zames_makiのブログ

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ひめゆり(2007)

ドキュメンタリー 


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NHK視点・論点 「ひめゆり 記憶と記録」放送:2007年06月22日 教育21時50分〜22時
映画「ひめゆり」監督 柴田昌平
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/3740.html

誰にでも忘れたい記憶、消し去りたい記憶があるものです。つらい記憶を掘り起こし、言葉にして行くのはたいへん勇気とエネルギーのいることです。毎年4月から6月の今頃の時期になると、沖縄では数多くの人たちが、心の古い傷に苦しみ、眠れない夜を過ごします。
 62年前、住民を巻き込んだ大規模な地上戦が行われた沖縄県民の4人に1人が亡くなった残虐な戦争の記憶が、体験した方々のなかでうずくのです。

は、深い心の傷をいまもかかえる沖縄・ひめゆり学徒隊の生存者の皆さんと向き合い、その記憶を言葉にしていただき、映像に収めてきました。足かけ13年にわたって膨大な証言を記録し、ひとつのドキュメンタリー映画にまとめ、現在、東京でロードショー公開をしており、これから全国に順次お届けすることになっています。

その撮影の過程で、生存者のおひとりに、戦後、日記がわりにつけていたカレンダーを見せていただいたことがあります。日付の横に小さな○印がたくさん書き込まれていました。訊ねると、戦場の悪夢にさいなまれた日に印をつけたといいます。毎年、沖縄戦のあったこの季節になると、彼女のカレンダーに○印が増えて行くことに驚きを禁じ得ませんでした。

ひめゆり学徒隊とは、沖縄戦の折に学徒動員された沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒たちのことです。15歳から19歳までの生徒222人が動員され、負傷兵の看護を行いました。最後は軍から切り捨てられ、戦場の真っ只中に放り出され、半数以上が亡くなりました。

ひめゆり学徒をめぐっては、これまで5回、劇映画が作られました。ニュースなどでも断片的に取り上げられることが多いことから、「もう分かっている」「いまさらなぜひめゆりなのか」と思われる方も多いと思います。しかし、ひめゆりの生存者の皆さんが、自らの言葉で体験を話すようになったのは実は最近のことです
 いまだに深い心の傷を負い、一切口を閉ざしたままの人もいます。きょうは、彼女たちの戦後の歩みを手がかりにしながら、戦争がいかに心に深い傷をもたらすかを考えてみたいと思います。


沖縄で、いわゆる精神科の病院が設置されたのは終戦直後でした。沖縄本島北部、現在の名護市の海岸に作られたテント張りの病棟に、戦争後遺症の患者さんたちが百人以上ほど収容されました。
 ひめゆり学徒の生存者の中には、「多くの友人たちが死んでしまった。自分だけ楽な仕事をしていては申し訳ない」と、つらい精神科病棟で働くようになった人たちもいました。
 宮良ルリさんもその一人です。患者たちの多くは、ひどく暴れ、紐で首を吊ろうとするので、裸にして独房に入れられていました。わずかな物音でも「ああ恐ろしい。怖い怖い」と怯えて独房の隅っこで縮こまってしまう患者たちの世話をしながら、宮良さんは戦場の記憶が人間の心をどれだけ蝕むかを目の当たりにし、泣けてたまらなかったといいます。

学徒隊の生存者の中にも、心の傷を乗りこえられないまま亡くなった人もいます。ある少女は、終戦後、郷里に帰りましたが、まもなく、実家で座ったままうつむき、母親が語りかけても反応がなくなりました。「こんなになってしまって」と母親が嘆くなか、1950年、亡くなりました。ひめゆりの学園時代には成績優秀で学級委員も勤めていた人でした。
 ひめゆりの物語は1950年代に入ると小説や映画となって日本全国で大ヒットしましたが、それらは他者がひめゆりを語ったものでした。国の為に殉じた可哀想な乙女たちとして祭り上げられていった一方で、当事者たちは口を閉ざしてきました。
 また、「ひめゆりばかりが取り上げられて」という周囲の視線から逃れるため、ひめゆり学徒隊の生存者であることをひた隠しにしてきた人もいます。ひめゆりの生存者の多くが、自らの体験を口にするようになったのは、1980年代になってからでした。亡き友たちの33回忌を終えたとき、このまま黙って終わってしまっていいのだろうかという危機感が生存者たちの中に芽生えました。子育てを終え、還暦も近づき、第二の人生を迎えようとする頃でもありました。
 語ることを通して、心の傷を乗りこえた人がいます。富村都代子さんは、戦後すぐ故郷の島で小学校教員になりましたが、同郷の学友がみな亡くなったなか、自分だけが生き残って帰ってきた状況に耐えられず、1948年に沖縄本島に出ました。この年、ひめゆりの塔で行われた慰霊祭に列席しましたが、夜、悪夢にうなされました。亡くなった友達が追いかけてくる夢だったといいます。富村さんは3年つづけて慰霊祭に参加しましたが、その度に悪夢を見たため、ひめゆりの塔に行くことができなくなりました。亡き友のことを考えるたびに「生き残った自分たちを恨んでいるのではないか」と苦しみ続けた富村さん。学友たちの魂の苦しみを和らげることができないかと思っていたとき、ひめゆり平和祈念資料館を建設するという話を聞き、活動に参加しました。


ひめゆり平和祈念資料館には、亡くなった教師・生徒たちの遺影が並ぶ展示室があります。資料館がオープンした18年前、富村さんはこの部屋に入るのが怖かったと言います。写真の中の学友たちが自分を睨みつけている気がしたというのです。しかし資料館に通い、若い人に少しずつ体験を語りつづける中で、展示している遺影の表情が変わった、今は友達が微笑みながら楽しかった学園時代の思い出を語りかけてくるように見えるといいます。富村さんを始め、多くの生存者が、語ることを通して、戦後ずっと背負ってきた心の傷を乗り越えたのです。


ドキュメンタリー映画ひめゆり」にはナレーションはありません。13年にわたって撮りためた生存者たちの証言を中心に構成されています。語られる内容は重いものです。しかし地獄を乗り越えた末に紡がれた皆さんの言葉は、恨み節もなく、凛とした力に満ちています。 心の痛みに圧倒され立ちすくみながら、自らの忘れたい記憶に向き合っていった生存者の皆さんの姿は、人間の尊厳を問い続けています。
 明日は沖縄慰霊の日。62年前、沖縄戦の組織的な戦闘が終わった日で、亡くなった戦没者の霊を慰め、平和を祈る日として沖縄県によって制定されました。沖縄戦では、多くの命だけではなく、戸籍を含めた公文書もほとんどが灰燼に帰しました。ですから、沖縄戦がどんなものであったのかを知るには、かなりの部分を「記憶」に頼らざるを得ません。

しかし、第二次世界大戦の記憶をひとり胸のうちにしまいこんだまま墓場へ持って行ってしまう人が沖縄だけでなく、全国にたくさんいます。語るべき人が語らないままにしておくと、他者がそれを都合のよいように語り、場合によっては美化していく危険性もあります。こうした動きに歯止めをかける意味でも、今、忘れたい記憶を丹念に掘り起こし、しっかりと耳を傾けつづける重要性を強く感じています。