zames_makiのブログ

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映画「ムッちゃんの詩」

(2022年夏の戦争映画)
映画「ムッちゃんの詩」公開1985年 見る。
空襲で親をなくした孤児が周囲から見捨てられ防空壕で死ぬ話。1988年公開の「火垂るの墓」とよく似た状況だがこちらは実際に主人公と会っている中尾町子氏の原作が元で冒頭中尾氏も登場する。

主人公が少女であり子どもを観客に考え、優しい平易な語り口と演出だが、母親の空襲での死、見知らぬ土地での孤立など非情に厳しい状況そのものが訴える力が大きく主人公の悲しい行く末に観客は涙するだろう。また戦争を呪うだろう。こうした「日本人の被害を感情的に訴える手法」での明確な反戦映画だ。

関西共同映画社が制作、大手映画会社ではない低予算映画で空襲場面など燃える市街などごく限定的な再現のみだ。また米倉斉加年以外は有名な俳優は使われていない。監督は経験豊富な堀川弘通だが演出は平易かつ控え目だ。主人公の母が空襲で死ぬ場面など、悲惨さを強く演出された「火垂るの墓」と比較すれば物足りなさがある。だがこれは子どもを観客に考え、悲惨さにより観客がそれ以上の視聴に耐えられず中断を招きかねない事を考え、わざとそっけない物にしたとも言えるだろう。

主人公は12才、父親は既に戦死、東京で母親と家を空襲で失い九州大分の親せきを頼り一人列車に乗る。だが親戚の家も戦争で全滅しており残った従姉の若い娘を頼る。だが結核にかかっており追い出されてしまい防空壕で一人療養する事になる。この状況は非情に過酷で細かく心情を描けば大変な悲劇だ。更に従姉も空襲で死に、周囲に見捨てられ飢え死ぬという悲惨さは言いようがないが映画はあえてあっさりと描いており、ラストの短い告発だけに抑えている。これらの演出も意図的なものだろう。

物語後半では主人公12才、面倒を見る親戚の女性が20才、主人公の友達で原作者の幼女が6才の関係性になっており、体験が原作だが、告発者として朝鮮人を加えるなど多少の創作もされていると思われる。だがそれも控えめである。

主人公は結核であるため洞窟を利用した防空壕に一人療養する事になる。だがそこには空襲の都度周囲の人々が避難してくるのであり、大人たちは主人公の状況(病状、飢餓、劣悪な環境)を知っている。食事を運んでいた親戚の娘が死に飢えていたのもわかったはずだがついに死ぬまで放置される。むしろ結核を理由に防空壕で顔をあわせても避けようとする。こうした状況が「孤児を意図的に見捨てる日本人」を物語として強く告発している。

状況が似る「火垂るの墓」との比較は興味深い。
・母親の死:本作では空襲時に離れ離れになり電信柱の下敷きになる場面だけで死の状況は具体的には示されない。翌日の会話で死が控えめに示される。その一方回想場面では何度も母親が出てきて主人公の孤立が強調される。高畑作では空襲後の多数の瀕死の負傷者、更に包帯でぐるぐる巻きの母親の姿が示され空襲の酷さが映像的に強く示される。

・父親の死:本作では予め戦死が示され回想場面で父親をなつかしむ、高畑作では主人公は父親の死を否定し自分は孤児ではないと元気づけていたものが、終盤にとっくに死んでいる筈との大人の言葉で突き落とされる、悲惨さが強調されている。

・主人公の孤立:本作では東京から大分への移動、更に従姉の働く娼家への移動など幼い主人公の孤立と心細さが段階的に繰り返し示される。高畑作でも似ており親戚の家への移動、更に防空壕へ、更にそこでの困窮など段階を経る。意図的にあえて兄妹だけで生きるという点が異なる。

防空壕での生活:生活が悲惨なのは両作も同じだ。だが高畑作ではそれ以前と異なる2人だけの生活の自由さなど肯定的な面もあり、火垂るの舞う様など物語中の比重は大きい。本作では主人公は防空壕でただ寝ているだけで、原作者と知り合う場面もあるが重みは少ない。

・トマトを盗む:本作では主人公の友人として放浪の朝鮮人が登場しトマトを盗んで生きている。高畑作では兄がトマトを盗む。両作とも農民にみつかり袋叩きになり警察に突き出される。共通してる面が多く、同じエピソードから借りているのだろうか?

・空襲への期待:本作では主人公は防空壕での孤立を嫌い空襲になれば皆がやってきて一人でなくなる、と空襲を期待する。高畑作では兄が空襲でのどさくさにまぎれ食料を盗むようになる。どちらも空襲で被害を受けた主人公がかえって空襲を期待するようになるという皮肉を描いている。

まとめ:全体によく似ている。高畑作は公開後40年経つ今もアンケートで「記憶に残る戦争映画」で上位5本に入る有名作だ。本作もきちんと資金をかけて空襲場面を構成し悲惨さを強く演出し、主人公の心情を強く訴えれば空襲の悲惨さと孤児の孤立で印象深い、人々の記憶に残る歴史的な作品になった可能性がある。だがそれには資金が足りず俳優も使えない。更にそもそも悲惨さを訴えて果たして多くの人が見てくれるのか、という根本的な可能性への疑問がついただろう。それならば全国規模での多くの劇場での公開は難しく、そうした企画は不可能だ。

現在でも東京大空襲を題材にした大規模な劇映画は制作されておらず、そうした大金をかけた力強い反戦映画製作の困難さの根本的な問題はそのままだろう。

 


物語:東京で母親と2人暮らしの主人公は疎開先がなく学校もからっぽだ。父親は戦死し母親は体が弱くようやく暮らしている。母親は大切な小豆をお手玉に入れもしもの事があれば大分の親せきを頼れと言う。ある日空襲で母親と離れ離れになり翌日その死を知る。先生の世話で大分に行くべく一人列車に乗る。

だが大分の親戚はすでに空襲で死んでいた、ただ一人残った従姉が隣町で働いている。そこまで歩く主人公は心細い。従姉は娼家で手伝いをしており回天搭乗員の恋人がいる、彼女は主人公をたった一人の親戚だとして養ってれる。だがその矢先結核が発覚し娼家を追い出される、従姉は主人公を海岸近くの洞窟を利用した防空壕に寝かせ食料をもってくるようになる。

1人だけの防空壕での生活はほとんど寝ているだけ、時折母の形見のお手玉で遊ぶだけだ。そこへ空襲時に周囲の人々が避難してくる、その中には大分で見知った幼女がおり友達になる。又放浪朝鮮人とも友達になる。

やがて大分へ大きな空襲があり従姉は死ぬ。主人公は飢えるが病気もありただ防空壕で寝ているだけだ。近隣の大人は変わらず空襲毎にやってくるが誰も面倒をみようとはせず結核だから近寄るなと幼女に言う。

終戦になるが主人公は死ぬ、それを発見する幼女。火葬へと運ぶ大人に朝鮮人はなぜ知っていて見捨てたのか、と訴えるのだった。