう伝えるのか。ある男性は「できるだけ現地や現場に行き、自分の目や足で体感することを提案したい」と書いた。朗読会や合唱などで戦争や平和を問いかける取り組みも、各地から寄せられた。子や孫の世代へ。伝えたい、伝えなければ、という思いが投書にあふれていた。

1 本「ガラスのうさぎ」 [作]高木敏子
 自身の体験を描いたノンフィクション。45年3月の東京大空襲で母と妹を失い、敵機の機銃掃射で父も失った少女「敏子」が生き抜こうとする姿を描く。77年に出版後、映画やテレビドラマになり、05年にアニメ映画化された。東京都渋谷区に住む村山緋佐子さん(64)は「テレビで見て感動した。娘が中1のこ読書感想文のための本を相談され、迷わずこの本を勧めました」と話す。村山さんは「敏子」が家族を亡くした大空襲の戦火を、生き延びた1人だ。作品はそのまま自分たちの「あの日」に重なる。当時2歳。東京・御徒町駅の近くに住んでいた。空襲の日は、村山さんがたまたま発熱。風の吹きすさぶ日に、熱のある娘を屋外の防空壕(ごう)へ連れ出すことをためらい、母は自宅にとどまった。村山さんをかいまきにくるみ、村山さんの兄と3人で布団をかぶっていたと聞かされた。その防空壕は爆弾を受け、中にいた人は全員即死。村山さん母子も自宅から焼け出されたが、命は助かった。「警防団員だった父から、母は、防空壕に行くよう指示されていた。ルール違反をして生き残ったせいか、母は戦後も口が重かった。後ろめたさがあったのでしょうか」と村山さんは振り返る。

2 絵本「かわいそうなぞう
 涙で読み進められず:戦争末期、東京・上野の動物園では、空襲でオリが壊れ動物たちが街で暴れることを恐れて、次々と殺されていった。3頭のゾウはえさや水をもらおうと必死に芸をするが、ついに餓死してしまう。実話をもとにした物語。埼玉県川越市の主婦山下誠子さん(59)は、今34歳の長男が小学1年生のとき、夏休みの読書感想文を書くため、図書館で借りた。当時、三つ年下の次男と2人に、毎晩、本を読んで聞かせるのが日課だった。この本は読んでいると、山下さん自身が涙ぐんでしまい先へ進めなくなってしまった。「何度か読みましたが、ゾウが飼育係に芸を見せて、えさを求めるところでは、私が胸がいっぱいになってしまって」。子どもたちも目をうるませながら聞いていたという。3年前に86歳で亡くなった父は、戦争のことは話したがらず、晩年には「戦争で人を殺してしまった」と叫んだこともあった。心に負った傷の深さを思った。「戦争を直接知らなくても、私たちの世代が、そのむごさを伝えていかなければ」。山下さんはほかにも何冊か、子どもの成長にあわせて戦争に関する本を読み聞かせてきた。「でもこの本が一番記憶に残っています」と語る。

3 漫画「はだしのゲン
 生き抜く辛苦も知る:広島での被爆体験をもとにした長編マンガ。「中岡元」が父や姉、弟を亡くしながらもたくましく生きる。週刊少年ジャンプで連載。外国語にも翻訳された。山田典吾監督による実写映画や、アニメ映画、テレビドラマが作られた。実写版の映画を推すのは千葉県茂原市の喜多環さん(42)。「主人公や仲間の孤児たちは殺人などのひどい悪事を働くし、残虐で生々しくお茶の間に流せないような場面もある。でも、そうしなければ、当時は生きられない時代だった、それこそが戦争なんだ、と気がつきました。目をそむけずしっかり見すえて、二度と同じことを繰り返さないようにしなくては」録画しており、毎年8月になると見る。今年も見た。小学生の息子は筋書きを覚えてしまった。昨年は、息子と夫が広島を訪れ、原爆ドームや平和記念資料館を見学した。「私自身は戦争を知らずに育ち、母からB29の話などを断片的に聞いた程度でした。でも、戦争って、実は終戦日で終わっていないんですね。被爆者はその後長く差別を受けたし、それでも生きていかなくてはならなかった人たちの苦しみを思うと、原爆投下で始まった新しい『戦争』があったんだと思います」

4 本「ビルマの竪琴
 心打つ主人公の葛藤:ビルマ(現ミャンマー)での戦いから帰還した兵が語る物語。部隊から1人離れて行方不明となっていた水島上等兵が、敗戦後、日本へ帰る部隊と行動をともにするか悩んだ末、僧として戦死者を弔うために、現地に残ることを選ぶ。小学校で教師をしていた横浜市の河野恒雄さん(62)は、高学年を担任した年度は必ず、朝のホームルームの時間を利用して、子どもたちにこの本を読んで聞かせていた。毎朝10分ずつ、4月から7月ごろまでかけて少しずつ読み進んだ。この本を選んだのは「ストーリーが分かりやすく、しかも起伏に富んでいる」から。自らが小学生のときに映画で鑑賞して、日本に帰るかビルマに残るか、水島上等兵の葛藤(かっとう)が強く印象に残っていた。物語は、水島上等兵が自らの決断を明かす部隊長への手紙で終わる。子どもたちには隊長になったつもりで、水島上等兵にあてて手紙の返事を書かせた。「遺骨の収集が終われば必ず日本に帰ってこい。待ってるぞ」「僕にはなぜビルマに残るのか、理解できない」……。子どもたちが手紙に書いた多彩な発想が興味深かった。今も、その作文の一部は手元に残っている。