zames_makiのブログ

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「風立ちぬ」は戦争肯定だし酷くツマラナイ映画だった

映画「風立ちぬ」が興収100億に行くような大ヒットになっているようだけど、あんなにツマラナイ映画なのになぜ見に行くのだろう。最初と締めが自分勝手な夢のシーンで、中は御都合主義的で起伏のない設計者の話。クライマックスになっても零戦は出てこないし、何よりただ作っているだけで、飛行機がどう活躍したかどう素晴らしいか、それによりどんな社会的意味があったか、設計者がどこに工夫しどう思っていたか、何もない。あの外国人は何なの?そもそも二郎はなぜあのホテルに行ったの?ストーリーはご都合主義そのものだろう。

(追記)戦争に対する態度と関係なく、ストーリーと演出面で最低につまらない映画だ。映画の興奮=面白さは普通、対立・葛藤から生まれる、即ち主人公のある行動が何らかの壁に突き当たりそれをどう克服するかが、普遍的な意味での面白さである。この映画の場合、主人公が設計者になる苦労話は「ない」、設計上での苦労話は「ない」、設計者と周囲=社会との対立も「ない」、恋人と設計とどちらを取るかの葛藤も「ない」面白くなる要素が何もないのだ。恐らくそれは下記の戦争に対する態度に関係ある、この映画では主人公と戦争との関係をほぼ全て消し去ったため、上記面白さを生み出す要素(つまり戦争中でのアレコレ)を全て放棄せざるを得なかったのだろう。本当につまらない映画だ。

この映画の戦争に対する態度は以下で十分だろう、本当に酷い映画だ。

映画「風立ちぬ」の戦争に対する態度について

以下はあるMLに投稿されたもの

日本のアジア太平洋戦争を否定し反戦の立場である場所で、なぜ宮崎駿の「風立ちぬ」を批判する声が聞こえてこないのでしょう?あの映画は事実上、東條英機を肯定した映画「プライド」と同じような反動映画でしょう。

風立ちぬ」は零戦設計者の話といいながら、設計者の戦争責任を問わざるを得ない悲惨な話になるから零戦は登場させず、戦時中に戦争に強くかかわった実在の人物の話なのに戦争の様相や意味はまったく描写しません。逆に「飛行機は兵器じゃない純粋に美しいモノだ」と主人公に夢の中で言い訳させる暗黙の戦争肯定映画になっています。

毎日新聞(7月21日・日曜版)では藤原帰一氏が「戦闘機の美しさは戦場の現実と裏表の関係にある(略)戦争の現実を切り離して飛行機の美しさだけに惑溺する姿は(略)子供っぽい」と批判しています。宮崎駿氏は、自分で告白しているように、戦車の寸法などの仕様表だけを眺めても嬉しくてニヤニヤしてしまう程の、究極的な”兵器オタク”です。

兵器オタクの言い訳の「兵器は好きだけど戦争は嫌い」が現実社会ではあり得ぬ口実なのは、零戦をB29や原爆と置き換えれば日本人ならすぐに判ることです。宮崎もそれがいけない事だと十分知っているから憲法9条支持を訴えた雑誌「熱風」を配ったのでしょう。しかし映画の影響力の方が雑誌よりはるかに大きいし、映画人である彼がやるべきだったのは、映画で憲法改悪に反対することでしょう。だが宮崎駿がやったのはその正反対の「兵器いいじゃん」だった訳です。


風立ちぬ」を見て上記のように感じなかった方は、以下のNHK番組と比較して考えてみてください。

NHKBSプレミアム「零戦〜搭乗員たちが見つめた太平洋戦争〜」(前・後編)放送:2013年8月3日(土)・10日(土)午後9:00〜10:30
零戦はなぜ悲劇的な運命を迎えたのか。そして渦中に置かれた搭乗員たちはその現実とどのように向き合ったのか。番組では、今は僅かになった元零戦搭乗員の証言や零戦を作り上げた天才設計者の苦悩と葛藤など、零戦をあらゆる角度から描き、その全体像に迫ります。また、最初の特攻隊の一員として戦死した搭乗員・大黒繁男さんとその家族の物語をドラマで描きます。」
http://cgi4.nhk.or.jp/navi/detail/index.cgi?id=09_0005

映画を見ていない人でもわかる、なぜ「風立ちぬ」が戦争肯定映画か

理由:
1、戦時中に戦争に強くかかわった実在の人物の話なのに戦争の様相や意味はまったく描写せず、全体を楽しげな夢で物語を終わらせるから。

こうした物語が戦争肯定なのは、これに例えればわかるはずです「原爆やB29を開発した技術者の開発での苦闘の様子と輝かしい成功、そして恋人との愛情を描いておきながら、被爆者の様子はまったく描かない映画」。こうした映画は原爆投下を肯定する立場でないと制作できません。そして実際アメリカではそうした映画が何本も制作されており、その最初のものが「始めか終りか」http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=17972、であり占領下の日本でGHQにより意図的に公開されています。またアメリカで大きな論争をよび結局、被爆者の展示をやめたスミソニアン博物館でのエノラゲイ展示の方法も同じ枠組みになっています。


 戦争を肯定する側は、戦果と明るい面を強調し、戦争を批判する側は被害と暗い面を強調する、これは映画においては事実です。宮崎駿はそれをよく理解しているはずです。なお映画「風立ちぬ」の中で戦争・戦闘の描写はまったくありません。


2、より具体的に言えば、この映画では、批判され戦争反対の種になる「残酷な殺人の機械」を批判のおきにくい「美しい機械」として観客に錯覚させるよう作られているからです。
 映画を見たある女性はクライマックスで主人公が設計に成功する飛行機は、単に何かの試作機としか理解していませんでした、つまり主人公の好きな「美しい飛行機」と受け取った訳です。しかしあれは明らかに九六式戦闘機であり、それは製造直後に中国戦線に投入され多大な成果をあげました、つまり多くの中国人兵士を殺した残酷な機械だということです。

 宮崎駿は映画「風立ちぬ」に零戦を登場させないだけでなく、その映画の中で意図的に戦争を隠しているという事です。