zames_makiのブログ

はてなダイアリーより移行

「沖縄映画から状況を捉える!」Vol.2

エスパシオ映画研究会「沖縄映画から状況を捉える!」Vol.2 参考上映「八月十五夜の茶屋」(アメリカ、1956年)占領下の沖縄のアメリカ視点による表象

日時:2013年8月18日(日)
16:00から
資料代:500円
参考上映「八月十五夜の茶屋」ダニエル・マン監督作品1956年(戦後、アメリ支配下の沖縄を考える!)
会場:キノ・キュッヘ:木乃久兵衛(JR国立駅南口下車富士見通り徒歩15分、国立音大付属高校向い、文房具店地下1F 立川バス多摩信用金庫前より立川駅南口行き、又は国立循環で約2分「音高前」下車20メートル戻る)
主催:エスパシオ映画研究会 前身=http://www1.pbc.ne.jp/users/kino9/

八月十五夜の茶屋(1956)オリエンタリズム

=醜いオリエンタリズム映画、日本の民主化を誇るアメリカ人の自尊心*1をベースにコメディ化したもの、1946年の沖縄が舞台だが実際の沖縄はどこにもない
原題:THE TEAHOUSE OF THE AUGUST MOON 123分 製作:アメリカ 配給:MGM 日本公開:1957/01/04 ジャンル:コメディ 監督:ダニエル・マン 原作:ヴァーン・J・スナイダー 脚本:ジョン・パトリック
出演:

  • グレン・フォード(フィズビイ大尉)主人公、落ちこぼれの大尉、沖縄の村の民主化を命じられるが、住民に取り込まれてしまう
  • マーロン・ブランド(サキニ=沖縄人)通訳、アメリカ軍に忠実だが同時にいい加減でもある、フィズビ大尉をいいようにあしらう
  • 京マチ子ロータス・ブロッサム)沖縄人の芸者、村民からフィズビ大尉へ贈り物として贈られる、世話をやき、歌い踊る、村人と異なり一人だけ完全で綺麗な和装である
  • 清川虹子(村民)要求ばかりつきつける愚かな村民、女子民主同盟長に指名される
  • 根上淳(村民)ブロッサムに恋する間抜けな村民
  • ポール・フォード(ピューリー大佐)沖縄人民主化を実施する指揮官、村へフィズビイ大尉を派遣する、腹の出た間抜けな男だが「妻に将軍になる事を約束」している、マッカーサーのパロディと思われる
  • エディ・アルバート(マクリーン大尉)フィズビイ大尉の行状を調べに行くが即座に取り込まれてしまう

感想:

 この映画の日本語版を見る貴重な機会があったので簡単に感想を記す。オリエンタリズムによる歪曲した日本表現が目立つ酷い映画でばかばかしくてまともに見られぬ映画。1946年の沖縄におけるアメリカ軍による沖縄住民の民主化が主題で、これを転倒する(民主化の成功を失敗へ)事でコメディ化している。このため愚かな米軍司令官に命ぜられた愚かな大尉が、沖縄住民にだまくらかされ、芸者をあてがわれて御満悦となり使命を忘れる、学校建設の為の資材で芸者の要求する茶屋(料亭)を立ててしまい、民主化どころか焼酎製造に邁進してしまうというもの。やがて司令官にばれ譴責されるが、さてそこで・・・というドタバタ劇だ。

 展開は
 Mブランドの扮する通訳サキニはつり目メイクで日本人に化け、酷いブロークン英語を話す、彼は沖縄は中国や薩摩藩や日本やアメリカに800年占領され続けた島と紹介し、自分らはどこにも属さない未開人だと示す。また沖縄では混浴は当たり前とわざわざ喋る。
 フィズビ大尉らアメリカ軍は、のどかな沖縄の農村に1人で赴任してきた人と描写される。沖縄の村には、爆弾で徹底的に破壊された町も村も、肉親を殺され茫然自失の沖縄人も、アメリカ軍に収容されその施しで生きざるを得ない境遇も、まったく描かれない。沖縄が完全にアメリカ軍の支配下、後に軍政下におかれ民主主義とほど遠い状態だった事は完全に無視されている。腹が出ていて将軍になりたがっているピューリー大佐がマッカーサーのパロディと見える事を考えれば、むしろこの映画の主題は「日本本土の民主化のパロディ」と見るべきのように思われる。

 フィズビイ大尉は村へ行き、学校建設、民主化女性同盟、食糧の配給を宣言するが、サキニを初めとする村人はまるで理解しない。逆に芸者をあてがい籠絡する。ここで京マチコがフィズビイ大尉の服を無理やり脱がすというひどいドタバタがあるが、これは明らかに性的表現(性交)の隠喩でありかつ性交そのものの表現は避けられている。
 フィズビイ大尉は資材を流用し茶屋(料亭)をたて、そこで京マチコと村人による、芸者の踊りと沖縄民謡の混交した奇妙な疑似日本的供宴が開かれ、フィズビイ大尉らは大喜びする。この場面はオリエンタリズム表現として有名なオペラ「蝶々夫人」の蝶々夫人の家の場面とよく似ている。更にクライマックスではこの料亭が一瞬でセットのように再建され、まさに「蝶々夫人」的雰囲気となる。
 フィズビイ大尉の乱行は指揮官にばれ、転属を命じられた大尉は京マチ子に別れを告げ、芸者は結婚してくれとせがむ、が大尉は断る。ラストでは更に大展開があり二人は仲良く暮らす、というもの。
 この映画が酷いのは
1:ゆがんだ日本人表現が充満した醜いオリエンタリズムの表出(米の日本イメージ=冨士山、芸者、混浴のセット中、芸者が前面に出ている、八月の月を見ながら茶を飲むというヘンテコな精神性の強調)
2:沖縄がほとんど「存在しない」こと。わざわざ「1946年沖縄」と字幕で明示されているが、オープンセットは日本で組まれ、沖縄人は一人も出ていない。戦争(沖縄線被害と戦後の米軍による基地用地接取)を背景にした沖縄の描写はほぼゼロである。
3:にもかかわらずアメリカで芝居も映画もヒットし、1957年制作時に大映が協力し、日本で演劇として上映までされている。少なくとも知識人(三島由紀夫を含む)から強い批判はなかった、むしろ歓迎されたと推測される事だ。2013年での受容も含め、悲しむべきかなである。
4:にもかかわず2013年この映画が多少なりとも娯楽的なのは、沖縄人を演じている京マチ子清川虹子らの演技が十分よいからと感じられる。なぜなら多くの米国製オリエンタリズム映画では日本人役を日系アメリカ人に演じさせ、この為多くの場合ほとんどまともに日本語が喋れず、演技力もほとんどなく、ただ芝居の段取りに従って動いているのが見え見えで興ざめだからだ。この映画の場合、沖縄人役を演じている大映俳優陣はきちんと喜劇的に演技し又京マチ子は素晴らしい踊りと珍しい歌を披露している。しかし同時にそれは日本人による米国オリエンタリズムの下支えとなっているのは皮肉としか言いようがない。

*1:浜野保樹氏はアメリ映画の日本での売り上げの残余=蓄積円によって制作としている(「偽りの民主主義:GHQ・映画・歌舞伎の戦後秘史」浜野保樹 角川書店 2008)、http://d.hatena.ne.jp/zames_maki/20090525