zames_makiのブログ

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東浩紀の南京大虐殺否定のどこが間違いだったかについて

東浩紀南京大虐殺従軍慰安婦について、自分のブログ(http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html)や著書(「リアルのゆくえ」(講談社新書)、「思想地図 Vol.1」(NHKブックス))で曖昧で小難しい書き方だが明らかに否定的に述べている。東浩紀の社会的地位や知識を勘案すればその本心は、単に否定的な見解(南京大虐殺否定論)に過ぎないと言うべきだろう。彼はポストモダンという理論の説明だと言い訳しているが、私から見て実はその基盤にはいくつも大間違いが存在する。

(東の言い方)

ポストモダニズム系リベラルの理論家は、「公共空間の言論は開かれていて絶対的真実はない」と主張してきた(東浩紀ブログ)

南京事件の真実性も象徴に過ぎない/僕たちはもう象徴としてしか使えない/象徴に落とし込めるわけではない/そういうことを絶えず自覚しながら話すべき→だから南京大虐殺があったとは言わないとの意味(nitar氏による東浩紀の講義メモ)

南京大虐殺があったかどうかなんてもう議論してもしょうがない(略)そこでの現実的な解は、南京虐殺があると思っている人とないと思っている人がいて、それぞれが勝手に生きている。(略)あっちが正しいこっちが正しい、と論争をやっても解答は出ない。真実はひとつです。(略)ただ、その真実には論争では到達できない。南京を掘って何十万人もの人骨が出てくればはっきりするけど、それぐらいの現実がないと論争は収束しない。(論座2008年5月号)

僕は最近従軍慰安婦問題については、それがあったのかなかったのか、あまりにも情報が錯綜しているので考えるのをやめる(思想地図 Vol.1、NHKブックス

これに関して既に幾人もの「はてな」会員が東浩紀を批判している。東浩紀が2008年12月5日東工大の授業でこの件について説明した内容(http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081205)を読むと、実は批判の仕方はいくつもあることに気づいたので以下で記す。

この件で東浩紀を批判する理由・視点

(1)日本社会の「常識」に照らしてそれが不適当であるという事
(2)ポストモダンとは「一つの考え方」にすぎないもので、それで社会的事実そのものを規定しようとするのは逸脱であるという事
(3)東浩紀は人文科学(歴史学)の範疇では、真実は定められないとしている。それは間違いだ。歴史学という他の専門分野での根本的な考え方を自分の見方だけで規定してしまっている。そうした東浩紀の不勉強さ・身勝手さ。
(4)東浩紀は口では南京大虐殺を知っていると言うが、本当に知っているのか?知っていてなぜ肯定・否定の両論が並ぶなどという妄言を言うのか?その知識内容の再検討という事。

私は(1)の趣旨での批判を自分のブログに12/15少し書いた(http://d.hatena.ne.jp/zames_maki/20081215)。そして(1)についてはもっとも早く?東浩紀に反対の声をあげた勇気あるtoled氏が、某所でその考え方を明快に述べている。これは数日で消去される予定らしいので、ここに参考部分だけ転載し、これに賛同の意を表したい。なおtoled氏は授業に参加しようとして東浩紀に拒否されたという興味深いレポート(http://d.hatena.ne.jp/toled/20081213)をあげている、この事件だけでも東浩紀の人格的な弱さが見えてくる、これが明らかになっただけでもtoled氏の行為は実効ある貴重なものだと思う。

東浩紀を批判するtoled氏

以下はtoled氏が 2008/12/15 00:21 某ブログコメント欄で書いたもの

2. 僕は東さんやデリダ自体に関心はない

では何をテーマとしているのか? あずまんが歴史修正主義をふりまいても、なおrespectableな知識人として通用してるってこと。いや、別にあずまんに恨みがあるわけじゃないっすよ。けど、これって日本に特有の現象じゃないですか?

Iさんはいまアメリカの大学にいるんですよね? ああいうことを大っぴらに書いて、許容されると思いますか? 大学に残れると思いますか? 大手出版社との関係を保つことができると思いますか?

僕が「常識」と書いたのは、そういうことです。
(略)
以上を総合すると、_僕の立場からすれば_、あずまんとデリダを読み比べる必要はありませんでした。

じゃあ僕は何がしたかったのか?

東さんがああいう発言をして、なおサバイブしている日本は異常だということです。そして僕が最初のエントリーで「常識」という言葉を使ったのは、そういう状況に対する介入を意図してのことでした。それは失敗したかもしれないけど、僕がやりたかったのはそういうことです。

(略)
最初のエントリーはそうゆー野望のもとに問題提起をした。そして↓にみんなを誘導したかった。
http://d.hatena.ne.jp/toled/20070726/1185459828
http://d.hatena.ne.jp/toled/20070727/1185459989

私は上記のtoled氏の意見に全面的に賛成です。なお同様な趣旨である自分の意見も他人のブログに書いたものを本記事再下段に転載しておきます。



(2)については既に批判がたくさん行われているのかもしれない、しかしはっきりそう書いてあるのは見かけないように思う(たくさん探した訳でもないのであれば教えてほしい)。以下に「はてな」で見かけたものを再掲し、このhokusyu氏の受け取り方が本当なんだと確認しておきたい。

東擁護者が覚えておかなければいけないたった一つのこと(hokusyu)

以下はhttp://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20081215 より

大きな物語の終焉」というポストモダンの前提すらこの社会においては共有されていないんだから、(略)「島宇宙」でしか通用しない社会理論を持ち出して、自分の知らない分野のさまざまな問題を無神経に踏み荒らすのはやめましょう。
 (略)
その理論は少なくとも日本の一批評家と彼の信者、その周辺の人々しか前提にしていないのだ

上記の事は東浩紀も十分承知しているはずだし、彼も聞かれればその場ではそう説明するだろう。しかし南京大虐殺に否定的に言及した東浩紀の言い方が危険なのは、歴史論争をなんとなく眺めている一般人や東浩紀の信者(学生)には、ポストモダンっていう新しい歴史研究方法で言えばこうなるのか(←これ間違いね)、とか東浩紀のような新しくて有能な人が言っている事が正しい学問で今までの考え方はもう駄目なんだ(←これはかなり怪しい)と考えてしまいがちな事でしょう。そんな事はないということをここで確認しておきたい、という事です。

 東浩紀のこの件での言い方、およびその信者の間違いは、ポストモダンとは「考え方」に過ぎず、それが社会的事象そのものを規定できる実行力はないということを無視している事ですね
 これは東浩紀自身がその授業で「私的には南京事件はあったと思う」という部分に対応してます、東がここで終われば問題はなかった。しかし東は自分の理論を喧伝するあまり、理論を現実に広げてしまったようだ。授業の後段では東は「南京事件の真実性も象徴に過ぎない/僕たちはもう象徴としてしか使えない」と言い、南京大虐殺の真実などわからない、という言い方になっている。これは東から見て同様な主題「従軍慰安婦」についての「わからないから考えるのをやめる」、と言っているのと照らしあわせると、はっきりしてくる。


 それは間違いだ。理論は理論に過ぎない。実際に社会的事象そのものは、やはり現実が支配している。この場合現実とは、ポストモダンという考え方をいくら南京大虐殺の生存者に説明しても、彼らの傷がなくならないという事、と言えば理解できるのではないだろうか。南京大虐殺従軍慰安婦という「歴史的事実」についてポストモダンは何も情報を提供できない。それを規定するのは歴史学分野での調査と研究であり、ポストモダンという考え方(思想)ではない。


 東浩紀の信者のもう一つの間違いは、ポストモダンとは思想分野における一つの考え方に過ぎず、それが常に正しかったり国民全てに支持されているものではないことを忘れていること。考え方(思想)という分野の中でも他の有力な考え方も現に存在しており、それらが否定された訳ではないのに、ポストモダンが全てだ、と思い込むことです。


 上記は現実に接すればすぐにわかることです。しかし机上の空論を戦わせる専門家や、歴史をネット上の言葉としか考えない方には、現実が見えなくなるという事でしょう。

筆者の東浩紀批判1(再掲)

「絶対真実」はどうか知りませんが、南京大虐殺についての「常識的な真実」は既に定まっています。それらの真面目な議論の経緯自体が既に研究者により成書としてまとまっています。
 あなたはそれを知らないで南京大虐殺を題材に「絶対真実」云々と書いているようだが、それは「地球は丸いか否か」を論じているようなもので、ほとんどの大人はあなたのそうした意見そのもを無視するでしょう。あなたの書いている事はそうした馬鹿げた事です。


 もし「絶対真実があるか?」について意見を書いてまともな読者を得たいなら、もっとあやふやなもの、例えば「神は存在するか」などを題材にするべきです。今の状態では、あなたの提起したい議論以前に、あなた自身が常識のない人間、従ってまともな思考能力のない人間として、ほとんどの大人から分別され、歴史さえをまともに論じられない人間が馬鹿な事を書いていると思うでしょう。


おそらく、あなたは南京大虐殺自体については関心もなく、それがあろうとなかろうとどうでもいいのでしょう。しかし日本と中国の社会はあなたのそうした態度を許しませんよ
 私が12/14(http://d.hatena.ne.jp/zames_maki/20081214)見聞きした南京大虐殺の生存者(黄恵珍さん)は60年以上もその被害を他人に話せず(つまり認めてもらえず)ひどい苦しみを感じていた、何年も経ちやっと話せるようになったがそれでも今も苦しみは続いているという。又中国社会は今も「発言者が誰であろうと」(!)、日本からの否定論に厳しい目を注いでいます。
 あなたは机上の空論が好きなようで現実の社会を理解できないのかもしれないが、この事件は個人にとっても国家にとっても、それほど大きな問題なのです。そして日本と中国の社会がこうした悲惨な事件の「常識的な真実」を受け止め、分かちあうことが和解と平和の前提なのは、その「場」にいれば直感的にわかることです。


 私は東氏が問題のブログを書いた理由は、「南京大虐殺はあったとは言えない」と書いた方が、先端的に見える・目立つ・あるいは右派の論者に注目してもらえる、という非常に「打算的な動機」だと推測しています
 なぜなら、大学など対面でまともな情報交換のできる場にある人間なら、意見交換で「南京大虐殺はあった」とすぐに納得するし当然その前提で物を考えると、自分の学術的な経験に照らして思うからです。あなたには東のような醜い根性に倣ってほしくないのです。

 私は南京大虐殺にはそう詳しくないが、こうした歴史認識に関する議論には詳しいと自認しています。あなたが私のコメントに納得できないなら、学会でのトンデモ発表がどう扱われるかなど、いくらでも答えてあげますよ。

あなたの書いたものは愚かしい恥ずべきものです、反省し撤回すべきです。

筆者の東浩紀批判2(再掲)

>東氏も南京大虐殺はあったと考えていると意志表明しているのですが(崎山)
南京大虐殺はあったと思っています(崎山)
両方を合わせて、東浩紀および崎山伸夫は、それぞれ自身の南京大虐殺否定を暗示する、そのブログは即刻撤回すべきです。

あなた方のブログでの言い方を中国の方はどう思うでしょうか?それに相対して生きている日本人にあなた方は何をしているのか?

 そこで見えてくるのは「机上で小難しい事をひねくり回したいだけ」のあなた方が遊ぶ余地はない、そうした行為は「知識人とは言えない」と言うことです。この題材は机上の空論にふさわしくない。
 東浩紀&崎山伸夫は南京大虐殺はあったと言いながら、否定論のような事を書く、それを多くの大人は「東浩紀&崎山伸夫はこれに乗じて売名行為をしたらしい」「日本人にとって南京大虐殺とは所詮そんな問題に過ぎない」「そこには彼らの祖父たちが犯した日本の犯罪行為への反省は見当たらない」と思うのは当然でしょう。

あなた方は机上の空論で遊びたいなら、なぜ「広島に原爆は投下されなかった」「東京大空襲などなかった」と言わないのですか?これらは、単なる私の思いつきではない、2008/12/15再放送されたTBS番組「ヒロシマ」では、原爆開発者が「原爆なんて大きな爆弾にすぎない、それは真珠湾やバターンで死んだ兵士と同じだ、特別な事じゃない」とはっきり言っています。こうした考え方は現在でもアメリカでは多数派でしょう。また日本政府は東京大空襲被害者のおこした裁判の中で「東京大空襲があったかどうか私たちは知らない」と述べています。あなたは日本政府が今までほとんど資料収集をせず、今否定している東京大空襲をどうやって証明するのですか?

東浩紀がなぜ「広島に原爆は投下されなかった」を題材にしないのか?理由は簡単でしょう、彼にとって不快だから、そして日本での受けがよくないからです。なぜそうなるか?それはこうした戦争に関する発話者のナショナリズムに関わってくる。つまり自国の被害には敏感で、他国の被害には恐ろしく鈍感だということですね東浩紀はおそらくそうしたものも含めて、この題材を利用したいのでしょう。

・・・・それは醜い、それはサイードの言う知識人のする行為ではありません。東浩紀&崎山伸夫はそれを反省し、ブログの記述を撤回すべきです。

筆者の東浩紀批判3(再掲)

東浩紀を日本と中国の社会が許さないとは何か?

東浩紀は批評家だ、しかし自分のブログであんなことを書く東の批評を信頼できるのだろうか?例えば映画だ、2008年私は南京大虐殺を描いた2つの映画「南京の真実」、「Nanking」(2007年米国製ドキュメンタリー)を見たが東浩紀がもしそうした映画を批評した場合、上記のような認識の東浩紀の書く事は恐ろしく信頼性に欠けるし、「従軍慰安婦がいたか否か考えるのをやめる」所から出発するなら、その批評は非常に危険なものになるだろう。
 これは戦争を題材にした映画への批評全てに言える事だが、戦争そのものへの知識と考え方が、批評の基礎になっているのは動かしようのない事実である、これは戦後のキネマ旬報を読めばすぐに分かる、戦争を体験した世代の批評家が退いた1990年代以降その批評は明らかに変わった。

 これに対し恐らく崎山伸夫や藤田は「戦争など知らない、知らなくてもよい」とし「ポストモダンの批評の考え方だけあればよい」と答えるだろう。しかし戦争という題材が恐ろしく政治的なのは、東浩紀も否定できないだろう。その政治性を理解し、その常識の範囲内で批評を行うことが求められるのが現実だ。そこには東浩紀がブログで書いたような考え方は入る余地はないと私は思う。

 私の見方が正しいか否かに白黒がつくのは、そうした戦争などを題材にした政治的な文芸作品について、東浩紀がブログで書いたような考え方を基礎に批評を書き、それに日本社会がはっきり反応した時だろう。だが少なくとも今は、東浩紀は書いていないようだし、書ける可能性はないと私は思う。

東浩紀を日本と中国の社会が許さないとは、そういう事、書ける可能性はないという事だ。